名を呼ばれたような気がして、神無は顔をあげる。
 しかし、広い教室に人の姿はなく、代わりに引きずられていく少年の足がドアの外で暴れていた。
 神無は慌てて辺りを見渡す。授業中はずっと俯いたまま、居心地の悪い教室の空気を誤魔化すように教科書に視線を落としていた。
 授業が終わったあとは、聞こえよがしの少女たちの声から意識をそらし続けていた。教室から出て一人になる事が危険であることはすでによく知っている。
 クラスの女生徒の大半が鬼の花嫁という状況は、彼女にとってあまりいいとは言えなかった。しかし幸いな事に、鬼は少ないらしい。
 向けられる視線には凶暴なものはない。
 それが唯一の救いだった。
「朝霧さん!」
 ポツンと取り残された神無の名を、弾むような声が呼んだ。
 神無は慌てて廊下を見た。
「次、移動だよ! 第三科学室!」
 教室のドアには、桃子が教科書とノートを胸に抱いて苦笑している。
 生徒がいない理由を知り、神無は慌てて机から教科書とノート、筆箱を取り出して立ち上がった。
「いないからビックリしちゃった。場所わかんないでしょ?」
 そう問いかける桃子に、神無は小さく頷いた。
「あ、ありがとう」
 神無が礼を言うと、桃子が歩き出す。
「転校したばっかりじゃわかんないもんね。この学校広すぎるし。あ、ねぇ、神無って呼んでいい? あたしのコト桃子って呼んでよ」
 驚いて桃子を見ると、
「だって朝霧って呼びにくいんだもん」
 そう言って肩をすくめた。
「土佐塚も呼びにくいし、お互い名前のほうが呼びやすそう」
 神無に歩調を合わせるように、桃子はゆっくりと歩きながらそう提案してきた。
 彼女は驚いたまま固まっている神無に顔を向け、ちょっと拗ねたように唇を尖らせる。
「別に嫌ならいいけど」
 神無は反射的に首を振っていた。
 あまりに慣れない言葉に、一瞬思考が停止していた。さげすまれ罵倒されて呼ばれる事は多かったが、好意をもって名を呼ばれるのはここに来てから初めて体験した。
 三翼やもえぎは、とても自然に神無の名を呼ぶ。
「いいの?」
 確認するように神無の顔を覗きこむ桃子に、何度か頷いた。
「……なんか、面白いね」
 クスリと桃子が笑う。
「反応が面白い。変わってるとか言われなかった?」
 あっけらかんとして問いかける桃子に、神無は視線を向けた。
「あたしの周りにはいないな〜神無みたいなタイプ」
 桃子は廊下の窓から職員宿舎を見詰め、小さな声をあげて神無を見た。
「そういえば昨日どこ泊まったの!?」
 いきなりの話題転換についていけず、神無はあっけに取られ、すぐに真っ赤になった。
 微かな少女の変化に、桃子は意地悪そうな笑みを浮かべる。
「鬼頭の部屋、全壊って話じゃん? てっきり神無、女子寮に泊まると思ってたんだよね〜。なのに、実際女子寮泊まったの木籐先輩だったから、もう昨日パニックだったんだから!!」
 桃子の力説に、神無は唖然として彼女を見詰めた。
 神無は昨晩、光晴の部屋にいた。
 ただし、部屋の主は神無に気を遣ってベッドを彼女に譲り、短いやり取りのあと部屋を出て行ってしまっていた。
 神無は光晴の好意に甘え、主不在の部屋を一晩借りた。
 彼がいても落ち着かないが、いないのも落ち着かなかった。
 まるでプロポーズの返事を考える時間を与えられたようで、いつもならベッドに入ればすぐに寝付いてしまうのに、いつまでも目が冴えたまま天井を見詰め続けていた。
 それが、昨夜の出来事。
 同じ頃、華鬼が女子寮にいたとは思っても見なかった神無は、返す言葉もなく桃子を見詰めた。
「誰の部屋に泊まるか、白熱バトル! あそこまで露骨に奪いあうとね、見てるほうは楽しいよ。寮長まで巻き込んでメチャクチャだったもん。木籐先輩、結局誰の部屋に泊まったのかな」
 小首を傾げて、桃子が神無を見る。
「でも、どうして神無、女子寮に来なかったの? 鬼頭や三翼って、特別に花嫁と一緒の部屋になるんでしょ?」
 どうやらこれは常識らしい。十六歳の少女が男と寝食を共にするのが普通≠ニいうのは一般的にはありえない発想だが、閉鎖的とも言えるこの学校では、それが定着しているようである。
 まるでさらし者になったような気分だ。
「ま、神無いなくてよかったかもしれないけど。何か木籐先輩、女選んでないみたいだし、花嫁としてはムカつくよね。自分の鬼が目の前で他の女にちょっかい出してたら、いい気しないもんねぇ」
 あけすけに意見を言う桃子に神無は何も言う事ができない。
 神無にとっては腹を立てるというレベルの問題ではなかった。
 華鬼との間にある溝は、埋める方法も、その理由さえわからないほどに深い。
 自らの花嫁に殺意しか抱かない鬼。
 それが華鬼。
 そして、その対象であるのが自分。
 神無にとっては、それだけの事だった。
 彼が誰に手を出そうとも、誰をその腕で抱こうとも気にするべき事ではない。
 気にしてはいけない。
 あの瞳の奥で揺れる苦悩を拭えるのは自分ではないのだ。少なくとも、殺意しかむけられる事のない花嫁ではない。
「神無?」
 不意に息を詰めた神無の顔を、桃子が不思議そうに見詰めている。
 苦しいと思うのは、きっと彼をよく知らないからだ。殺意の中で揺れる心を悪戯に垣間見てしまったから。
 だが神無にとって、彼を深く知る事は恐怖でもあった。
 正体のつかめない感情の波。
「――大丈夫?」
 心配そうに問いかける桃子に、神無は頷く。
「何か顔青いよ? 平気?」
 神無は再度の問いかけにもなんとか頷く。
「ならいいけど……あたし、ちょっと教室に忘れ物したから先に行ってて? 第三科学室、特別棟の二階の突き当たりだから。……本当に大丈夫?」
 桃子の言葉に再び頷くと、彼女はわずかに眉根を寄せながらも、もと来た道を戻っていった。廊下に足音が響いている。
 神無は桃子の後ろ姿を見詰め、小さく吐息をついて廊下を歩き出した。
 考えまいとすればするほど思い出してしまう影がある。
 印を刻んだ男。
 優しい手など差し伸べてくる事などない残酷な鬼。
 彼が十六年前に残したモノは、当たり前に訪れるだろう平穏すら乱していった。
「見ぃつけた」
 不意にかけられる声に、感情の一部が麻痺してしまったような神無は茫洋とした視線を向ける。
「鬼頭の花嫁でしょ? ムカつく女」
「本当、全然たいした事ないじゃん。本物なの?」
 嘲笑が神無の鼓膜を揺らす。
 通り過ぎようとした階段には、少女たちが座り込んでいた。美しい少女たちの歪んだ笑顔はすでに見慣れている。
 その意図も、よくわかっている。
 鬼頭の花嫁の立場が欲しいなら、神無はただの障害物だ。邪魔なら消せばいい。閉鎖的な空間で暮らしてきた生徒たちは、きっとどこか少しずつ常識を捨てているに違いない。
 そうでなければ、目の前の光景はあまりにも不自然だった。
「少し痛いけど我慢してね? すぐ済むから」
 少女がカッターナイフを取り出して聖女のように微笑んでいる。
 彼女がゆらりと立ち上がったその瞬間、何の前触れもなく空気が凍りついた。
 神無に向かって歩き出した少女は、辺りを包むその異様な空気に青ざめている。手にしていたカッターが滑り落ち、階段で小さく跳ねた。
 事の成り行きを傍観しようとしていた少女たちも、何かに怯えたように身を寄せ合っている。
 神無は少女たちに向けていた視線をゆっくりと巡らせる。
 それは、彼女たちと対極の位置ですぐに止まった。
 緩やかな狂気を殺意で押しつぶした男は、金色の瞳を神無に向けていた。
「――華鬼」
 空気が震える。
 鬼頭の名を持つ鬼は、己の名を呼んだ花嫁を無言で見詰めていた。

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