神無は足早に教室へ向かう。
 頬が熱い。きっと、呆れるぐらい真っ赤になっている事だろう。
 保健室は別棟にある。渡り廊下を通り、長い廊下を進んでようやく辿りつけるのが彼女の教室になる。
 教室は一部屋ずつが異様なほど広い。ゆとりを通り越して殺風景とさえ思えるその広さのために、自然と歩く距離も長くなってしまう。
 しかし、赤面したまま教室へ行けば必要以上に目立ってしまうことは目に見えていたので、今はその距離が有り難かった。
 神無は人の気配のない渡り廊下の途中で、ふと足を止めた。
 背筋がちりちりする。その悪寒のような違和感に、神無は教室へ続く廊下の入り口をしばらく見詰めた。
 なにか、嫌な感じがする。
 神無は無言のまま保健室へ引き返すために方向を変えた。
「なんだよ、意外といい勘してるな」
 肩に鋭い痛みが走る。
 神無が慌てて首をひねると、すぐ近くに男の顔があった。鬼ヶ里高校の生徒は整った顔の者が多い。その理由を神無はすでに知っていて、そして、目の前の男もまた作り物めいた端整な顔を歪めて笑っていた。
「放してください」
 神無の言葉に、男の目が鬼独特の色を持つ。
「放せだってよ、ひびき
 肩を掴んだ男の後ろから笑いを含む声がかけられる。
「立場ぐらいわきまえろよ、バッカじゃねーの?」
 さらにもう一つ、別の声。
 神無は一瞬息を止めた。金色の瞳をした鬼が三人、よく見知った表情でこちらを見詰めている。
 ただ一つ違うとことと言えば、その瞳には情欲とは別の、ゾッとするほど冷徹な憎悪が滲んでいることだ。
 いたぶり尽くすことが目的ではない。
 それは経過でしかない。
「初めまして、鬼頭の花嫁」
 響と呼ばれた男の手に、容赦ない力がこもる。
「アイツがさ――苦しむ姿、見たいんだよね? 協力してよ。どうすればいいと思う?」
 残忍な笑顔で鬼が優しく問いかけてきた。
「小さな箱に詰めて贈ればいいだろ。赤いリボンつけて。可愛いじゃん?」
 ひょいと響の肩に腕を乗せ、右側の男が微笑んだ。
「校庭の真ん中に捨てとけばいい。箱に入れるなんて面倒臭い」
 病的に笑いながらそう言った左側の男は、神無に向かって手を伸ばした。
「別に飾るほどの女じゃない。片っ端から女とやってるわりには、冴えない花嫁選んだよな――つまんねーの。こんな色気も何もない女、傍に置いとくだけ恥だぜ」
「鬼頭の花嫁がこれじゃ、カッコつかねーよな」
 くくっと、男が笑う。
「次の花嫁が選びやすいように手助けしてやろうか?」
 髪に触れようとする手を神無はとっさに振り払い、肩を掴まれた体を大きくひねった。
 大した事じゃない。
 これは、すでに日常と化した些細なトラブル。
 相手が抱く感情がいつもと少し違うが、向けられるのは負の感情でしかないのだ。
 神無は無言のまま男たちに向き直り、小さく一歩だけ後退する。
 ――それに。
 この男たちよりもずっと危険な者を知っている。
 非情で残酷で、美しくて悲しい鬼。
 その激情を向けられる恐怖に比べれば、彼らの存在など取るに足らないものだった。
「なんだよ――ムカつく女。ちょっとは怯えろよ? 殺されるかもしれないんだぜ?」
 響の嘲笑交じりのセリフに、神無は何も返さず男たちを見た。
 ここから一番近いのは保健室だ。あそこまで行けば、たぶん彼らはそれ以上手出しはしてこないだろう。
 そこまで逃げ切ればいい。
 それは、とても難しい事だけれど。
「空き部屋確保してあるだろうな、由紀斗」
 響の言葉に、右側の男がニッと笑って片手をあげた。その手には、小さな鍵が握られている。
「特別棟の防音完備の超穴場――鍵手に入れるの苦労したんだぜ?」
 そう言った男の手に、真後ろから別の手が伸びた。由紀斗がぎょっとして振り返っている。
「そういう下らない事をするから、麗二が困る」
 鍵を握る由紀斗の手を上から包み込むように握って、誰かがそう呟いた。
「け、喧嘩は反対です!!」
 神無の真後ろから、蚊の泣くようなか細い声が、それでも精一杯の鋭さをもって叫んだ。
 神無は慌てて視線を後方へ移した。
「は、初めまして、黄逗こうず拓海です! 宜しくお願いします!!」
 神無が振り返るなり、間髪を容れずに華奢な少年が深々とお辞儀をしながら自己紹介をした。
 この状況を忘れ、神無も慌てて深々と頭を下げる。
「朝霧神無です」
 何故自己紹介をしているのかもわからず、神無は顔をあげた。目の前の少年はパッと頬を染めてはにかんだように微笑んでいる。
 フワフワとしたくせっ毛が、柔らかそうに揺れた。
「おい、勝手に和んでんじゃねーよ!」
 由紀斗が握られた腕を振り払おうと大きく腕を動かし、そして、端整な顔を苦痛に歪めた。
「拓海は、ああいう性格なんだ」
 淡々とした口調で論点を間違えた言葉がかけられる。
「放せ!!」
 特別室の鍵を握っている由紀斗の拳を包むように、大きな手が覆いかぶさっている。それに、強い力が加わった。
 骨の軋む音が聞こえてきて、ようやくハッとしたように響は後方の男に殴りかかった。
 その彼の視界に、仲間の手を潰そうとする男とは別の影が割り込んできた。
「ストップ。タイマンならオレが相手になる」
 背後の男を殴り飛ばすはずだった響の拳は、その影にあっさりと止められた。
 茫然と視線を移動させた先には、全く気配を感じさせない大柄な男が三白眼を細め、片頬を歪めるように笑っていた。
「オレが相手でもいいけど」
 溜め息混じりの声は、校舎の壁に背をあずけたままの鬼ヶ里高校の生徒のものだった。長髪の男が纏う気配は臨戦態勢だ。空気が一瞬で張り詰める。
「なん――」
 唖然としたような響に、大柄な男は肩をすくめる。
「自己紹介が必要ならしてやるぜ? 三年二組、浦嶺郡司。士都麻が庇護翼」
「同じく、三年三組、織辺透」
 大柄な男についで、壁に背をあずけたままの男は涼やかに微笑んだ。
 それにならうように、由紀斗の手を潰しかけた男はそれを解放して響を見た。
「三年九組、江村一樹――高槻が庇護翼」
 物静かな雰囲気の男は、律儀にも少し頭を下げる。
「黄逗拓海です!! 二年六組!! 麗二の庇護翼!!」
 神無の後ろで少年がオロオロしながら頭を下げる。その総てに視線をやって、三人の鬼はようやく当初の目的である神無を見た。
「本気かよ」
 呆れたような、バカにしたような声音だった。三翼が鬼頭の花嫁に求愛したことは知っているらしい。
 そして、彼らの庇護翼が花嫁の周りにいるということは、主の命で彼女を守っているという事になる。
「こんな女にまさか四人も庇護翼が――」
「九翼」
 響の言葉に、郡司が低く訂正を入れる。
 郡司の言っている意味がわからず唖然としたような三人の鬼は、すぐに互いに顔を見合わせて肩を震わせた。
 九翼ということは、本来なら婚姻した時点で庇護翼の手を離れるはずの花嫁を三翼が守り、さらに自らの庇護翼もつけた計算になる。
 それは、学園始まって以来の奇妙な事件だ。
「おいおい、冗談よせよ。九翼だなんて、聞いたこともない」
「律の言うとおりだ。なにふざけて――」
「出遅れた!!」
 嘲笑を掻き消す勢いで、高い声が割り込んできた。八つの視線がいっせいに声の出処を探した。
「なに、もう終わった!? 次の授業科学でさ! 特別室遠くて!!」
 校舎の陰から上履きのまま飛び出してきた少年二人は、驚くほどよく似ていた。一卵双生児なのだろう彼らは、髪を振り乱し、奇声を発しながら全力で向かってきた。
「走ったんだよ、これでも!! っていうか、褒めてよ!!」
「褒めて〜!!」
 肩で大きく息をしながらステレオ放送で双子が叫んでいる。
「初めてなんだよ! 庇護翼!! 水羽先走るから、オレもう、胃がキリキリ〜!!」
「なんで皆そんなに早いの!?」
「――少し黙ってろ」
 郡司が溜め息をつきながら双子を睨む。寸分の違いもない二つの顔が、不満そうに唇を尖らせた。
「言い訳ぐらいさせろよ! バカ郡!」
「あとで水羽にしばかれるのイヤ〜!!」
 どうもこの双子の最大の問題はそこらしい。その容姿のわりに、確かに水羽のやることは過激なことが多い。鬼頭の花嫁に求愛したのだって、これはもう異例中の異例だった。
 双子に少し同情しながら、郡司は透を見て苦笑した。
「遅れてないから黙ってろ。――それとも、お前らも自己紹介しとくか?」
 郡司がクイクイ目の前の鬼と神無を指差した。
「あ! こんにちは!!」
 呆れるほどぴったりな呼吸で双子は口を開いた。
「二年八組、森園風太と!」
「雷太です!! 早咲が庇護翼!!」
 双子はまっすぐ神無を見ている。どうやら、気に食わない人間は視界にも入れない性格らしい。
 見事に無視された三人の鬼は顔を引きつらせている。
「それで――」
 壁から背をはがすようにして、透が三人の鬼に向かって歩き出す。
「ここでやる? それとも、今日はやめとく?」
 わざとらしく小馬鹿にしたように微笑んで、透は響たちを見詰める。小首を傾げる様な仕草とともに、長髪がさらさらと流れる。
「オレは運動するの好きだけど」
 郡司の瞳が金色に染まっている。ニッと笑った顔は、ひどく凶暴な表情をにじませていた。
「暴力反対です!!」
 神無の後ろで拓海が握り拳で叫んでいる。彼は若干、毛色が違うらしい。それを耳にして、一樹が微苦笑している。
「遅れた分だけ頑張るよ!!」
 ぴぴっと双子が物騒なことを言って手を上げた。そのきびきびとした動きが、どこか水羽を連想させた。
 三対六でも、容赦することはないだろう。戦いにかまえる各々の殺気が、それを神無に伝えてきた。
「あの……」
 神無は誰に呼びかけるでもなく、思わず口を開いた。何かを言わなければと考え、視線を彷徨わせる。
 とりあえず、戦えば怪我人が出ることは確実なのだから、この無意味な争いは止めさせなければならない。
 その方法を神無は必死に考えている。
「――行けよ」
 そんな少女を見て、溜め息とともに郡司は顎をしゃくる。
「花嫁の前で血生臭いことはしたくない。次に会った時は、遠慮せず遊ぼーぜ?」
 不敵に微笑みながら、彼は三人に道をゆずった。
「え――やらないの?」
「つまんない〜。授業サボって来たのに〜!!」
 双子が再び唇を尖らせている。
「うるせーよ。遊びたかったらいくらでも相手してやるから、黙ってな」
 細めた瞳の鋭さに、双子がぐっと押し黙った。光晴の庇護翼である彼の冷酷ぶりを彼らはよく知っている。主は人当たりのいい執行部会長だが、その下につく者はそうではなかった。
 その空気を読んだかのように、響が歩き出した。
「お、おい――!」
 由紀斗と律が慌ててそのあとを追う。
「いいのかよ、こんな……」
「今はいい。――あんたもムカつくね、士都麻の」
 響がきつく郡司を睨む。憎悪と苛立ちをにじませた目で。
「どーいう状況であれ、花嫁守るのが庇護翼の仕事だからな。悪く思うなよ」
 大げさに肩をすくめる郡司に、響が端整な顔をゆがめた。彼は郡司の隣で足を止め、ちらりと神無を凍てつく目で見詰める。
「生き恥さらさせてやるよ。あの女――ただじゃ済ませないから」
「……」
 陰惨な笑顔を郡司に向けて、響がゆっくりと歩き出す。
「嫌な相手に目ェつけられてるなぁ」
「あれ、二年の――堀川響? 一緒にいたの、庇護翼だろ」
 郡司に近付きながら、透が三人の後ろ姿を目で追って問いかけてきた。特別目立つ存在ではないが、その実力は三翼に匹敵されるだろうと囁かれる鬼。
「イヤなんだよな〜あーゆう、ネチネチしたヤツ。さっさとぶちのめしたいなぁ」
「オレやる、オレ!!」
「オレも〜!!」
 そう言ってぴょんぴょん飛び跳ねる双子を見て、郡司は盛大な溜め息をついた。
「お前らじゃ荷が重い。あれでなかなか強いんだ。噂しか聞いたことないけど――再起不能になるまでいびり倒すらしいぜ? 趣味悪いよなぁ……」
「あ、じゃ、オレむきかも」
 透が爽やかに微笑んでいる。外見は長髪の爽やかな青年だが、中身は学園でも一、二を争うほど真っ黒だった。
 共に行動することが多いぶん透の性格を熟知している郡司は、引きつった笑顔を向けた。
「あぁ、お前向きかもな。地獄絵図になりそうだ」
「ぼ、暴力反対です!!」
 郡司の言葉に、神無の後ろから拓海がオロオロ意見する。
 そしてようやく、鬼たちは花嫁に視線を向けた。
 いきなり向けられた視線に驚き、神無は反射的に姿勢を正す。
「あんたさ――」
 郡司は何かを言いかけ、う〜んと小さく唸り声をあげた。
「……名前、呼んでないでしょ?」
 郡司が言うのを躊躇った続きを、透がそのまま言葉にした。
「……名前……?」
 不思議そうに問いかける神無に、透が苦笑している。
「三翼の――、高槻、士都麻、早咲の名前。主の刻印がある花嫁の声ってね、よく聞こえるんだよ。まぁ、実際に聞こえるわけじゃなくて感覚的なものだけど。呼べば必ず助けに来る」
「名前呼ばれなくても駆けつけるのが庇護翼だけどね!!」
「……やだなぁ、水羽、どっかで仕事ぶり観察してるんだろうなぁ」
 双子は顔を見合わせて、それから辺りを見渡した。
「遅刻したの怒られるかも〜」
 やはり一番の関心ごとはそこらしい。郡司は苦笑し、双子から視線をはずして神無を見た。
「呼べって言われてるだろ? 庇護翼がそう言うのは特例なんだぜ? その三翼の名前も呼ばないって事は、オレたちの名前呼んでもらうのは絶望的ってわけか」
 郡司の言葉に、神無は唇を噛む。
 三翼の名は過去に一度だけ呼んだが、何故か今、その名を口にすることができなかった。
 その名が脳裏を掠めなかったわけではない。
 けれど、呼べなかったのだ。
「……別に、呼ばれなくてもいい」
 ポツリと小さく、一樹が呟く。
「オレは、麗二の花嫁、守るだけだから」
 静かな声に、男たちは顔を見合わせる。
「ま、そうなんだけどね」
 透が苦笑して、一樹の肩を叩いた。
「それじゃ、朝霧さん。これからオレたちが三翼のサポートにまわるから宜しくね?」
 透の言葉に、神無は驚いたように男たちの顔を見た。
「鬼頭ってかな〜り嫌われてるんだよね! オレ張り切っちゃう〜!!」
「オレも〜!」
 風太と雷太が弾けんばかりの笑顔を向けて神無に胸を張ってみせる。ただ暴れたいだけのようなそのコメントに、郡司が呆れたように頭を掻いた。
「鬼頭自らが花嫁を守るのが筋だし、それが一番安全なんだが、どうもそんなわけにはいかない様だからな。――これから宜しく」
 郡司の言葉に、神無がきょとんとしている。
 その彼女に一樹が無言で頭を下げると、
「宜しくね!!」
 いまだに真後ろにいた拓海が照れたように微笑んでぺこりと頭を下げた。
「あ――」
 神無は半ば茫然としたまま男たちを見渡し、慌てて深々と頭を下げた。
「よ、宜しくお願いします」
 いまいち現状が把握されていないような戸惑った表情で、神無は鬼たちを見詰める。
 彼らは三翼の花嫁を守るためにこの場に来てくれたのだ。彼女は言葉を切って、その意味を素直に受け止めてから再び口を開いた。
「助けてくれてありがとう」
 と。
 男たちは驚いたように神無を見た。そして、わずかに動く表情の中に何かを読み取ってふっと表情を緩める。
「いや――うん。悪くないかも」
 ゴホンと大きく咳払いをし、郡司が神無から視線をそらしながら呟いている。
「う〜ん、ちょっと、これは……」
 透と一樹は困ったように苦笑して、
「う、嬉しいよね……」
 雷太と風太は頬をほんのり染めて頷きあった。
 そして、互いの顔を見合わせて、男たちがボソボソ囁きあっている。微妙に聞こえてくる会話の意味がわからず、神無は不思議そうに彼らを見た。
「あのね」
 背後から、拓海がそっと声をかける。
「庇護翼は影から花嫁を守るのが基本でね、花嫁は守られること≠ェ当たり前なんだよ」
 嬉しそうに微笑んで、彼は優しく言葉を続けた。
「だからお礼言ってくれる花嫁は稀で――オレ、頑張って貴女を守るね」
 その言葉を肯定するかのように、目の前の鬼たちは微笑していた。
 主の花嫁≠見詰めて。

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