しばらく
一定のリズムを刻むその正体が想像できなくて、神無は首を捻って音の出所を確認する。
すぐに狙いを定め、彼女は慣れない畳の上を足早に移動した。
華鬼の父親がこの部屋の家具を捨てたという話は、どうやら本当らしい。
全体的に色落ちした畳とは明らかに様子の違う場所がいくつかある。わずかに青く残る畳は、そこに長い間何かが置かれていた事を神無に伝えてきた。
その形は様々で、こんなに殺風景な部屋にもかかわらず、妙に生活臭かった。
職員宿舎の別棟の四階にも彼のために用意された空間がある。たった一度入ったその場所は、必要と思える物以外の家具は置かれていなかった。
それは彼が物に執着するタイプではないからなのだと漠然と思っていたが――どうやら、そうではないようだった。
部屋のあちこちに散らばる退色を逃れた畳は、むしろ物持ちがいいのではないかと思わせる程の量だ。
「……ベッド」
不意に視界に飛び込んできた大きな長方形の跡にむかってそう呟くなり、神無はそれを大きく迂回する。ベッドがないのだから突っ切ればいいのだが、なんとなくそんな気にはなれなかった。
そして辿り着いた襖に手をかけて躊躇いなく開ける。
すぐに無言で閉めた。
襖の奥は押入れだった。それは二段に分かれていて、下段には小さな桐のタンスが、上段には布団がしまわれていた。
きっとあれは夫婦布団というものに違いない。
ご丁寧にもわざわざ新調してくれたのだと知れる真新しい色違いの掛け布団が視界に飛び込んできた。
次の瞬間には閉めてしまったから、もしかしたら見間違いかもしれないが――確認する気には到底なれなくて、小走りでその場から離れる。
彼女はすぐ近くにあった障子を開けた。
そして動きを止める。
足を踏み出せばそこには磨きこまれた縁側があり、その向こうには異様なほど大きな
神無は黒い鼻緒の下駄をしばらく見詰め、靴下を脱いでそっと履く。慣れないせいか妙にくすぐったいが、かまわずに次に置かれた石へと移動する。カラリカラリと下駄を鳴らし、永遠とも思える距離を
個人が所有するには大きすぎる屋敷である。
それを建てさせ、我が物顔で所有できる権限が鬼頭の名の中にはあるらしい。
管理の行き届いた枯山水の中央には立派な景石が置かれ、そこから寸分の乱れもなく砂紋が一枚の絵のように優美な流れを生む。
手入れされた庭木が空を優しく包んでいる。
苔むした石は冷気を纏い、その光景は時間さえ忘れさせる。
それは計算されつくした造形美。
少しずつ確実に変化しながらも調和を保ち続ける洗練された空間。
その中に、反響するように鳴り続ける音があった。
神無はその場所を目で探し、ようやく見当をつける。
ただそこは、大きな石が円を描くように並べられ、その中央に小石が置かれているだけだった。近くには竹の筒から水を受ける瓶があり、瓶からあふれた水が石を濡らしている。
わずかに籠もるように響くのは、どうやら水音らしい。
「
その前にしゃがみ込んで不思議そうに見入っていると、つっけんどんにそう告げる声があった。
「それ、下に瓶が埋めてあって、水滴が落ちると反響するの」
別の声がそう続けると、神無は慌てて立ち上がった。
「金持ちの道楽よ。ちゃんと手入れしないと音がしなくなる」
「忠尚様、そうゆーの好きなんだよね」
「手間のかかるヤツ?」
「そうそう」
クスクスと笑う女が、囲むように神無の周りにいた。
鬼の花嫁は美しい女が多いが――忠尚の花嫁はどうもただ美しい≠セけの花嫁とは違うらしい。
非常に線引きの難しいレベルの女も含まれている。
「鬼頭の花嫁でしょ?」
女が問いかけながら、トンっと神無の肩を押した。
「私のほうが美人!」
別の女が斜め後方から神無を軽く押す。
「忠尚様、カンカンに怒ってたよねぇ」
「そりゃあだって――」
クスクスと女が笑うと、それにつられたように別の女たちも笑い出す。そうしてひとしきり神無を見詰めて笑ったあと、女が再び口を開いた。
「鬼頭がいらないなら自分の花嫁にもらう気だったんでしょ? でも好みじゃなかったのよ」
意地の悪い笑みを見せて、女が囁く。
「鬼頭の刻印があるんだもん。他の花嫁より、次期鬼頭が生まれやすいと思ったんじゃないの? 本当、固執してるんだから」
そのあんまりな言葉に神無は茫然とした。
常識という物が、音をたてて崩れていく。
「なぁに? 別に驚くほどの事じゃないでしょ? 次期鬼頭を生ませるために、自分の花嫁に息子を誘惑しろって言ってる男よ? そのくらいするわよ」
「相手にされないけどね」
神無の反応が面白いのか、女たちは代わる代わるに言葉を投げる。
その内容は、やはりどう考えても一般常識とは掛け離れている。そのズレを彼女たちは気にとめている様子はなく、それが一層不気味だった。
「華鬼の父親の、花嫁……ですよね?」
神無の問いに、女たちはいっせいに口をつぐんで彼女を見た。
「そうよ?」
伸ばした手で、再び神無の体を押す。
「だからなぁに?」
「――自分の鬼が大切じゃないんですか?」
そんな花嫁ばかりではない事は学園にいてよくわかっている。だが、もえぎのような花嫁もいるのだ。
大切な相手を、ただひたむきに愛するような女が。
それを誇りだと迷いなく告げる女性が――確かにいるのだ。
「バカねぇ」
そう言って再び伸ばす手が、ふと優しくなる。
「そんな事決まってるじゃないの」
意地の悪い笑みが少し形を変える。
「あんたたち?」
何か言葉を続けようとした声を遮るように、遠方からかけられる別の声があった。
その声を聞いた瞬間、女たちが明らかに狼狽して互いの顔を見合わせる。
「ヤバ――」
「
「撤収――!」
ボソボソと囁きあったのもつかの間、女たちはパッと顔をあげて神無を見た。
「またね!」
判で押したようにぴったりと動きを合わせ、女たちは蜘蛛の子を散らすように足早に庭園の木々に飲み込まれていく。
取り残された神無は、女たちが去った方角を唖然として見詰める。
何がしたかったのかさっぱりわからない。
「逃げ足だけは速いんだから――困った子達」
「おやおや、いじめんなって言っといたんだけどねぇ……絞めときます? 姉さん」
「伊織ちゃん、あんたが言うと洒落になんないから」
40近いと
「好奇心だけは強いからねぇ。鬼頭の花嫁、気になって仕方ないんだろ」
伊織が子供をあやしながらのんびり言うと、
「……縛っとくかい」
鈴弥がそう提案した。
「姉さん、そっちのほうが洒落になんないよ」
「そう? まぁ害のある子達じゃないから――勘弁してやってね?」
急に向けられた言葉に、神無は反射的に頷く。
それを見て鈴弥は艶やかに笑った。歳は随分上だが、伊織同様に独特の色香がある。
「それよりあんた、ちょっと小耳に挟んだんだけど」
クイクイと指先で呼び寄せて、鈴弥が神無に真剣な眼差しを向けた。
「三翼に求愛されてるって、本当?」
肩を揺らせるほど動揺する神無に、鈴弥は瞳を細め、伊織は驚いたように神無を見た。
「三翼って! 鬼頭の!?」
「――その様子じゃ本当か。……忠尚様、怒るはずだねぇ。これじゃ面目丸つぶれじゃないか。鬼頭も肩身が狭かろうに……」
「姉さん黙ってて! 三翼って、麗二様もかい!?」
息子の頭をしっかり固定して、伊織は神無に詰め寄った。勢いに押されるままに頷く神無に奇妙な悲鳴をあげる。
「……ゴメンね。ちょっとあの子、昔色々あってね」
奇妙に乾いた笑みで、鈴弥が耳打ちをした。
どうやらあまりいい思い出ではないらしく、伊織は息子を抱えたままブツブツ言っている。
「普段はあんなだけど、古傷えぐると、よくこうなるのよねぇ」
どうやらえぐってしまったらしい。呆気にとられて伊織を見ていると、違和感が胸を襲った。
その理由を考えるよりも早く、彼女は惹き付けられる様に視線を移動させる。
そこには、車中で別れたきりの鬼が、無言のうちに立っていた。
計算されつくして立つ木々に溶け込むように、ただそこにいた。
「……いつから?」
いつも感じるあの殺意がない。けれど、その瞳はとても穏やかとは言いがたく、神無の心に疑問だけを運んできた。
「華鬼」
学園にいたときに纏う、他者の存在の一切を認めない憎悪にも似た殺意を脱いだ彼は、まるで孤高の獣のようだった。
その彼が、神無に向けていた視線をはずす。
それと同時に、体を反転させた。
神無はとっさにそのあとを追う。
けれど向かった先に彼の姿はなく、静寂だけが取り残されていた。
「私の……鬼?」
その言葉の意味もわからずに、神無は小さく問いかける。
自分の鬼が大切じゃないのかと聞いたとき、女たちからその答えを聞くことはできなかった。
だが、穏やかに笑った彼女たちの語られなかった言葉は、神無の胸の奥に静かに響いていた。
決まっていると言った、その先の言葉。
「大切――」
零れ落ちた言葉は誰にも届くことはなく――しかし、まだ咲くことを知らない新たな華の芽を、柔らかく包み込んでいた。