「ん……」
 濃密な空気の内側で、吐息がゆっくりと溶けていく。
 外からは球技に没頭する学生たちの歓声が聞こえてきた。
「ダメよ、カーテン……」
 甘えるような鼻声を無視して、腕の中の柔らかい体をきつく抱きしめる。夏休みの間に海に行ったのかもしれない。腕の中で微かにはね上がった体にはビキニのあとが見事なコントラストで残っている。
「木籐君……、もぅ……」
 少女は胸に顔をうずめる男を両腕で包む。同じ年頃の男とは違い、彼にはずいぶん余裕がある。どこか冷めていると言ってもいいほどゆったりとした指の動き。それが逆にもどかしく欲望に火をつけることを――まるで、計算に入れているかのようだ。
「あッ」
 するりと手が太股を滑り、ぴたりと止まった。
「……木籐君……?」
 そこから全く動こうとしない彼にじれて、彼女がうっすらと目を開ける。
「あら、理性は残っていて?」
 玲瓏とした声が濃密な空気を一瞬で払拭ふっしょくした。灰色のキャビネットの上で男に組み敷かれていた少女は、ほとんど反射的に声の主へと視線を移動させる。
 ドアに背をあずけるようにして立っていた少女は、この場で何が行われているのかを知っているにもかかわらず、全く表情を変えてはいない。
 学園一の美少女と名高い生徒会副会長、須澤梓である。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です。貼り紙が見えなかった?」
 思わず見とれてしまうほど魅惑的な微笑で梓が二人に声をかける。華鬼が離れてからようやく正気に戻った少女は、顔を真っ赤にして、ボタンがほとんど外され大きく開かれたブラウスをかき合わせた。
 彼女はそのままベストを拾い、体を小さく丸めて足早に梓の隣をすり抜ける。
 梓は廊下に響く足音に耳を傾け、それが聞こえなくなってからようやくドアを閉めた。
「生徒会室はあなたのプライベートルームじゃないのよ。風紀も乱れるし、やめてくれない?」
「いやならオレ専用の部屋でも作れ」
「ベッドとシャワールーム付き?」
 梓の辛辣な口調に、華鬼が喉の奥で低く笑った。
「総ガラス張りにするか」
「悪趣味の極み」
 手にしていた書類を机の上に置きながら、呆れたように梓が華鬼を睨んだ。
 どんな表情をしても、これほど美しい女はいないだろう。鈴を転がすような声も、その容姿も仕草も、申し分のない女だった。
「お前を一番に誘ってやろうか?」
 生徒会長はそう言って腰掛けていたキャビネットからおりた。
 女を組み敷いていたにもかかわらず、その服装に一切の乱れはない。何度か最中に出くわした事があるが、いつも乱れているのは女ばかり――この男にとって、女とはその程度の道具でしかないのだ。
「薔薇の花で飾ってやろう」
 心臓を鷲づかみにする蠱惑的な眼差しで、華鬼が近づいてくる。
 伸ばされた手が梓の髪に触れ、それを払うように動いた。
「あなたと私、なんて思われてるか知ってる?」
 梓の問いかけを無視して、華鬼が白いうなじへと唇を寄せていく。
「何も知らない人は、恋人だと思ってる。あなたが鬼の花嫁を抱かないことを知らない人間は」
 うなじに触れる寸前だった唇がそこで止まった。
「抱く気がないならその気にさせないで。迷惑よ」
 切り捨てるような口調で、梓はそう言った。彼女の胸にも刻印がある。多くの女たちが否定し、そしてやがて受け入れていく忌まわしい呪いだった。
 梓にそれを刻んだのは目の前の男ではない。
 この男が選んだのは別の女なのだ。
「どうして結婚したの? あなた、鬼の花嫁は抱かないじゃない。こんなの――」
「黙れ」
 低く唸るような声が耳元で聞こえた。総毛立つほどの怒気が一瞬で梓の体をこわばらせる。
 うなじにかかっていた息が消える。
 ゆっくりと離れていく華鬼を見て、梓は安堵したように息を吐いた。
「……昨日のこと、もう鬼たちの間では有名よ」
 梓は部屋を出て行こうとする華鬼の背にそう言葉を投げかける。
「相手がどうなるかはどうでもいいわけ? 花嫁を迎え入れたくせに、別の女に手を出すなんて――それ、最低じゃない?」
 華鬼が足を止めた。振り返ったその目は、怒りと苛立ちから見事な金色に染まっている。
 最近の華鬼は、いつも苛立っている。
 機嫌のいい時などないといってもいいほど。
 心から楽しそうに笑っている、そんな顔も見たことがない。過去に彼が見せた笑顔はいつもひどく歪んでいて、例外なく人を傷つけるために用意された作り物の顔だった。
「木籐君、いつか刺されるわよ?」
「くだらない」
「自覚しなさいよ」
「――鬼頭がそれぐらいで死ぬと思うか?」
 苛立ちの残る黄金の瞳を細め、華鬼がドアを開けて廊下へと出た。
「お前のせいで今晩の宿がふいになった。新しいのを探さないとな」
 ボソリと文句を一つ言い、そのまま廊下を歩き出す。梓は茫然と彼を見詰めた。
「宿……?」
 華鬼の言葉を繰り返して硬質なキャビネットに視線をやり、そして廊下から見える職員宿舎を凝視した。
 宿舎の一部には大きな穴が開いている。そこが華鬼の部屋であることは鬼の関係者なら誰もが知っていることだ。
 大小さまざまに開いた穴。一部で火災も発生したと今朝聞いた。
 鬼頭と庇護翼の乱闘に他の鬼たちも便乗して大暴れしたというのだから、その血の気の多さに呆れて物も言えない。
 現場となった華鬼の部屋は、外から見てもわかるほど荒れている。
「まさか、女子寮に泊まる気じゃないでしょうね……?」
 授業そっちのけで宿探しに精を出す生徒会長の姿を思い浮かべ、副会長は深く深く溜め息をついた。

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