脱衣所には大きな姿見があった。
 神無はその前にある椅子に座らされ、所在無げにもじもじする。
「綺麗な髪ですね」
 サラサラと流れる髪を丁寧にドライヤーで乾かしながら、もえぎは実に満足そうである。その手つきが優しいことにも落ち着かず、神無はちらりと鏡越しにもえぎの表情を伺い見た。
「今晩この部屋に泊まったら、一応三翼総ての部屋に一泊ずつした事になりますから」
「はい」
「明日はお好きな部屋に泊まってくださいね」
 もえぎの一言に、神無は絶句した。
 強制的に行かされるのではなく、自主的に男の寝室に向かう。
 入浴直後で上気していたはずの神無の顔から血の気が引いていく。
「大丈夫です、無茶な事はしませんから」
 深く頷くもえぎのその自信がどこから来るものなのか、神無は青ざめながらも考えている。
 よほど信用があるらしいが――しかし、世の男性の醜態を見尽くしてきた彼女としては、その言葉ほど当てにならないものはなかった。
「神無さん、流されてはダメですよ?」
 ドライヤーのスイッチを切ってもえぎはそう続ける。彼女は棚の上にそれを置き、神無の手を引いた。
「でも、あなたが望むなら」
 意味深に笑って彼女は再び口を開いた。
「誰か一人を選ばないという選択もあります」
「え……?」
「鬼の中には複数の花嫁を同時に娶って、等しく愛する者もいるんですよ。逆に、複数の鬼に求愛された花嫁がその鬼たち総てと婚姻を結ぶ事も」
「総てって……」
「四人とも、です」
 言われた瞬間、頬が熱くなった。初めから人の世のことわりなど通用しない世界だとはわかっていた神無だが、ここまでずれているとは思っていなかったのである。
「それも選択の一つ。あなたが望めば、誰も拒みません」
 真っ赤になって言葉を失う神無を見て、もえぎは小さく笑った。彼女は寝室のドアを開け、神無を先に進ませる。
 俯きかけた彼女の視界に、やけに胴の長いダックスフンドのぬいぐるみが飛び込んできた。
 反射的に両手を広げると、それを待っていたかのようにぬいぐるみが彼女の腕の中に納まった。
 長くて硬めの胴体には、適度な弾力がある。茶色の体は肌触りのいい柔らかい生地で、触り心地がとてもいい。
「プレゼントです」
 クスリと笑いながらそんな声がかけられ、神無は慌てて顔をあげる。
「枕なんですよ、そのぬいぐるみ」
 満足そうに微笑む麗二が優しくそう語った瞬間、神無の顔が見る見る赤くなっていった。
「……え〜っと……もえぎさん、神無さんに何か言いました?」
「ええ、少しだけ」
 にっこりと微笑むもえぎと、真っ赤になったままダックスフンドの枕を抱きしめる神無を交互に見て、麗二は小首を傾げる。
「あの……あ、ありがとうございます」
 小さく小さくそう言った神無は麗二の顔が直視できないようで、顔を赤らめたままもごもごと礼を言った。
 その姿に、麗二は一層笑みを深める。
「さ、麗二様もお風呂どうぞ」
「ええ――次は一緒に入りたいですねぇ」
 さらりととんでもない事を言う麗二に、
「神無さんがよければ」
 と、もえぎもさらりと返す。ここら辺の会話は、神無にはよくわからない。麗二の花嫁であるはずのもえぎは、本当に何でもないかのように返事をしてしまうのだ。
「三人おそろいのパジャマですよ」
 どこか嬉しそうにもえぎが言っている。
 あまりに寛容な彼女の姿に、神無は驚いたように彼女を見た。
 視線に気付いたもえぎが、麗二の出て行ったドアを閉めて神無に微笑を返す。
「麗二様お風呂好きなんです。当分帰ってこないでしょうから、先に寝てましょ」
 人差し指を立ててそう提案する姿を、神無は不思議なものを見るような目で見詰めていた。
「どうしました?」
「嫌じゃないんですか……?」
 神無に敵意を抱いた女たちの多くは、彼女が恋人を誘惑したと思い込んでいた。女たちは恋人に問い詰める事もせず、神無を一方的に泥棒猫呼ばわりして、当然の権利であるかのように悪質な嫌がらせを繰り返した。
 神無にとって、それが日常だった。
 そして彼女には、今のもえぎがその女たちと全く同じ立場にいるように映っている。
「妬けます」
 もえぎはあっさりそう返して、神無をベッドへいざなった。
「でも、嫌じゃないんですよ。妬けるけど微笑ましくて。私もあんなふうに大切にされたんだと思うと、なんだか胸がいっぱいで」
「…………」
 やはりよく意味がわからない。
 もえぎは、黙り込んでしまった神無にベッドの中央で寝るように指示して、自分はその隣に入ってきた。
「麗二様ったら、ぬいぐるみ真剣に選んでるんですもの。それで、私と視線が合うとオロオロして――可愛いと思いません?」
 学校が終わって慌てて帰っていった麗二はもえぎと一緒にぬいぐるみを買いに行ったらしい。
 微妙な下心に気付いたもえぎは、苦笑しながらその時の話をもらったばかりの犬のぬいぐるみにちょこんと頭を乗っけている神無に聞かせる。
 ゆったりとした口調が眠気を誘っているらしい。
 そのうちウトウトし始め、必死で睡魔と戦っていた神無の目はいつの間にか完全に閉じていた。
 そして、麗二が帰ってくる頃には深い眠りについていた。
 寝室のドアを開けた麗二が、ふっと表情を緩める。
「川の字で寝ましょうね」
 どこか嬉しそうに、もえぎがベッドから手招きをしている。
「神無さん寝ちゃいました?」
「ええ。疲れてるようです」
「でしょうね――昼間、大変でしたから」
「……何か?」
 問いかけるもえぎに、麗二は小さな溜め息を返した。
「華鬼とちょっと――その後、光晴さんが怪我をして治療したんですけどねぇ」
 ベッドに歩み寄って、麗二が言葉を続けた。
「やっぱり腕が鈍ってるようです。お裁縫、結構得意だったんですが」
「……治療ですよね?」
「治療です」
 もえぎの問いかけに、大きく一つ、麗二が頷く。
 それから、するりとベッドに滑り込んだ。
「意外に傷口広かったんです。こうザクっとね」
 麗二が真剣にジェスチャー付きでもえぎに怪我の具合を説明をしている。
 それをもえぎは穏やかな表情で聞いていた。
「で、神無さんがいると、光晴さん甘えちゃうんですよねぇ」
 困ったものだと呟きながら顎に手をやっている。
 眠っている神無に向ける彼の眼差しが、ひどく優しいものである事にもえぎは気付いていた。
 鬼は自分の刻印を持つ花嫁をほぼ無条件で受け入れる。その立場だけで言うなら、神無ももえぎも同じ位置にいた。
 だが、神無が持つ刻印は鬼頭の名を持つ男の物が基盤となっている。
 格が違うのだ。
 そして鬼は、無意識により良いほうに惹かれてしまう。
「……すみません」
 不意に麗二が呟いた。
「何がです?」
 もえぎが聞き返すと、麗二は困ったように一瞬言葉を濁した。
「神無さんに求愛した事、怒ってますよね?」
 恐る恐る問いかけるその表情は、きっと自分以外は見た事がないだろうと断言できるほど情けない顔だった。
「怒ってません」
「……怒ってませんか?」
「ええ。前にも言いましたけど?」
「…………」
 土下座までされて謝られた時、怒るどころか笑ってしまった。あの瞬間、自分は総てを許したのだ。
 強い鬼が花嫁のいる身で求愛したのは、前代未聞。
 けれどそれが、この少女を守るためであるのなら、それを責める気持ちは微塵も湧いてこなかった。
 たくさんの傷を抱える少女。
 鬼頭の花嫁でありながら、誰にも守られる事なく16年間を過ごした娘。
 同じ花嫁であるからわかる。
 庇護翼がない生活は生き地獄だ。彼らがいなければ、今の自分はここに存在してはいなかっただろう。
 ようやく苦痛から解放されるはずだった婚礼の晩に、神無はそれ以上の苦痛を味わう局面に立たされた。
 それを回避するために三翼がとった行動を、称えこそすれ責めたりはしない。
「私は神無さんが幸せになってくれるのが一番嬉しいです。それに、神無さんとならうまくやっていく自信、ありますよ?」
 楽しそうに笑うもえぎを見詰め、麗二は表情を緩める。
「――貴女を選んでよかったと思います」
「あら」
 クスクスと笑うもえぎを、麗二はどこか眩しそうに見詰めた。そして、緊張したように口を開く。
「振られたら戻ってきてもいいですか?」
「あらあら、弱気ですこと」
 面白そうに笑い続けるもえぎに、麗二は溜め息を漏らした。
「弱気ですかねぇ」
「ええ。でもこうしてると、娘ができたみたいで嬉しいわ」
 もえぎは親が子に向けるような慈愛に満ちた表情で、ずりさがった布団を神無にかけ直してやっている。
「すみません、お役に立てずに」
 彼女が子供を欲しがっていたことを知っている麗二は、小さくそう謝罪した。
 その言葉を穏やかな表情で受け、もえぎはそっと瞳を伏せながら少女の顔にかかった髪をどけるように梳いた。
「幸せになれるといいですね」
 もえぎの口から自然に漏れたのは、ゆっくりと変わりゆこうとする少女に向けた優しい一言。
 その言葉に麗二は深く頷いた。

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