神無のわきを級友たちが次々と追い越していく。
 必死の形相の神無とは違い、少女たちは実に楽しそうに走っている。山を切り崩して造られた巨大な学園は、9月だというのに爽やかな空気に包まれていた。校舎の外の道路は舗装されているとはいえ、まるで遊歩道のようだった。すぐ隣には巨木が立ち並び、目に鮮やかな緑が覆いかぶさるように広がっている。
 その道を、少女たちは走っていた。
 三限目は体育の授業である。鬼ヶ里高校のあるこの場所は、11月になるとすっかり雪景色になるという。持久走や野球、硬式テニスなどの屋外競技は総て雪のない時期の授業に押し込まれていた。
 持久走は普通ならあまり歓迎されない競技だ。神無が以前いた学校は、小学校でも中学校でも、ほとんどの生徒が嫌がって、中には仮病で休む者もいたほどだった。
 巨大な校舎を二周――神無は先生のその言葉を聞いて、他の生徒同様、顔をしかめた。
 しかし実際走ってみると、それはさほど苦痛ではなかった。
 広がる緑と澄んだ空気、校舎から聞こえてくるピアノの音が、穏やかな時間を運んできた。
 男子生徒は時期をずらして持久走をするようで、校庭で元気に白球を追いかけている。
 女子生徒はその声を聞きながら一斉にスタートを切った。
 始めは、神無もなんとか皆について走っていた。だが、その外見が示すように、もともと彼女はそんなに体力があるほうではない。
 心地よいはずの森の空気は、いつしか全く感じることができなくなっていた。
「あら、周回遅れがいる」
 クスクスと後方から笑い声が聞こえた。その瞬間、肩を強く押されて上体が崩れる。とっさに体を支えるために足を踏み出そうとして、何かにつまづいた。
「ドジ」
 派手に転んだ神無の耳に、小さく罵る声が届く。
 顔を上げると二人の少女が、歪んだ笑みでこちらを見詰めていた。二人はすぐに小声で囁きあいながら、まるで何事もなかったかのように再び走り始めた。
 べつに、珍しいことではない。前の学校でもよくあったし、嫌がらせ自体は本当に呆れるほど体験してきた。
 慣れることはないけれど、あきらめる事はできる。
 仕方のないことなのだと。
 その原因を、知ってしまったから。
「あいつら最低」
 小さくなって緑に吸い込まれていく級友の背を見詰めていた神無の横に、誰かが立ちどまる。
「大丈夫? よかったね、ジャージ着てて。でなきゃ結構すりむいてたよ?」
 目の前に手が差し出された。
 神無が視線をあげると、にっこりと少女が笑っている。
「ほら、掴まって。あのずーっと先を曲がると正門があるの。先生に言ってさ、大目に見てもらおうよ」
 神無が茫然と見上げていると、じれたように少女がしゃがんで神無の腕を取った。
 無理やり立ち上がらせると、彼女は神無の体をはたいてゴミを落としている。
「うわ、細いね〜。これは持久走向きじゃないよ。次からもう少しメニュー変えてもらわないと倒れちゃう」
 一方的にそう言って少女が顔を上げた。
 神無より少し背の低い、クセのある黒髪を無造作にひとくくりに縛ったぽっちゃりとした少女だ。体操服から伸びた二の腕も、濃紺の短パンから伸びた足も、健康的なみずみずしさにあふれている。
 神無とは正反対の少女。
「あ、ありがとう」
「どーいたしまして!」
 少女は再び弾けるような笑顔を神無に向ける。
「あたし、土佐塚とさづか桃子っていうの。よろしくね」
「あ……私……」
「知ってるよ! 鬼頭の花嫁でしょ」
 走るのを放棄したようにのんびり歩きながら、桃子は驚いたような表情の神無を見詰めた。
「だって、昨日すごかったじゃない。木籐先輩壇上で結婚の話して、夜にはあの騒ぎじゃん。ほかの鬼とか花嫁とか、すごいピリピリしてるよ」
 桃子が言っている意味がわからずに、神無は彼女の言葉をじっと聞く。
 あんな形ばかりの婚姻で何をそんなに騒ぐ必要があるのかがわからない。確かに初めは苦痛以外の何物でもなかったが、庇護翼である光晴たちに助けられたあとは、あの婚儀さえ夢だったのではないかと思ってしまうほどだった。実際に、婚姻届を出したわけでもなく、あの非情な鬼と一夜を共にしたわけでもないのだ。
 別の鬼となら、一緒にいたが。
 そのことを思い出して、ふわりと神無が頬を染めた。
 すっかり忘れていたが――昨晩は、水羽に言われるままぬいぐるみに囲まれて、見事に爆睡した。
 目が覚めたとき、覗き込むようにして微笑む少年の顔があまりにも幸せそうに見えて、その笑顔に見惚れてしまった。
 それが自分の花嫁≠ノ向ける表情なのだと思った。
 華鬼を好きになれと言ったが、それは希望であって、本心ではない。本能は理性で制御できるが、それそのものが消えるわけではないのだ。
 代償を求めず与えられる好意。それはひどく落ち着かない。
 落ち着かないけれど、心の奥が暖かくなる気がした。
「どうしたの? 熱でもある?」
 桃子の問いかけに、神無は慌てて首をふった。
 水羽があれなら他の二人はどうなるのだろう。そこまで考えると、落ち着かないどころの騒ぎではなくなっている。
 神無は大きく息を吸い込んだ。
 風に揺られて木々がざわめく。その音に、アスファルトを蹴る靴音が混じる。
「似た者同士」
 クスクスと笑いながら、別の級友たちが二人を追い越してゆく。
「ったく、うるさいなぁ」
 桃子が頬を膨らませた。
「……似た者……?」
「ま、そーゆーことよ」
 桃子は大げさに両手をあげて肩をすくめる。
「あたしらのクラス、鬼の花嫁半分以上いるの。あたしも鬼の花嫁」
 決して美人とはいえない少女が苦笑混じりでそう返す。
 鬼の花嫁は美少女が多い。それは鬼が好んで美しい女を選び、その女の腹に宿る女児に印を刻むからだ。
 しかし、例外はいる。
 美しい女から生まれた子が、母親と同じように美しいとはかぎらない。
「あたしの母親メチャクチャ美人で、お姉ちゃんも妹も、そりゃ美人姉妹で通ってて。あたしだけが失敗作ってわけ」
 努めて明るく返す桃子の顔を、神無は無言で見詰めていた。
 街に出ればありふれた容姿。だが、鬼の花嫁という立場で言うのなら、それはきっと醜い部類に入るのだろう。
「気をつけなさいよ、あんた。木籐先輩、鬼にはすごく嫌われてるの。逆にね、鬼の花嫁はあの人を狙ってる。あの人に選ばれたら、自分が一番になれるってみんな思ってるの」
 だから神無は邪魔なのだ。
 どこに行ってもさほど状況はかわらないと思っていた。憎悪まみれの嫌がらせも、感覚が狂うほど味わってきた。
 それでもまだ、足りないらしい。
「怖いよねぇ。みんな、鬼に心を喰われたんだよ」
 少女もまた、鬼の顔で微笑んでいた。

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