その部屋は恐ろしく殺風景だった。
 すでに悪趣味としか言いようのない正方形のベッドが部屋のど真ん中に置かれていて、それ以外はサイドテーブルと、もえぎが選んでくれたタンスがポツンと不自然にある。
 それだけの部屋。
 華鬼の部屋もあまりに物が少なかったが、この部屋ほどではない。
 いくら据え付けのクローゼットや収納スペースがあるとは言え、そこは部屋の主とは似ても似つかぬ生活の香りすら存在しないような場所だった。
 ソファーがあるのならそこで休ませてもらおうと考えていた神無は、ピンク色のネグリジェに身を包んだまま呆然と立ち尽くしていた。
 ここまで何もないと、どう行動していいのかすらわからない。
「神無ちゃん、こっちこっち」
 軽い調子で手招きする光晴を途方に暮れたような目で見る。彼はすでにベッドの左半分に陣取っていて、彼女が来るのが当然といわんばかりに微笑みながら待っている。
 鬼の住むこの場所に連れてこられてからというもの、神無は反応に困って立ち尽くすことが多くなっていた。
「ほら、そんなトコおってもしゃあないやろ?」
「他に……」
「ん?」
「他に、休める場所は……ッ」
 この際、ソファーベッドだなんて贅沢は言わない。内心座椅子でもかまわないと思いながら口を開いた神無に、光晴が苦笑した。
「すまんな。この家にあるの、ベッドと冷蔵庫ぐらいなんや。あとは食器棚とか――まあ、最低限生活していけるレベルの家具しかないちゅう感じで。ベッド以外に休めるトコは床ぐらいなもんで……」
「床……」
「言っとくけど床には寝させん。当然やけど」
 神無は光晴の一言で開きかけた口を閉じる。毛布を一枚貸してもらえれば床でもかまわなかった。母と暮らしていたアパートはお世辞にもいい環境とは言いがたく、おかげでどんな場所でも安全さえ確保できていれば眠れるようになっていた。
 しかし、床で寝る事を光晴が許してくれそうにない。
「そう警戒されるとこっちまで意識するやろ」
 光晴の言葉に神無が小さく後退している。光晴にバレないようにこっそりとドアに近付いているようだが、動きにかなり無理がある。
「そう怖がらんでもなんもせん。……ちゅうても、信用ないか」
 光晴は困ったように笑った。
「どう言えばええんやろ。……オレはたぶん、神無ちゃんにとって一番安全≠ネ男や。カッコ悪い話やけど」
 溜め息と共にそう吐き出して、光晴はベッドから降りる。
 彼はそのまま、窓辺へと歩み寄った。
「オレな、昔――ずっと前にな、花嫁もろうたんや。綺麗な子やった。気の強い女でな……いい女やった」
 ポツリポツリと光晴が語る。いつもの明るい口調ではなく、寂しげでどこか自嘲気味な、静かな声で。
 窓の外を見るその瞳は、外の風景ではなく過去の残像を追うように細められていた。
「幸せにしてやりたかった。けど……ダメやった」
「どうして……?」
 不意にかけられた神無の声に驚いたように、光晴は深い闇から視線を外す。彼は神無を見詰め、体を反転させると壁に背をあずけて天井を見上げた。
「……鬼の子は刻印を持った鬼の花嫁しか生めんし、それも相性があって、鬼の出生率自体が恐ろしく低いんじゃ。もし――もし、印を刻んだ鬼が役に立たんかったら、その花嫁は強制的に他の鬼のもとへ嫁ぐことになる」
 一瞬言葉に詰まるように押し黙り、彼は声を絞り出した。
「子を成すことのできる鬼のもとへ、な」
 悲しげに光晴が笑う。遠い遠い過去を思い出しているかのように。
「仕方ない。誰のせいでもない。せやけど、辛かった。彼女が幸せになってくれればええと思って――でも、それを見るのが辛かった」
「……ここにいるのも……辛い……?」
 小さな神無の問いかけに、光晴が顔を歪める。
 深すぎる愛情は、時として苦痛しかもたらさない。幸せの絶頂から叩き落された彼は、ただ己の花嫁の幸せだけを願い続けてその身を引いた。
 それが、彼の過去。
「……辛ないゆうたら嘘や。思い出は生き続ける、風化する事も許さんぐらい鮮明に。なんでこんな体に生まれついたんか、ここにおったら一生そんなことを考えながら彼女の面影を追うやろう」
 だから、鬼ヶ里を出た。
 光晴は独り言のように小さく続けた。
「その影がな、時々揺らぐんや。神無ちゃんを見たら、なんやオレがしっかりせなあかんような気分になってな……なんやざわつく」
 そう言って、彼は窓から離れてゆっくりと神無に近付いていく。その行動があまりにも自然に思え、神無は無言で彼を見詰めた。
 光晴は何も語らない少女の前に立ち、再び口を開いた。
「神無ちゃんは鬼頭の刻印を持っとる。花嫁としての格は誰よりも上や。もしな、華鬼が……あいつが神無ちゃんを花嫁として迎え入れる気が本当にないなら、神無ちゃんには強制的に別の鬼があてがわれる。その中に、オレは絶対に入る事はないんや。求愛しとっても、これは話が違ってな……一族の血を残すのが最優先なんや」
 そこまで言って、光晴はまっすぐ神無を見た。
 初めて目にするような真摯な表情で彼は言葉を続けた。
「神無ちゃん、幸せになりたない?」
 ピクリと神無の肩が震える。何度も諦めた言葉を、決して口にすることのなかった言葉を、光晴が静かに問いかけてきた。
 曇りのない、澄んだ眼差しで。
「オレやったら、神無ちゃんを傷つけたりせん。鬼ヶ里で暮らすことはでけんけど、落ち着きない生活させることになるけど、絶対幸せにする。後悔はさせん」
 強い意志を秘めた静かな声が、ゆっくりと部屋の中に広がって消える。
 その言葉の意味を神無はすぐさま理解し、光晴を凝視した。
「だからオレを選ばへん?」
 揺れる心の内側に、優しい声がそう問いかけてきた。

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