序章
彼はふと辺りを見渡した。
屋敷を囲むように生い茂っているのは、花が咲かなければ何の木かも忘れてしまいそうになる樹木の群れだった。
手入れはさぞ手間がかかるだろうが、息子の名を出しては他者を顎で使って害虫の駆除に当たらせているに違いない。
「……桜……」
鬼ヶ里の鬼たちが最も好む花。
生を謳歌するように咲き誇り、そして潔く散っていく儚い華。
屋敷全体が見渡せる位置に立ち、彼は瞳を細めた。
「はなおに、か……」
その出生の由来からそう呼ばれる鬼がいる。
歴代最高の鬼頭≠ニ言われる男。
それはまだ雪がちらつく二月の初め――蕾さえ膨らんでいなかった桜の木々が、その男の誕生を祝うかのように花の
墨を流し込んだような闇夜に、不気味なほど白く浮かび上がった桜の花。
狂い咲く花を見上げ、鬼たちは悟ったのだ。
鬼頭が、誕生したのだと。
「……思い出す」
彼の隣にいた男が、小さくつぶやいた。
「鬼頭の生まれた晩」
同じ事を思っていたらしい男の顔を、彼は静かに見詰めた。
「鬼ヶ里の外にいた鬼たちが、申し合わせたように帰ってきて……」
妙な事もあるものだと、彼らは一様に苦笑した。
その晩、シンと静まり返った闇の中で、ポツリと白い雪が木の枝にとまった。
いつまでたっても雪は消えず、一つ、また一つと増えていき――
それが雪でない事に気付いた鬼が仲間を呼んで、彼らは声もなく開いてゆく薄紅色の小さな花を見詰めた。
一枝だけの狂い咲きと思われたその光景は、瞬く間に周りの桜に伝染し、それが山を覆い里を呑みこんだ。
「――恐ろしかった」
隣の男は、鬼頭の生家を見詰めたまま呻くようにそう漏らした。
「オレは恐ろしくて震えが止まらなかった」
一晩で里を覆い尽くした狂花≠ヘ、朝日を見る事もなくいっせいに散った。
潔いと言うにはあまりにも激しく、花は新たな命の誕生を皆に報せて地へと還っていった。
生まれた子供は華の鬼=\―華鬼≠ニ名付けられた。
その名を聞いた誰もが、それを自然と別の名へと
鬼頭=\―と。
鬼の頂点に立つ者に与えられるその呼び名は、長い時間をかけて鬼たちの間で「誰が継ぐか」を吟味した上で、三老≠ニ呼ばれる鬼たちが最終結論を下すものであった。
だが、華鬼の場合は違った。
誰が決めるでもなく、誰が選ぶでもなく、自然とその名が彼に与えられた。
生まれながらにしてつけられた最高の名。
「最下層の男から生まれた鬼が、鬼頭を名乗る」
彼は皮肉に頬をゆがめる。
「オレの親父を死なせてまで」
低く、低く彼が囁く。優しいとも思える声音に、隣の男は鬼頭の生家に向けていた視線を移動させた。
「――響」
「わかってる。鬼頭の名は強い鬼が継ぐものだ。アイツが生まれた時に、親父は鬼頭じゃなくなった――そんなことは、わかってる」
ただ弱かっただけだ。
鬼頭の名にすがり、それを守ろうとして叶わないと知り、勝手に死んだ弱い男。
それが彼の父だった。
べつに同情するほどの事でもない。少し他者よりも強かっただけの理由で鬼頭の名を継ぎ、それにしがみ付いていただけの矮小な男だ。
身に余る栄誉は、長く誤魔化し続けられる物ではない。
新たな鬼頭の誕生でその名を返上する事となった父親は、絶望の果てにあっさり首を
自分勝手な男だった。
たかが名一つで自分の価値を決め、桜の花が散る前にその命を散らした。
くだらない男。
ただ。
「ただ――なぁ? ムカつくんだよ」
堀川響は残忍な笑みを浮かべて己の庇護翼を見た。
「ムカついて仕方がないんだよ、アイツが。だからさ、鬼頭≠ネんていなくなればいいと思わないか?」
その名を鬼が求めてやまないのなら、その名ごと総てをなかった事にすればいい。そうすればくだらないわだかまりも消え、苛立ちも治まるだろう。
簡単なことだった。
気に食わない男を消せば、一緒に目障りな物も消える。
いまだに彼の心に付きまとう父の幻も消える。
「でも普通に消したらつまらないだろ?」
含むように笑って彼はゆっくりと後方を見やる。
「響――!」
草を踏み倒して、もう一人の彼の庇護翼が彼の望んだ物を片手に走ってきた。
黒光りするボディはなかなか美しい流線型。その中央にはまっすぐ硬質な銃身≠ェ通っており、体とそれを固定するための銃床も安定感がある。
「飛距離は?」
「――100M以上」
響の手前で足を止め、彼のもう一人の庇護翼は遠慮がちにそれを――クロスボーを彼に差し出した。
「スコープも買えって言っといたじゃないか」
「……」
「矢は?」
そう言われ、彼の庇護翼――律は、手にしていた矢を一本だけ彼に差し出した。
「……たくさん買っておけって、言わなかった?」
「でも、響! やっぱまずいよ!!」
響はクロスボーを地面に垂直に降ろし、左足を
「お前それで鬼頭狙う気だろ!? そんなので撃たれたら……!!」
「誰が鬼頭を狙うって?」
低く問いかけながら胸部を銃床に当て、両手で弦をしっかりと握った。そしてゆっくりと弦を引き上げ、ケーシングの中に引き込む。
さらに引き上げると、小さな音が彼の耳に届いた。
「響!」
「ふん……いいモノ買ってきたじゃないか」
「響、まさかボーガンで狙うの……」
響は弦を固定して上体を起こし、矢の装着されていないクロスボーを律に向ける。
「毒を塗って、簡単に逝かせたんじゃ面白くないだろ?」
律に向けたクロスボーを由紀斗に移動させ、さらにそれを鬼頭の生家へと移す。
獲物を物色するように動き回っていた照準は、やがて一人の少女へと合わせられた。
「お前のアキレスをいただくよ、鬼頭」
囁く彼の瞳には、鬼ヶ里高校の制服を着た少女が映っていた。