校章と同じ鷹が刺繍された紺色の手さげを抱きしめて、神無はトイレから出た。
「あ〜!! もう、どこ行ってたのよ〜!!」
キョロキョロしていた桃子が神無を見付けて、同じデザインの手さげをブンブン振り回している。
「探したんだから!」
そう言って駆けより、神無が出てきた場所を見て、怪訝そうに首を傾げる。
「トイレで着替えてたの?」
その問いに答えず、神無は手さげを抱きしめる腕に力を入れた。肌を見られることを避けてきた習慣は、そう簡単に変わるものではない。
それに、更衣室で着替えればいやでも注目される。
以前は、その肌の醜さゆえに。
今はそれに別の意味も加わってきている。
「ま、いっけどさ。あんまり別行動してると目ぇつけられるよ。ほら、あそことか」
桃子は顎で前方を指した。
少女が二人、睨みつけるように神無を見ていた。
背の高いボブカットの少女は切れ長の目をさらに細め、傍らの少女に何かを耳打ちする。その少女は小さく笑いながらセミロングのつややかな髪をかきあげて神無から目をそらした。
美しい少女たち。
自分がどれほど注目をあびているかを熟知したかのように、その指の動きすら細心の注意をはかりそうな女。
「背の高いのが関根ユナ、隣の日本人形みたいなのが江島四季子。見た目いいけど、あの二人ホント陰険だから、近づかないほうがいいよ」
見覚えのある二人の後ろ姿に、神無は瞳を伏せる。
体育の時間に背中を押したのは、色白で穢れとは無縁と思われる美しい日本人形のような少女だった。
足を出したのは、きりりとした美貌の背の高い少女。
「あそこらへんはさ、自分が鬼の花嫁だってことに誇り持っちゃってる奴らだから、朝霧さんみたいなの気に入らないんだろうな」
桃子は面倒臭そうにそうぼやきながら歩き始めた。
「うっとうしんだよね、実際。なにがそんなに偉いんだか知んないけど、自分よりちょっとでも劣ると気に入らないの。飛びぬけてると潰しにかかるし。ホント、やんなる」
その被害者なのだろう桃子は、うんざりしたように肩をすくめてみせる。神無が口を挟まなくても気にした様子はなく、わずかに苦笑して、ふと笑みを消した。
「ちょっと!」
言葉と同時に、桃子の手が神無のスカートに伸びた。他の生徒よりも確実に10センチは長いそれを遠慮なくめくる。
「あんた怪我してる!!」
膝の皮がめくれているのに気付き、桃子は顔色を変えた。血は出ていないが、持久走のときに派手に転んだとき擦りむいてしまったのだろう。
これぐらいの怪我は別段珍しいことではない。
「へ、平気……!」
むしろスカートをめくられている事のほうが恥ずかしくて、神無は慌てて桃子から逃げるように離れた。
「なに言ってるの、保健室行ってきなよ! 体操服あずかっとくから!」
「でも……!」
「先生にも言っとく! 大丈夫、聞いてるでしょ?」
桃子はそこでいったん言葉を切って、にっこり笑った。
「先生は全員鬼なの。鬼頭の花嫁がちょっとくらい遅れたって平気だよ」
鬼の中で一番偉い男の花嫁が神無なのだ。教師たちがたとえどんなに華鬼に不満を抱いていても、表面上その立場は絶対ということなのだろう。
「血って、鬼を狂わせることもあるんだよ。とくに朝霧さんはさ、格が違うから。行っといでよ」
桃子の言葉に、神無は一瞬だけ身をすくませる。鬼は人より、凶暴だと思う。
鮮血を見て興奮する者もいる。
そして、食欲を刺激される者もいるらしい。
彼らにとって、自分は女であり、肉の塊なのだ。
神無は胸に抱いていた手さげをおずおずと桃子に差し出した。
「よしよし、保健室はね――」
「場所は……」
「あ、知ってるか」
神無から手さげを受け取って、桃子は苦笑した。
「高槻先生に求愛されたんだもんね。羨ましい〜」
そう言われて、神無はふわりと頬を染めた。あれはたぶん、好きという意味での行為の延長線ではないはずだ。
それはわかっている。
しかし、それでも意識せずにはいられない。
神無はそっと胸元に手をやる。
以前から呪いのように咲いていた花とは別のものが、その肌に増えていた。それが求愛の印であると、すぐに理解した。
求愛するということは、元ある鬼の印に自分の印を重ねるということは――それは、あまりに大胆な宣戦布告だ。
刻印のある場所は、本来ならそうそう人目にさらすことはない。そこに口付けるというのは、かなり親密な関係である事をあらわしている。
求愛の印とは、鬼の花嫁≠ニ恋仲になった鬼が、密やかに贈るもの。
それをあの三人は、こともあろうに本人の目の前でやってのけた。
真っ向勝負を持ちかけたのである。
「三人が一度に求愛するのって、初めてらしいよ? さっさと行って、高槻先生に手厚〜い治療してもらってきなよ!!」
桃子が笑いながら、神無の背を押した。明らかに、からかって遊んでいる。学園始まって以来の大事件に、鬼の関係者一同の中にはことの成り行きを傍観しようとかまえる者が多く出始めていた。
今まで、鬼頭の花嫁に求愛した鬼はいない。
鬼は情が深い。それは強い鬼であればあるほど、深くなる。
そして、強い鬼に愛された花嫁は総じて幸せな一生をおくっていた。その過去の経緯から、鬼たちはどんなに恋焦がれても、決して自分より格上の者の花嫁に求愛することはなかった。
そう、今までに一度もなかったのだ。
「早く早く!」
そのことを知っているらしい桃子は声を弾ませている。
これでは逆に行きにくい。
神無が桃子を見ると、彼女はわざとらしく腕時計に視線を落とした。
「急がないと次の授業、完全に遅刻!!」
桃子の声にハッとして、散々渋っていた神無は慌てて廊下を走り出した。
「単純ねぇ」
クスクス笑う桃子が、小さく手をふった。