保健室の前は、黒山の人だかりだった。
「もうすぐ予鈴が鳴りますよ」
 中性的な声が響くと、生徒たちがしぶしぶ散っていく。若干女生徒が多いようだが、皆一様に振り向き、保健室の麗人≠フ妖艶たる笑顔に頬を染めた。
 男女の隔たりなく有効な微笑らしい。
 いつも不快な視線にさらされることの多い神無だが、この時ばかりは例外であった。麗二の笑顔に魂を抜かれた生徒たちは、ふらふらと廊下を歩き、彼女に目もくれなかった。
 いや、たぶん彼女がいることすら気付いてはいないのだろう。
 突進してきた男子生徒の一人を慌てて避け、まだおぼつかない足取りで廊下を歩くその背を目で追う。
 他の生徒も状況に大差はない。
 別の生徒が向かってきて、神無は再びそれを避けた。ぞろぞろと保健室から出てくる生徒は、皆頬を赤らめて白昼夢でも見るかのように惚けた表情のままだ。
 不意に生徒の波が途切れる。
 あげた視線の先に、穏やかな瞳の鬼がいた。
 包み込むような眼差しが、まっすぐ神無に向けられている。多くの生徒たちがいる中でただ一人、彼女にだけ。
「怪我を……?」
 生徒たちの不自然な行進が終わるのを見計らって、麗二が静かに問いかけてきた。
 小さく頷くと、美麗の保健医が手を差し伸べる。
「少し混んでいて、不快な思いをさせましたね」
 愁いさえ含むその声音に神無は慌てて首を振った。桃子に言われるままここへ来たが、その怪我は怪我と言うほどたいしたものではない。それは誰の目から見ても明らかだった。
 こんな擦り傷でわざわざ保健室に来るほうがどうかしている。
「あ、あの、やっぱり――」
 神無は真っ赤になりながら、深々と頭をさげて踵を返した。
 情欲でも憎悪でもない感情を向けてくれる数少ない者――その彼に、呆れられるのが怖かった。
「貴女は我慢しすぎだ」
 慌てて走り出そうとしたその細い肩に手を伸ばし、麗二が微苦笑する。
「もっと甘えていいんですよ?」
 引き寄せながら囁いて、その髪に口づける。
 何が起こったのかよくわからず、神無は完全に固まった。今まで辛い思いばかりをしてきたはずの少女が見せるその初々しい姿に麗二は瞳を細める。
「ここで口説きたいところですが」
 何かを言おうと口を開き、考えるように動きを止めた神無が言葉の意味を理解して身じろいだ。麗二は少女を後ろから抱きしめるように固定してにっこり微笑んでいる。
「立場上、今それをするのは非常にまずいので、保健医らしく怪我の治療をしましょうか」
 囁く声に、神無は思わず頷いていた。
 立場がどうであれ、口説くというのは――少し、違うように思う。
 そう、違うはずなのだ。
 治療ならいいと思いなおし、神無は顔をあげた。
 後ろから覗き込むようにして麗二が微笑んでいる。神無は、その腕の中にすっぽりと抱き包まれている。
 その美貌が目の前にあるとか、ここが学校の廊下であるとか、そんな些細なことはどうでもいい。
 とりあえず体の密着するこの状況は、教師ではないとはいえ、あまりに不謹慎ではないのか。
「あ、あの――!」
 神無は再び身じろいだ。麗二の腕にわずかな空間ができる。
「ああ、すみません。つい」
 うろたえる神無の姿が面白かったのか、麗二がくすくす笑っていた。それでも、抱きしめる腕を放そうとしない。
 彼はそのままくるりと神無の体を反転させ、素早く保健室へと彼女を導いた。
 その動きには全く無駄がなく、あまりにも慣れている。
「膝の怪我、たいしたこと……ないです」
 言い訳のようにそう言うと、
「そのようですね」
 軽く聞き流して、麗二が笑っている。
 血の臭いがしないから、そう判断したのかもしれない。しかし、神無をそのまま帰す気はないようで、後ろ手でドアを閉めると彼女を丸椅子に座らせた。
「せっかくなので、お茶にしましょうか」
「え――?」
「治療をしてから。あぁ、気にしなくてもいいですよ。この部屋、生徒の憩いの場になっていまして、時間に関係なく――」
 そこまで言って、彼は保健室のドアを見た。
「よく生徒がサボりに来ますから」
 ドアがスライドする。
 ぽぅっと頬を染めた女生徒が一人、ドアに手をかけたまま立っていた。
「先生、熱があるみたいなんですけど……!!」
 潤んだ瞳が、まっすぐに麗二を見詰めている。やはり神無の存在は眼中にないらしい。
 麗二は呆れるように苦笑した。
「しばらくしたら落ち着きますよ。その時も熱があるようなら、もう一度いらっしゃい」
 やんわりと断る保健医に、女生徒は頬を染めたまま頷いた。熱は熱でも、どうやら対処の困る熱らしい。
 熱い視線を送りながら、操り人形のようにぎこちなく、彼女は保健室のドアを閉めた。
「流血沙汰の怪我人はいないのですが、どうにも落ち着かなくて」
 困ったものだと呟いて、保健医は小さく溜め息をつく。その仕草があまりにも様になっていて、神無はただ無言で見詰めていた。
 鬼の中でも高齢であると聞いたが、とてもそんな感じには見えない。
 あの悪夢のような大広間で見た男たちは、人と同じように年老いた者がいた。神無を式場まで案内した男も、そう若いとは言い難い貫禄のある男だった。
 光晴は麗二のことを「若作り」だと表現した。
 確かに年のわりにはかなり若作りで、しかも、それが気にならないほど自然だった。麗二に夢中な生徒たちは、彼の年齢を知らないに違いない。
 知ったらかなりのパニックになるだろう。
「楽しそうですね」
 ふっと麗二が神無に視線を向ける。
 神無はきょとんと麗二を見た。自分が笑っていた事に気付いていないのだ。
「どうせ、あまりいい事は考えていなかったでしょう。そんな顔でしたよ?」
 言われて、神無は頬に手をあてる。
「こんな場所に一人きりですからね、そりゃぁ多少は誘惑もありますが、そんなに気が多いほうではないんです」
 肩をすくめながらそう言って、保健医はピンセットでガラス瓶に入った綿球をつまみ、消毒液を含ませる。
「仕事と割り切って色々してますが、最近余計な作業がとみに増えて」
 神無の前にしゃがんで、たじろぐ彼女に苦笑してからそのスカートを少しずらし、皮のめくれた膝に綿球をあてる。冷やりとした感触に、神無が一瞬息をのんだ。
 麗二は軽く膝を消毒すると綿球を汚物缶の中に落とし、ピンセットも別の缶に入れた。
「それが気に入らないとかで諸先生方からは嫌な目で見られて、生徒からは何か違う目で見られて、本当に対処に困るというか」
 眉間にわずかな皺を寄せ、一連の作業を終えた麗二が小さくぼやいている。
 何か話がおかしな方に向かっているが、つまり、この保健医は。
 ――どうやら、ねているらしい。
 神無が笑った理由を勘違いしたようだ。そのあまりにも的外れな独り言に、神無の頬が自然と緩む。
「そんなにおかしなことを言いましたか?」
 麗二は不思議そうに小首を傾げた。
「――少し」
 短い神無の答えに、麗二も表情を緩める。彼はそっと神無の頬に手をそえた。
「怪我は消毒だけにしておきます。何かあったら、いつでもおいでなさい。――貴女の笑顔は、心がなごむ」
「……笑顔……?」
 問いかける少女に、彼は優しく瞳を細める。
「それに気付けば、もう少し楽になれます。願わくば――それを気付かせるのが私であればよいと。今はまず、警戒されないことを感謝すべきですが」
「……警戒」
 ポツリと反芻し、神無は保健室をちらりと見た。
 自分と麗二以外誰もいない広く白い一室。
 以前なら、男と二人きりで同じ部屋にいることなどなかった。人が獣になる瞬間を見続けた彼女は、常に一人でいるか、常にその他大勢の中に埋もれる生活を送ってきた。
 それが今は違う。
 昨日会ったばかりの男と、ひどく穏やかな空間を共にしている。
「そうやって変わっていけばいいんです。ゆっくりと、貴女の望むように」
 麗二の言葉に神無は少し考えるように唇を噛んだ。自分ではどう変わったのかなどわからないし、実際に変わったかどうかも疑わしい。
 ただ彼を危険ではないと認知しただけかもしれない。
「焦る必要はありません。人にはそれぞれペースがあって、それを見付けるのはとても難しい。だから、ゆっくりでいい」
 戸惑う神無の気持ちをんで、麗二はそう告げる。その声色の暖かさが、優しく心の中に沁みこんでくる。
 神無は麗二を見詰め、そして小さく頷いた。
「…………。この場合」
 保健医の白い手が、名残惜しそうに少女の頬から離れていく。
「自分の立場が恨めしいです」
 笑顔が微妙に崩れている。
「保健医を辞めて、もう一度学生に戻りたいですねぇ」
 くるりと踵を返し、保健医は盛大に溜め息をついた。
「そうしたら、ぎゅって抱きしめてもいい気がしませんか? 今から辞表の書き方、勉強しておきます」
「え?」
 いきなりすっ飛んだ話に、神無は茫然と麗二の白い後ろ姿を見詰めた。
「今、私が一番貴女から遠い場所にいる。これは絶対不利だと思うんです」
「……」
「だから、辞表の書き方を勉強しておきます」
「え??」
 どこをどう飛ばしたらそんな話になるのかさっぱりわからず、神無は間の抜けた声を出した。
「本気で口説きますけど、いいですか?」
 くるりと振り返った保健医は、全開の笑顔を向けてくる。
 しかも、かなり返答に困る問いかけを用意して。
「あの……!」
 神無が口を開いたと同時に、チャイムが鳴り響いた。
「じゅ、授業、行ってきます!!」
 慌てて丸椅子から立ち上がり、神無は小走りに出口へ向かった。その細い体を、麗二は腕を伸ばして軽く制止する。
「いってらっしゃい」
 低く囁くように声をかけ、そのまま耳元に口付けてくる。
 口付けられた耳元まで赤くなった神無を満足そうに見詰めて、セクハラ保健医はようやく少女を解放した。

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