黒塗りの車の後部座席で、神無は息を殺すように身をすくめた。
 鬼ヶ里高校の中庭には婚礼の時に一度だけ会った男がいた。華鬼がいないにもかかわらず、婚礼を押し進めるために赤絨毯の上を導いた男の名は、渡瀬と言った。
 しかし、神無の記憶にはうし≠ニインプットされている。
 思わず走り出してしまったのは、彼が困ったような顔をしてあたりを見渡していたからだ。手助けできるかもしれないと安易に考え、身の危険を顧みることなく中庭に飛び出した。
 上履きでなかったら、それに気付いてとっさに靴に履き替えようと思わなければ、今頃命を落としていたかもしれない。
 些細な日常≠ヘ、いつも死の臭いを纏って彼女の前に存在し続ける。
 彼女が渡り廊下に戻ろうと後退した瞬間、目の前を鋭利な刃物が通過した。総ての状況を飲み込むよりも早く、彼女の体は反射的に物陰へ隠れた。
 投げられたナイフは全部で三本。
 木に二本、そして彼女のすぐ近くに投げられたもう一本のナイフは、毒が塗られていたらしい。
 突然現れた黒いスーツの男たちが守ってくれなければ、次に投げられただろう四本目のナイフは、壁ではなく彼女の頭部に刺さっていたかもしれない。
 命の恩人ともいえる男を、神無はうしさん≠ニ呼んだ。
 他の名前が浮かんでこなかったのだ。
 中庭でそう呼ぶと、彼は一瞬険しい顔になり、すぐにその表情を消した。
 そして神無の意思を無視し、半ば強引に黒塗りの車に押し込めたのである。
 本来なら逃げ出すはずの彼女ではあるが、あまりに事務的な彼の行動に流されるように車の中で待たされ――そして、10分。
 目を疑うような人物が不機嫌そうに後部座席のドアを開けた。
 神無はこっそりと隣を盗み見る。
 これ以上ないほど不機嫌な顔をして、スモークガラスを割らんばかりの勢いで睨みつけるのは、木籐華鬼。
 鬼の末裔であり、神無に印を刻んだ男だ。
 どういった具合でこんな事になっているのかわからず、神無は彼からなるべく離れるように、反対側のドアに貼り付いている。
 ピリピリと痺れるような空気は、彼の苛立ちを克明に伝えてきた。
 車が走り出してからすでに一時間以上経過しているが、彼の苛立ちは一向に治まる気配がない。
 彼に対する恐怖より、その感情が持続する事自体が珍しくて、神無は不機嫌な鬼を何度も盗み見ていた。
「……そろそろ威嚇するのをやめていただけませんか」
 無言で車のハンドルを握り締めていた渡瀬が、低い声で呼びかけてきた。
 神無が華鬼に向けていた視線を運転席にやると、斜め後ろから見える彼の顔は声以上に困り果てていた。
忠尚ただなお様の言いつけなんですよ。――どうして呼ばれたか、ご自分でもわかっておいででしょう」
「庇護翼全員、出す必要があったか?」
 地の底から響くような声で、華鬼は窓ガラスを睨みつけたまま渡瀬にそう返した。
「貴方に逃げられては困るとお思いだったんですよ。一度失踪した前科がおありだ。あの方も慎重になられます」
「…………」
「――失踪」
 驚いたように華鬼を見ながら神無が繰り返すと、
「行く先はわかっていたので、失踪と言うより引きこもりでしたが」
 と、渡瀬が奇妙なコメントを付け加えた。
 神無は渡瀬から視線を移動させ、息をのむ。
 ずっと濁りきった窓の外の景色を見詰めていた華鬼が、神無を見ていたのである。その瞳は闇夜のように吸い込まれんばかりの漆黒。目が合うといつも金色をしていたから、彼の本来の瞳の色など忘れていた。
 ふっと細められた目は、苛立ちとは別の感情が見える。
「――渡瀬、余計な口を開くな」
 彼はそう言ったきり、神無から視線をはずして再び窓ガラスを見詰めた。
 空気が張り詰める。
 威圧的なそれは、いつも彼が意図して作り上げる彼を中心とした世界の形。他者の存在すら拒む圧倒的な意思の表れ。
 怒りと苛立ちを内包させたその空気に恐怖を感じないわけではない。
 どこか安全な場所があれば、すぐにでも逃げ出しそうになる。
 ただ今は、初めて彼と対峙した時とは違い、恐れの中にも彼に対する興味のようなものがあった。
 あれほど冷酷だと思い続けていた非情な男が不意に見せる動揺の色。
 苛立ちはそのままに、彼の心は常に不安定に揺れているような気がしてならない。まるで何かを否定するように――あるいは、あきらめる様に。
 神無はドアに貼り付きながら、変わらず華鬼を観察し続ける。
 その行為で彼の苛立ちがさらに急加速しているのだが、神無はそのことに全く気付くことなくひたすら間近にいる鬼を見詰め続けていた。
 車内にいる華鬼と渡瀬には完全に知られているが、彼女なりにこっそりしているつもりである。
「鬼頭……車内では暴れないでください。もうすぐ着きますから」
 懇願するように渡瀬が言うと、状況を理解していない神無が不思議そうに壮年の男を見た。
 アクセルを踏む足に力が入っているようである。
 奥深い森には延々と続く綺麗に舗装された道路しかない。今まで対向車とすれ違う事もなく走り続けてきた車は、やがて巨大な門の前で停車した。
 神無はスモークガラスにべったりと両手をつけ、外の様子を窺う。
 門の前に、まるで待ち構えるかのように人がいた。
 数人の女と、その中央にはおそろしく不機嫌そうな男が一人。
 女たちは美女ぞろいにもかかわらず、中央の男は美形が多い鬼の中ではさぞ霞んでしまうだろう、ごく平凡な容姿だった。
 神無が見る限り、町中でよく見かける冴えない中年サラリーマンである。
 注意深く外の様子を確かめていた神無をじろりと見て、華鬼は車のドアを開けた。
「お帰りなさい、鬼頭」
 微笑みながら駆け寄る女たちの声は軽やかに弾んでいる。その女たちを押しのけて、華鬼は男の前に立った。
 彼は華鬼より幾分背が低く、ゆっくりと顔をあげて華鬼を見た。
 男の無骨な手が伸び、華鬼の胸倉を掴んで乱暴に引き寄せる。
「いいか、一度だけ言う」
 低く唸るような声で、獰猛な表情をした男は華鬼を睨みすえた。
「オレに恥をかかせるな」
 たった一言短く言って、彼は突き飛ばすように華鬼を放す。そしてそのまま、まっすぐに神無の乗っている車を見た。
 神無はスモークガラスに貼り付くようにして意外な光景を凝視している。華鬼は男を睨みつけはしたが、女たちに囲まれて門をくぐっていった。そして、華鬼を突き飛ばした男はゆっくりと神無の乗った車に向かってきている。
「――鬼頭のお父上、外尾忠尚様です」
 渡瀬が近付いてくるその男が誰なのかを神無に伝えた。
「出て来い、小娘」
 後部座席――神無の貼り付いているドアの真正面で、男が低く命令を下した。

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