「派手にやられましたねぇ」
 上着を脱ぎ捨て近くの石に腰をおろすと、救急箱を片手にした麗二が微苦笑する。服すら汚れていない彼の横には、やはり別れたときのままの格好の光晴がいた。
「……バカに刃物持たせると危険って事がよくわかったよ」
 水羽は不機嫌に返した。
「ジャックナイフ分、距離がつかめなかった」
 そう続けて、むすりとそっぽを向く。
 光晴は点々と赤い花を咲かせるシャツを拾いあげた。胸を大きく引き裂かれたシャツには、それ以外にも斬りつけられた跡が生々しく残っている。
 ナイフを深く差し込まれた場所は、そのまま水羽の体の傷に繋がった。
 ギリギリと水羽は奥歯を噛みしめる。
 俊足を誇る自分が、あれほど手こずるとは思わなかった。繰り出される刃の多くは辛うじて避けることができたが、それでも気づかぬうち傷は確実に増えていた。
 武器を扱い慣れているというだけの理由であそこまで苦戦を強いられたりはしない。
 鬼頭の庇護翼である水羽は、響に一太刀も与えることができなかった。
「あいつ、身体能力が思った以上に高い」
 認めるのは癪だが水羽は自分が感じたことを素直に二人に告げる。
「みたいやな」
 水羽の言葉に頷きながら光晴はシャツをたたんだ。
 椅子を引き寄せて救急箱の蓋を開いた麗二は、ほんの少し柳眉を寄せてから溜め息とともに口を開く。
「もともと、三翼候補だった鬼ですから。能力だけで言えば随一でしたよ」
 意外な言葉に光晴と水羽は言葉を呑み込んだ。神無に害をなそうとし、過去にもえぎにも声をかけていたらしい堀川響――どうやら、麗二にとって個人的なブラックリストに入っているらしい。
 本来なら明かされることのない庇護翼候補の名を導き出した麗二は、その瞳を屋敷へと向けた。
「庇護翼候補……五人おったうちの一人か。手強いはずやな。ヤツの庇護翼は――まあ、多少はできるみたいやけど問題ない」
 キャンピングカーの中のテーブルには、二人から回収した毒の塗られたナイフがおいてある。
 いまだに何が調合されているのか見当もつかないが、ようは受けなければいいのだと光晴は暗に語っていた。
「……それ、本当にヤバいかもしれない」
 消毒液が刺すようにしみて、水羽が顔をしかめながら光晴を見上げた。
「華鬼が喰らってた」
 一瞬、光晴の顔色が変わる。
「毒をか――!?」
「うん。ボーガンで狙われた神無を守ったんだよ。肩に刺さった矢を肉ごと引きちぎってた。たぶん即効性の毒だと思う。ほとんど意識なかったみたいだから」
「――守った、か。ホンマ、ややこしいヤツ」
 光晴は小さく呟いて、ガリガリ頭を掻いた。
 己の意志と本能のどちらが強いかを秤にかければ、多くの場合は本能の比重が勝る。
 ぎりぎりの状態で華鬼が神無を守ったのであれば、彼の本能は表に見せ続けているそれとは違うことになる。
 偽りで塗り固められた鬼が隠し持つ今までに一度として語られることなかった心の断片――消えることなく胸の奥に存在し続けたそれが、初めて現れたのだとしたら。
「……まぁ、いまさら譲ったらんけどな」
 同じ事を考えていたらしい光晴が毒づくようにモゴモゴと言う。
「譲れませんよねぇ」
「うん」
 麗二に続き水羽が頷くと、ぎょっとして光晴が体をひいた。
「ってなんや!? 盗み聞きか!?」
「声大きすぎだよ」
 呆れたように苦笑すると、着々と手当てを進めている麗二も頷いた。
「こればっかりは華鬼に任せられませんので。――お二人にも」
「……麗ちゃん……なんや爽やかにわろうても、目ぇごっつマジなんやけど」
「気のせいですよ」
 顔面に貼りつくような笑顔でそう言って、麗二は考えるように一瞬だけ空をあおいで再び手を動かした。
「明日で約束の三日ですから、家が直ってなかったら一樹さんと拓海さんにお仕置きして、辞表の書き方を調べて」
「――辞表?」
 怪訝そうに水羽が聞き返すと、麗二は手早く治療をしながら頷いた。
「保健医を辞めたら皆さんと対等でしょ?」
「……」
「……」
「楽しみですねぇ」
 浮かれながら話す麗二を見て、水羽がこっそりと近付いてきた影を辿るように視線を上へと移動させた。
「……対等って……」
「まさか生徒になろう思うとるんやないやろな?」
「それっぽくない?」
 上機嫌の麗二を目の前に、二人同時にブレザー姿の彼を想像して顔を引きつらせた。今まで散々保健医としてその腕をふるってきた麗二が、いまさら別の立場となって学校に入ろうということ自体に無理がある。
 第一、外見からして生徒≠ニして学校に籍を置くことは無理だろう。
 教職員以外になれるとしたら用務員だ。
 だが、多少のリスクには目をつぶりその腕を認められ保健医として働いているのだから、麗二の辞表はあっさり破り捨てられるに違いない。
「却下やな」
「だよね。……どうする?」
「珍しくネジはずれとるさかい、ほっとこか」
 ボソボソと話し合って頷く。機嫌のいい保健医は、恐ろしいスピードで水羽の治療を終えて小首を傾げた。
「なにか?」
「いや〜いい手際やな? なんなら、華鬼の手当てもしに行くか?」
 引きつり笑顔を返しながら問うと、そういえばと、麗二は顔を館に向けてさらに首を傾げた。
「華鬼の怪我はひどかったんでしょう? そのわりに動きがありませんね」
「……せやな」
「家の外に誰がいるのかも、もう知っていてもよさそうなものですが」
 もっと大騒ぎをしてもいいはずなのに、屋敷は今まで通り何の変哲もない時間をおくっていた。
 屋敷の間近で未知の敵にあれだけ派手に襲われ、華鬼が深手を負って意識がないとなれば、パニックをおこしてもいいはずだ。
 だが、屋敷は沈黙する。
 まるでその事実すら隠蔽するように。
「……昔からだよ。そこらへんに無頓着なの」
 ポツリと水羽はそう答え、椅子代わりに腰掛けていた石から立ち上がって新しいシャツに袖を通す。
「昔から……?」
 水羽の言葉に少し驚いたように光晴が目を見張った。
 そう、昔からそうだ。
 10年間世話になった屋敷には、鬼頭≠フ居場所はあっても華鬼≠フ居場所がなかった。
 初めこそその状況に戸惑いを覚えたものの、いつしかそれが普通になっていた。
 華鬼は、鬼頭。鬼の長たるべき者。
 誰の手も借りずに、己の力のみで生きていくさだめの者。
「……おかしいよね。華鬼は鬼頭だから、騒ぐなだなんて」
 たとえ何があっても手出しはするなと、きつく忠尚に言われていた。その言葉を受けるように、死すら己の中に取り込んで、華鬼は鬼頭として生き続けている。
「鬼頭、だから……?」
 思わず反芻する光晴に頷きかけ、水羽はその途中で視線を樹海へと投げた。
 野鳥とは違う気配が動く。
 乾いた枝が小さく音を立てると、単調な色彩の中に別の色が生まれた。鮮やかなそれは、見慣れた少年の見慣れぬ姿だった。
「雷太?」
 明るい栗色の髪を揺らしながら、どこかおぼつかない足取りで慎重に少女が歩いてくる。木の枝にスカートの裾を取られないようにたくし上げるその姿は、可憐な容姿には似合わないほど大胆だ。
「足ひねるなよ!」
 少女の後方から苦笑して男の声がかけられた。
「わかってるよ!」
 少女は背後にそう怒鳴って、そして声をあげた。
「水羽!」
 まさしく花のような笑顔で主の名を呼んで、少女は嬉しそうに大きく手をふった。
 声と容姿のギャップが激しい。黙っていれば美少女なのに、口調は元気な少年のそれだ。
 少女――雷太は、キャンピングカーの前で唖然として見詰めてくる三翼の反応に怪訝そうに眉根を寄せ、すぐにその意味をさとって真っ赤になった。
「これ! これは仕事――!!」
 きっちり三歩後退して、見事な地声で怒鳴ってくれる。
 それを見て光晴が噴き出した。
「や……見違える。えらいかわええやないか?」
「……嬉しくないです」
 格好よく花嫁を守りたいらしい雷太は、すごすご近づいてきてうつむいたままそう返す。
「風太も同じ格好してるんだけど、並ぶと人形みたいですよ」
 忠尚の庇護翼が身につける黒スーツを着た郡司が光晴にそう言うと、キッと雷太が振り向きざまに彼を睨みつけた。
「オレだってあと20センチ身長が高きゃ郡司と同じ服着てたよ!」
「そりゃ残念。見たかったのに」
 大げさに肩をすくめられ、雷太が悔しそうに地団駄を踏んだ。容姿のせいでその姿すら可憐で、見る者から思わず苦笑がもれる。
「まぁ、あの屋敷に忍び込むんなら変装は必須やろ」
 自然と緩みそうになる顔を意識して、光晴は大きくひとつ咳払いをした。
「それより中の様子はどうなんや? 見た目、ほとんど変わらんようやけど」
 光晴の問いかけに、雷太と郡司が顔を見合わせる。彼らはすぐに三翼に向き直り、真剣な表情になった。
「そのことで直接伝える必要があって持ち場を離れました」
 いつになく硬い声音の郡司に、光晴が瞳を細める。
「オレも――水羽に伝えなきゃいけない事があって」
「……なに?」
 改まったようなその姿に違和感を覚え、水羽は言葉すくなに問いかけた。
 わずかな沈黙の後、二人は申し合わせたように口を開いた。
「しばらく任を解いてください」
 意外な――むしろ、例外といってもいい内容に、二人の主は返す言葉も忘れていた。
 よほどの理由がない限りは主の意志に従うのが庇護翼だ。無理難題を言われても主の要望に応え、それを完璧にこなしていくのが仕事だった。
 主が見切りをつけて庇護翼を解任することならある。非常に稀ではあるが、ないわけではない。
 しかし、その逆はといえば皆無といってもいいほど少なかった。
「……任を、解けって?」
 光晴が二人を見詰めながら静かに問いかけると肯定するように頷いた。
「オレたち四人の」
 緊張で硬くなる声で、郡司がそう語る。
 主に背くことの意味を誰よりも知る鬼たちは、ほんのわずかな動揺を見せて口をつぐみ、そして溜め息をついた。
「――理由は? それ如何いかんじゃ永遠に解くよ」
 不名誉ともなる水羽の幾分きつい言葉に、雷太はピクリと肩を揺らした。彼はとっさに顔をあげ主の顔を凝視した。
 何かを訴えるように目を見開いて、それを押し留めるように息をのむ。
「水羽のめいじゃなくて――オレは……」
 雷太が口ごもると、
「忠尚様の命なんです。生家にいる庇護翼¢S員に対して、ひとつだけ」
 郡司はそれを継ぐように抑揚なく続けた。
「鬼頭とその花嫁を守れと」
 郡司と雷太の背後に控える桜の樹木にかこまれた屋敷から黒い影が吐き出される。
 多くの影は四方へ散り、その一部が建物の屋根に移った。
 屋敷の周りを囲むように移動する影は、一定の距離を保ちながら建物全体を覆うような配置に広がり、死角となるであろう場所を完全に取り除くような位置で静止する。
「これよりさきは忠尚様の許可なき者は排除の対象となります」
 郡司の瞳が黄金に染まる。
「たとえそれが三翼であっても」
 敵意すらにじませるその声音の意味をいやというほど知っている光晴は、それ以上言及することなくただ静かに頷いた。
「ごめん、水羽。――行ってきます」
 雷太はウィッグをはずしてそれを水羽に手渡し、顔をそむけて逃げるように屋敷に向かって走り出した。
 その逆に、郡司は落ち着いた様子で再び深く頭を下げてから踵を返して雷太に続く。
「……あんな顔されたら、クビにはできないだろ」
 ウィッグに視線を落として深く溜め息をつき、水羽はそうぼやいた。
 主に従わずに別の鬼の命を受けるなら、それを理由に庇護翼を解任しても他者から非難されることはないだろう。
 だが、不安そうに震える声とその内容を耳にしてしまっては、そう簡単に斬り捨てることはできなかった。
 館の中の独特の空気を知っている。
 忠尚を頂点として作られるあの空間は、完全な孤立した世界として存在しているのだ。
「帰る場所、決まってるみたいですね」
 ふっと麗二が微苦笑して水羽を見た。
「一回だけだよ。まったく」
 ウィッグを麗二に渡してシャツのボタンをはめ、わざと不機嫌な顔を作って水羽がいささか乱暴な口調でそう返す。
「……忠尚様≠チて……何があったんや?」
 屋敷を見詰めながら複雑な表情で光晴がうなっている。
 自らの主に対しても敬称の一切を使わない鬼の中で、様付けされるとはたいしたものだ。郡司が解任を求めたことよりどうやらそちらがショックでならない光晴は、うなりながら頭を抱えた。
「あそこ潜り込んで一日やろ? 催眠か? 洗脳か? 電波なんか――!?」
 納得がいかないらしい。
「ま、行動バレバレってことで、逆手とられちゃいましたね」
 あっさり返され、光晴がさらに落ち込んでいる。
 そんな姿にやれやれと笑いながら、水羽は屋敷に視線を向けた。
「……初めてだな、親父さんが華鬼を守るの」
 忠尚の庇護翼20人に新たに4人を加えて作られた守りは鉄壁ともいえるほど乱れがない。
 水羽に並んで麗二も屋敷を見詰めた。
「無頓着どころか意外と過保護なんじゃないですか?」
 麗二がクスリと笑う。
 水羽が驚いて彼を見ると、そうでしょうと囁いて麗二が笑みを深くした。
「自分の立場を考えて、たぶん彼なりの最良の方法をとってこられたんだと思いますよ。口でどんなに言っても子供は可愛いですから」
「……どうかなぁ」
 肯定も否定もできず、水羽は苦笑する。
 顔をつき合わせれば剣呑な空気を作り出す親子を思い浮かべて、水羽はもう一度苦笑して屋敷へと視線を戻した。
「さて、華鬼はどのくらいでもとに戻るんでしょうね」
 どこかのんびりとした口調で麗二が水羽に言葉をかける。
「わかんないけど――そのあいだ、堀川響が静かに待ってるとは思えない」
 木の枝に引っ掛けられた双眼鏡を手にし、水羽は桜の樹木を見詰めていた。
「……たぶん、すぐには動かない」
 一通りチェックして、水羽は双眼鏡を下ろした。
「華鬼と神無が一緒にいるトコ狙ってるんじゃないのかな、アイツ。チャンスいっぱいあったのに、全然動かなかったし」
「……性格悪ないか?」
 頭を抱え続けた光晴は水羽の言葉に反応してパッと顔をあげた。
「最悪。華鬼が動けないなら、屋敷内に入っておいたほうがいいと思うんだよね」
 水羽のその言葉を聞いて、散々悩んでいた光晴の表情が不気味なほど明るくなる。
「せやな! 何とかして入らなあかん! 今から行くか!?」
 妙に生き生きとしている彼に、水羽が怪訝そうに顔を向けた。
「今日はあの厳戒態勢崩れないでしょ」
「じゃあ明日やな!!」
 光晴がウキウキと声を弾ませる。
 彼は声と同じように弾む足取りでキャンピングカーに入り、すぐに満面の笑顔で戻ってきた。
 その手には、昨夜屋敷に入って電話で取り寄せた大きな紙袋が持たれている。光晴はそれを不思議そうに見詰めてくる麗二と水羽にむかって差し出した。
「ほな、明日はこれに着替えて出陣な!!」
 そこにはレースのふんだんに使ったヒラヒラのドレスと、上品な女性用のスーツが一着ずつ入っていた。

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