視点が定まらない。
薄く膜をはったように輪郭を崩す世界を華鬼はただぼんやりと眺め、そしてようやくそこが自室であることを理解する。
体をわずかに動かして、鋭い痛みにほんの少し柳眉を寄せた。
視線を移動させると痛みの出所である肩に包帯が巻かれているのがわかった。
血がにじんでいる包帯が浴衣の襟から覗いていた。
華鬼はゆっくり体を起こす。
矢の毒を肩の肉ごと引きちぎったあとの記憶が、ひどく曖昧になっていた。
傷が手当てされているという事は、近くに誰かいたのだろう。布団を敷き、浴衣に着替えさせたのもその誰かに違いない。
なかば茫然として、華鬼は右手を見た。
その手は、左肩を止血するためにその肉を掴んでいたはずだ。
怪我がひどければひどかっただけ無条件に動いてきた体だった。矢に塗られた毒は肉ごとえぐったとはいえ、それは完全だったわけではない。
それに加えあの出血だ。今までの彼なら、気を失っていてもまず間違いなく目が覚めるまで右手は止血を続けていた。
けれど今、彼の肩には丁寧に包帯が巻かれている。過去に一度も手当てされることなく怪我のすべてを放置していた体には不釣合いなほど、その白が鮮やかに瞳の奥に飛び込んでくる。
「誰、が……?」
掠れた声で、茫然と問いかける。
彼は重い体をゆっくり起こし、熱に浮かされたようにかすむ目であたりを見渡した。
広い室内には誰もいない。
茫洋と見渡していると、布団のすぐ脇に水の張った洗面器とタオルが置かれ、その隣に水の入ったグラスがあることに気付く。
華鬼はグラスに手を伸ばし、それを一息にあおった。
安堵に似た溜め息をつき、再びあたりを見渡す。家具の一切を取り払われたその部屋には時計すらない。
外は明るいが、今が朝なのか昼なのか――自分がどれくらい意識を失っていたのかがよくわからなかった。
華鬼は布団から出て立ち上がる。
ぐらりと視界が揺れた。足元の畳がうねるような感覚によろめきながら、それでも足を前に出す。
吐き気が込み上げてくる。それと同時に、頭部が殴られるように痛んだ。
布団へ戻って横になれば少しは楽になれるかもしれないと思いながらも、なぜか足だけは
まるで何かを探すように、視界が揺れ続ける。
ようやく辿り着いた壁に体を預け、華鬼は細く息を吐き出した。
壁伝いに部屋を出て、歪み続ける視界と足元に柳眉を寄せながらも彼は廊下を歩き出す。なんとか平静を装っているためか、すれ違う者たちは一瞬驚いたように目を見張りはするものの、これといって言葉をかけてはこなかった。
どこをどう歩いたものか、彼はいつの間にか大広間に辿り着いていた。
漂ってくる食事の匂いに胸の奥がムカムカとしてくる。昼食時らしい。それだけをようやく判断して、大広間の奥から聞こえてくる品性の欠片もない足音に立ち止まった。
襖で仕切られた室内がざわめくと、閉め切られていたそれが華鬼の目の前でスライドした。
足音の主が華鬼を見て驚いたように目を丸くする。
彼の後方でざわめいていた声はすぐさま消えた。
「華鬼」
忠尚がじろりと華鬼を見て、それからニッと口元をゆがめた。
初めて目にするような、どこか満足げな笑み。彼はちらりと背後に視線を投げる。
いつ見ても呆れるほど朱塗りの膳がきっちり並べられた大広間での食事時の風景。そこには忠尚の花嫁たちが腰を落ち着け、廊下に立つ華鬼を見詰めていた。
忠尚の視線はその中で唯一立っている神無に向けられていた。
真剣な表情の神無を見詰め、
「お前、なかなかいい花嫁を選んだな」
華鬼にだけ聞こえる声で忠尚は小さくそう言葉をかけ、茫洋とした表情の彼の脇を通り過ぎた。
ごく自然に華鬼の視線は忠尚の背中を追う。
その途中で、視界が揺れた。
「華鬼……!」
小さな悲鳴のような声とともに不思議な香りが全身を包む。瞬時に全身の力が抜けると、細い体が寄り添って彼の体を支えた。
かすむ視界の中心で、心配そうに顔をのぞきこんでくる顔が揺れている。
華鬼は支える腕を振り払おうとしたが、うまく力が入らなかった。
「華鬼、歩ける?」
神無の声がそう問いかける。
彼女の言っている意味もよく理解できず、華鬼はゆらりと歩き始める。
多くの視線が突き刺さるように向けられているが、混濁した意識では神無の言葉同様にそれもよく理解できず、ただ足を踏み出していた。
よろめく体を支えようとする者がいる。
「おかゆ、食べられる? 何か欲しいものは? 華鬼……」
言葉を探すように
何をそんなに必死になっているのかわからず、華鬼はただぼんやりと長い廊下を神無に支えられたまま歩いていた。
吐き気も頭痛も先刻よりずっと楽になっている。
いまだに視界は歪み足元はおぼつかないが、そこまで心配する必要などないと、彼は己の状況も理解できず考える。
こんな事はよくある。
別に珍しくもない。自分で立てなければ生きていけないのは、動物の世界ではよくあることだ。
生き残りたいのなら、自分の力で立ち、歩かなければならない。
そう判断して神無の腕を再び振り払おうとした時、
「私にできること、ある?」
小さな言葉が胸の奥にすとんと落ちてきた。
見詰めた先の顔は、なぜだか泣きそうに歪んでいた。
「……ない」
ようやく言葉を吐き出すと、神無は唇を噛んでうつむいた。
何を悲しんでいるのか。
小さな疑問が、華鬼の胸の奥に生まれる。
印を刻み、本来守るべきはずの16年間を沈黙という一番残酷な方法で放置し続けた相手に、なぜ心を砕こうとするのか。
彼女にとって、印を刻んだ自分は怒りを向けるべき対象であるはずだ。
憎悪し罵倒しても足りないだろう。
それだけの苦痛は十分味わってきたはずだ。鬼頭と呼ばれた鬼の呪縛がどれほどの影響力を持つかは、その肌を見れば予想はついた。
それなのに、なぜ。
なぜ、彼女の瞳には負の感情が見えないのだろう。
「……だから、苛立つ……」
自分が彼女にとって恐怖の対象であったときは、嘲笑を向けた。
それが何かを境に狂い始めた。
いま神無は、華鬼を支えるために肩を貸している。恐怖ではなく、同情や哀れみとも取れない感情のまま、ただ寄り添うようにそばにいる。
その事実に動揺し、華鬼は渾身の力を振り絞って神無から離れ、よろめきながら歩いた。
「華鬼……ッ」
手が伸ばされる。
その手を無視して、華鬼は自室に辿り着くなりその場に倒れるように横になった。
全身がだるい。吐き気と耳鳴りに呼吸が荒くなる。
視界がいっそうかすみ、目の前にいるのが誰かすらよくわからない。
「華鬼、どこが痛いの?」
心配げな声が聞こえると同時に不思議な香りが満ちる。不快なものが、ゆっくりと和らいでいくのがわかる。
「……別に……どこも、痛くない……」
意識が遠のきながらもそれだけを答えると、ふわりと柔らかく神無が抱きしめるように両手を伸ばした。
「――うん。うん、痛くない……」
包み込むようにつぶやく神無の声が震えている。
泣いているのかと、そう気付く。
泣く必要なんてない。
痛みなんてないのだから。
激痛は偽物。
肌を焼く熱も、皮膚を裂く痛みも、肉をえぐる痛みさえも――ひとつとして本物ではない。
痛みは、ない。
この肉の塊すら、きっとニセモノ。
「華鬼」
その肉の塊にすがって、なぜこの娘は泣いているのか。
名を与えられただけの、それ以外の価値などないモノに。
「華鬼、でも、痛かったよね……?」
手が触れる。
今まで辛うじて止まることなく動き続けた、もっとも忌まわしい場所――激痛と呼ばれるものと引き換えに脈打ち続けた心≠フあるその場所に、細く小さな手が労わるように添えられた。
「痛かったよね」
震える声が繰り返す。それは胸の奥に柔らかく響く、優しい小さな声。
――痛みは、ない。
それなのに。
雫が一筋、泣くことさえ知らないはずの瞳から零れ落ちた。