足を踏み入れたその部屋は、随分と荒れている。
窓ガラスは割られ、廊下にまでガラスの破片が散乱していた。いつもは整然と並んでいる机が四方に散乱し、中には頑丈なはずのパイプが曲がっている物もある。
鬼の仕業だろう。
人でもできなくはないが、鋭角に曲がったそれらは同類の所業と見て取れた。
鬼ヶ里高校の校舎の中で、使われることなく管理されている教室は多い。そこで暴れる者がいないわけではないが、この荒れようはただ事とは思えない。
黒板の一部がめくれている。近くには、折れ曲がった椅子が一つ。教室の出入り口に無造作に置かれた椅子は、おそらく廊下側の窓ガラスを割った物。
壁の大きな穴は位置からして蹴ってできたのだろう。
華鬼はわずかに瞳を細める。
心の奥をどす黒く染めていくような苛立ちは、いまだにそこにくすぶっていた。
彼は身をかがめ、足の折れ曲がった椅子を手にする。
それを大きく振りかぶった。
「――やめてくれない?」
静かな声が華鬼の耳に飛び込んでくる。
「生徒会長が学校の備品を壊す気?」
呆れたような声は、教室の出入り口からかけられていた。
そこには、誰もが目を見張るほど美しい少女が冴えない男を連れて立っている。
若草色のジャージを着ている男は用務員なのだろう。軍手をはめた手には、ほうきとチリトリ、それに水色のバケツが握られている。
対し、少女は何も手にしてはいない。彼女の手はその細い腰にあてられていた。
「お前の仕業か?」
華鬼は少女――生徒会副会長、須澤梓に問いかける。
彼女は室内を一瞥してから華鬼の言葉に小さな溜め息を返した。
「馬鹿なこと言ってないで、教室に戻ったらどう? 鬼に学歴は必要ないかもしれないけど、授業に全く出ないのは問題よ」
「お前には関係ない」
言うなり、彼は椅子を窓ガラスに向けて投げた。
派手な音と共にガラス片が廊下へと散り、梓がわずかに柳眉をしかめる。皆に支持されて生徒会長という立場にある華鬼だが、別段彼自身は何をするわけでもない。彼はただそこに存在し続け、自分のやりたいように動くのだ。
現在それを咎めるのは、三翼とこの生徒会副会長である梓のみ。
しかし華鬼はその声に耳を貸すことはなかった。
「木籐君」
梓の呼びかけを無視して華鬼は椅子を拾った。
彼女の表情が一瞬こわばったのを見詰め、彼がゆったりとした歩調でドアに向かう。その瞳が漆黒から金色へと変化していくのを、彼女は息をのんでただ見守っていた。
華鬼の口元が残忍な笑みを刻むと同時に、椅子を持った腕が持ち上げられていた。
「……木籐君」
意味もなく繰り返される言葉。
長い睫毛に縁取られた瞳が見開かれ、そこに映った椅子が大きくなっていく。
「須澤さん!」
若草色のジャージが伸び、軍手をはめた手がとっさに少女の体を引いた。
その直後、椅子が
「大丈夫ですか!?」
用務員が引き寄せた少女に声をかけた。半ば茫然としたまま、彼女の目はなおも華鬼を映し続けている。
彼は一瞬だけ彼女に視線をやり、そしてそのドアから廊下へ出た。
「須澤さん!」
自失したまま去っていく華鬼を見ていた梓は、何度目かの呼びかけにようやく恩人にその視線を向けた。
そして、オロオロとした顔に覗き込まれている事に気付き、彼女は不機嫌そうに唇を噛んだ。
「平気です。……放してくれない?」
そう言われ、用務員は慌てたように梓に回していた手をはずす。
自由になった彼女はもう一度廊下を見た。長い廊下には、すでに華鬼の姿はない。
いつも気紛れに歩き回る彼は、神出鬼没と言ってもいい。とくに今は、宿探しというくだらない目的の為に様々な場所を徘徊している。
梓は教室に視線を戻した。
「用務員さん、片付けてくれる?」
荒れたそこを顎で指して彼女が小さく傍らの男に声をかけると、彼はわずかに戸惑った表情をしてから廊下に投げ捨てた掃除道具を拾い上げ、教室に入っていった。
梓は青ざめた顔をもう一度廊下に向ける。
向けられた怒りの断片が、全身の力を奪っていくようだった。普段は魅力的としか思わないあの瞳の輝きは、時として自分がいかに危険な場所に立っているかすら忘れさせる。
総ての思考を停止させる黄金の瞳。
それは憎悪という感情で彩られた殺意の形。
梓は身震いして、よろめきながら廊下の壁に手をつき体を支えた。
悪寒とは別のもので体が震えている。
あの瞬間あの場に立ち尽くしていたら、命に関わるほどの怪我を負っていたかもしれない。彼女がたとえ動かなかったとしても、華鬼は邪魔なものを排除するように迷いなく腕を振り切っていただろう。
罪悪感の欠片もなく。
「そんなにも……」
視線が一階の渡り廊下へと向けられる。
そこには影が三つあった。
鬼ヶ里の生徒が白衣の男と女生徒に挟まれ、嫌々と首を激しくふっている奇妙な光景。なんとか足を踏ん張って、二人の進行とは逆方向に行こうとしているようだが、確実に引きずられている。
梓はその光景を凝視した。
「そんなに自分の花嫁が憎い?」
あの感情が自分に向けられたものではないと感じ、彼女は誰ともなく問いかける。
鬼は情が深い。
強い鬼はとくに情が深く、本能で自分の印を持つ花嫁を愛し、そして守るのだと教えられてきた。
けれど違う。
例外がいる。
自分の花嫁を憎む鬼がいる。
「死を望むほど……?」
答えのない問いを呟くその視線は、渡り廊下にいる少女だけにそそがれていた。