神無は一日中、落ち着きなくそわそわしていた。
 昨夜のもえぎの発言が、一晩明けた今現在でも彼女を動揺させている。
 今日から泊まる部屋は自分で選ばなくてはならない。もえぎは簡単に言っていたが、その行為を考えれば考えただけ、安易に選ぶ事ができずに途方に暮れてしまう。
 ざわめきが絶える事のない教室の中で、いつの間にか孤立するようにポツンと椅子に腰掛けて、神無は小さな溜め息を漏らす。
 あからさまな無視にも気付けないほど、彼女の頭の中は今晩のことで埋め尽くされていた。
「神無」
 教科書の表紙を凝視していた神無に、明るい声がかけられる。
「昨日、ゴメンね」
 顔をあげると、そこには水羽がいた。
「移動教室だって教えようとしたら、強引に引きずられてさ。そのあと大変だったって聞いて」
 微苦笑でそう語る少年を見た神無の顔が、ふわりと赤く染まった。
「神無?」
 不思議そうに小首を傾げる少年は、可憐な容姿のためか少女のようにも見える。けれど実際には神無に求愛をした相手だ。
 今更ながらにその事を意識して、神無は慌てて首をふった。
 何か言わないと変に思われてしまう。
 そうわかっていても、もともと他人との接点を極力減らすような生活を繰り返してきた彼女には、とっさにいい言葉が浮かんでこない。
「――神無、今晩待ってるから」
 何かを察したらしい水羽は、小さくそう言って邪気のない微笑を神無に向けた。
 返す言葉もなくさらに赤くなる神無に、少年が悪戯っぽく瞳を細める。
「だと思った」
 ゆっくりと顔を近づけて、水羽は囁いた。
「そんなに緊張する事ないよ。ボクたちが一番怖いのは、花嫁に嫌われる事だからね? 酷い事はしない。約束する」
 至近距離で、水羽が微笑んでいる。
 級友たちは神無を無視しているが、気にしていないわけではない。逆に、意識しすぎていると言っても過言ではないほど神経を張り巡らせていた。
 ゆえに、触れ合うほど近付いた神無と水羽は注目の的でもある。
 わざとらしい笑い声はすぐに消えた。
 そして教室内が静かになるには、さほど時間を有しなかった。
「水羽!」
 級友の一人が慌てて水羽の腕を引いた。
「あんまり朝霧にくっつくなよ。女子が――」
「女子が何? ヒステリーをおこすって?」
 にっこりと笑ったその顔は天使のように清雅だったが、いつもとどこか雰囲気が違う。水羽は掴まれた腕を振り解いて言葉を続けた。
「そんなのどうでもいいよ。いい加減ガキ臭い事やめたら?」
 笑みが挑発的なそれへと変化する。
 振り払われた手を下ろす事も忘れて、級友は口をぽかんと開けた。
 おそらくは、初めて見せる顔なのだろう。唖然としたような皆の顔を見渡し、神無はそう思った。
 このままここにいれば、自分だけではなく水羽まで孤立することになる。
 それをいとわない性格であることは、なんとなく理解できた。だが、だからと言って巻き込んでいいわけではない。
 神無は水羽を見詰め、そして椅子から立ち上がる。
「ありがとう」
 誰にも聞き取れないほどの声で礼を言い、彼女はドアに向かった。
「神無!」
 呼び声を振り切るようにして教室を出ると、反対側から歩いてきた桃子にぶつかりそうになった。
「神無? もうすぐ授業だよ?」
 驚いた彼女の声に小さく頷いて、神無はそのまま廊下を足早に歩き出した。後にした教室からどよめきが聞こえる。
 神無は一瞬足を止め、しかし再び歩き出した。
 戻っても、水羽が自分を守るために動くことは見えている。三翼の求愛の一件をよく思っていない鬼の花嫁たちもきっと多いだろう。
 あそこにいると、彼に迷惑をかける可能性が高い。
 授業直前までどこかで時間を潰し、そして教室に戻ったほうが皆の為にもなるはずだ。
 神無は小さく息をつく。
 押しつぶされそうな悪意がさほど苦痛でないのは、味方であろうとしてくれる者がいるからかもしれない。それは今まででは有り得なかった存在で、そして何よりも心強かった。
 神無は人の気配に慌てて階段を下りた。
 階下の安全を確認すると、どこまでも続くかのような長い廊下を人の目を避けるように進む。その行動は、昔から無意識に危険を避けるようにしていて身についた、彼女の悲しい習慣でもある。
 その彼女の視線が、ふと窓の外に向いた。
 そこからは中庭が見える。小さな花壇に桜の木、休憩するのに便利そうなベンチも用意されているが、もうすぐ授業が始まる時間である。そこには誰もいないはずだった。
 しかし、意外なことに黒い人影がある。
 そしてそれは、朧げではあるが、神無の記憶に残る容姿だった。
 彼女は階段を駆け下り、一目散にその黒い物体を目指した。
 慌てて中庭に出ようと足を踏み出したが、彼女はすぐに上履きであることを思い出し、一歩後退する。
 その目の前を何かが掠める。
 鈍い音がした場所を見て、反射的にもう一歩後退する。
 再び目の前を掠めたものが、神無が見詰める木の幹に突き刺さる。
 ――二本目。
 神無は大きく一歩後ろへ下がり、校舎の影に身を隠した。三度目の音は、すぐ近くで聞こえた。
 神無は息をのむ。
 視界の隅にナイフの柄が飛び込んできた。
 高さから見て、確実に頭部を狙ってきている。コンクリート壁に突き刺さったナイフは力加減をしているとは思えない。当たれば軽い怪我どころではすまないだろう。
 全身が震えそうになる。
 生命の危機には何度か直面している。この手の行為が嫌がらせかそれ以上の意味を持つものなのかも、瞬時に判断がつく。
 これは、嫌がらせではない。
 神無がそう結論付けた瞬間、
「鬼頭の花嫁が随分な歓迎を受けているようですね」
 どこか呆れたような低い声がかけられ、彼女は目を見張った。
「探す手間が省けました」
 黒いスーツを着込んだ壮年の男が淡々とそう語る。驚いたような表情の神無を見下ろし、彼は壁に刺さっていたナイフを抜いた。
「毒まで仕込むとは、趣味の悪い……」
 変色したナイフの刃を一瞥し、男はそれを無造作に放り投げた。
「姿を見せないあたり、狡猾なタイプとみました。これでは九翼いてもザルと同じだ。貴女も苦労するようですね」
 言葉尻は、やや同情の色がある。
「車の手配は?」
 壮年の男が誰ともなく問いかけると、
「すぐに」
 と、別の声が答える。
 神無は男に向けていた視線をはずし、そして唖然とする。
 いつの間にか彼と同じ黒スーツに紫のシャツ、黒ネクタイという出で立ちの男たちが立っていた。
 そこにいたのは、8人。彼らは音もなく移動し、神無の前に壁を作る。
「一緒に来ていただきます」
 男の口調は静かだが、有無を言わせぬ響きが含まれている。
「どこに……」
 状況を飲み込めないまま問いかける神無に、男はわずかに笑い、すぐにその笑みを消して口を開いた。
「鬼頭の生家に」
 混乱している神無に男は抑揚なくそう告げた。

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