殺気がチリチリと肌を焼く。
 悪寒が背筋から全身へ広がり、細胞一つ一つを麻痺させていくようだった。
 神無を襲おうとした少女たちは、空気さえ凍りつかせるようなその殺気がなんであるのかもわからず、ただ怯えるように華鬼から離れていく。
 目視することなく彼の居場所を感じ取っているようである。
 少女たちは青ざめたまま、這いずるように上へ移動した。
 階段を上りきれば、そこは屋上へ続く扉しかない。施錠されたそれを開ける事はできないと知っていても、ここにいるよりはまだましだと判断したのだろう。
 視界の端に少女たちを留めながら、神無は華鬼を見詰めた。
 彼は階段の途中で足を止め、怒りとも憎悪ともつかない眼差しを神無に向け続けている。
 その黄金の瞳がすっと細められた。
 神無はわずかに後退り、息をのんだ。
 身がすくむほど恐ろしいのに、視線をはずす事もできない。息を詰め、神無は彼の瞳をただ見詰め返す事しかできなかった。
 何がこれほど彼を苛立たせているのか、神無にはその理由がまるでわからない。
 神無を花嫁として選んだのは華鬼なのに、そして鬼ヶ里に呼んだのも彼であるはずなのに、向けられる一切の感情はひどく荒んだものばかりだ。
「華鬼」
 無意識に神無がその名を繰り返す。
 その瞬間、彼の瞳の奥がわずかに揺れた。
 鋭さは残したものの、殺意とは異なる曖昧な光りがそこで揺らめいている。しかし彼は意図してそれを殺意へと塗り変えるようにきつく神無を睨みすえた。
 圧倒的な存在感。
 鬼頭と呼ばれた男は、そこにいるだけで総てを支配していくような錯覚をあたえる。
 時間の流れさえ止めるような静寂の中、不意に動いたのは華鬼だった。
 彼は足を踏み出し、階段を一段上る。
 反射的に、神無は後退した。
 ここに来た目的は自分ではないだろう。何故か神無は瞬時にそんな事を思った。
 わざわざ探し出して殺そうと思うほど、彼は自分に執着などしていないはずだ。
 神無は殺意の意味もわからないまま、自分にそう言い聞かせる。
 そうでもしなければ、彼の感情に押しつぶされてしまいそうだった。
 校舎の三階は一年生の教室と空き部屋しかない。そこに彼が来たことへの疑問と、まだチャイムさえ鳴っていないのに廊下に人一人いない事への疑問が、彼女を混乱させる。
 言葉もなく立ち尽くす神無に向かって、華鬼が再び一歩を踏み出す。
 その動きと同時に後退した神無は、硬質なものにぶつかって体をこわばらせた。
 手に冷やりとした物が触れる。
 神無は華鬼を見詰めたまま、背に当たった壁に手を這わせた。
 これ以上さがる事はできない。
 残された道は、もと来た廊下を戻るか、それとも特別棟に続くはずの廊下を進むか――
 神無がどうすべきかを悩んでいると、華鬼が彼女に向け続けていた視線をはずした。
 次の瞬間、まるで総ての興味が削がれたように、彼は無言で体を反転させると階段を下りていく。
「……華鬼?」
 唖然と神無はその名を小さく呼んだ。
 視線をそらすその一瞬、今までに見た事のない表情を彼がしたような気がした。
 それは見間違いかもしれない。人の表情など角度によっていくらでも変わるし、変える事ができるのだ。
 そう思ったが、彼のその一瞬の表情が引っかかり、ひどく心の中をかき乱した。
 深く関わらないほうがいい。あの男は危険だと、長年培われてきた勘が神無自身に警告をあたえ続けている。にもかかわらず、神無は彼を追かけるように階段を下りていた。
 たとえ彼の心の内を知ったとしても、きっと理解できないものだろう。それは今以上の苦痛を神無に強いるだけかもしれない。
 いまだに苛立ちを残したままと知れるその背は、拒絶の意志さえ感じ取れた。
 自分がどうして彼を追っているのかすら理解できず、神無は戸惑いながらも一定の距離をおいて彼の後ろをついて行く。
 華鬼は階段を下り、数歩歩いたところで立ち止まってゆっくり振り返った。
 金色の瞳は射る様に階段を下りてくる神無に向けられている。
 神無は階段を下りたところで足を止めた。
「――死にたいか?」
 苛立ちを押し殺し、囁くように問いかける声音はゾッとするほど優しかった。
 何も答えない神無に、華鬼が再び歩み寄る。明確な殺意をまといながら近付いてくる彼を、神無は不思議なものを見るような眼差しで見詰めた。
 瞳の奥で、何かが揺れる。
 それは殺意ではなく憎悪でもない、もっと別の感情。
「苦しい?」
 神無の小さな言葉に、華鬼の動きが一瞬止まった。
「何がそんなに苦しいの?」
 以前に一度した問いかけを、神無は再び華鬼に投げかける。答えを知るのが怖いと思いながらも、知らずに口をつく疑問。
 残酷だと思っていた鬼の見せる、動揺の色。
「華鬼」
「――黙れ」
 短くそう命令して、華鬼は神無の前に立つ。
「消えろ。お前はいらない」
 大きく振り上げた腕が弧を描きながら首めがけて、そのさらに下にある心臓を狙って振り下ろされる。
 神無は自分を殺そうとする冷酷な男をただじっと見詰めていた。
 恐怖すら麻痺してしまったような穏やかすぎる瞳で彼女は彼の心を探す。
 総てを拒絶する言葉と態度の裏にある本当の思い。それがきっと、彼が垣間見せる表情の正体なのだ。
 逃げることなくまっすぐ顔をあげる神無に、華鬼の動きがわずかに鈍った。
 彼の表情が微妙に変わる。
 その正体を見定めようとした神無の視界を不意に何かが遮った。
「このバカ餓鬼が!!」
 続いた罵声は、よく知るものだった。
「自分の花嫁を本気で殺そうとするんは貴様だけじゃ!」
 神無は声の主を見上げる。視界に血が飛び散った。
 大きな背が動くとさらに血が飛び散り、鈍い音が響く。状況が理解できない神無は、視界を遮る背からその向こうを確認するように覗き込んだ。
 華鬼がいる。
 今まで対峙していた鬼は、不意打ちを食らったようで忌々しげに光晴を睨みつけた。
「困った方ですねぇ」
 続いて聞こえてきた声は、柔らかさはあるもののどこか険を帯びている。
「本気でやりあわないと、お互い分かり合えないようですね」
 白衣の保健医が、凄絶な笑顔を貼り付けたまま華鬼の後方から近づいてきた。
「手加減はせん。死ぬ気でかかってこい」
 目の前の大きな背が唸るように低く華鬼に声をかける。
 それを聞いて、神無は慌ててそのシャツを掴んだ。いきなりシャツを引っぱられた光晴は驚いたように神無を振り返る。
「なんや?」
「あ、あの、私が勝手に……」
「……あんな、殺されかけたんや。ちゃんと分かっとる?」
「は――はい」
 頷いて顔をあげたとき、光晴の頭部付近に足≠ェ見えた。
「あ――」
「あ?」
 神無の驚きの声を、光晴が律儀に反芻する。その瞬間彼の体が前のめりになり、その頭部には見まがう事なき足≠ェ乗っかっていた。
 崩れてきた光晴の体をよろめきながら支えて、神無は無表情に踵を返す華鬼を呆然と見送った。
 麗二も言葉を失ったようにスタスタと去っていく彼を見ている。
「て……! あのクソボケ餓鬼!!」
 誰の仕業か瞬時に理解し、光晴が涙の溜まった目で先刻華鬼が居た場所を睨んだ。
「逃げたんかい!?」
「えぇ、颯爽と」
 ぬるく笑って麗二が華鬼の去った方角を指差した。
「止めんかい!!」
「いやぁ、なかなか見事なカカト落しで見惚れてしまって。まさかジャンプして当てるとは――意外と器用ですねぇ」
「感心する場所やない!!」
 よほど痛いのか、叫びながらガシガシと頭をさすっている。
「神無ちゃんも神無ちゃんや! 自分殺そうとしとる鬼についてったらあかん!!」
 両肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
 揺さぶられるまま頷く神無に溜め息をついて、光晴は彼女の体を抱きしめた。突然の行為に対応できず、彼女はオロオロと光晴を見詰める。
「頼むし。ホンマ心臓に悪い」
 囁く息が首元にかかって神無は真っ赤になる。昨日プロポーズをされ、今日抱きつかれると、平常にしていようと思う心とは裏腹にどうしても必要以上に意識して硬くなってしまう。
「光晴さん、どさくさに紛れていつまでも何やってるんですか」
 相変わらず不気味な微笑で麗二が光晴の肩に手を置き、いまだに神無にしがみつく彼を強引に引き剥がした。
「ええやん、ちょっとばかし」
「よくありません。怪我もしてますし、すぐに治療をしましょうか」
 微妙な表情で提案する保健医に、執行部会長は腕を隠すように移動させる。そこには、10センチほどの裂傷があり、鮮血があふれていた。光晴は平然としているがかなり深い傷に違いない。床に飛び散った血を見て神無は顔色を変えた。
「心配せんでも平気や。神無ちゃんには怪我ないな?」
「光晴さんはちゃんと治療しますから大丈夫ですよ。これでやっと手術台が使えますねぇ」
「って、ちょっと待たんかい! そんな大げさのもんとちゃう!」
「遠慮しないでください」
 何を考えているのかは聞かなくてもよくわかっているらしい光晴は、真っ青になって神無の後ろに隠れている。
「久しぶりなので腕がなります」
「絶対嫌じゃ!」
 力一杯叫んで、光晴は神無の肩越しに麗二を睨んでいる。身をかがめて隠れるその姿はなかなか愛嬌がある。
 神無が表情を緩めた。
「ご……ゴメン」
 微妙なやり取りを繰り広げる光晴と麗二の間に小さく割り込む声があった。
 神無が視線を移動させると、そこにはよく似た容姿の少年が二人いた。ここにはいない水羽の庇護翼である森園兄弟である。
 彼らはきょとんとする神無に、深々と頭を下げた。
「本当はオレたちが出て行って花嫁助けなきゃいけなかったんだ」
「でも、鬼頭が……」
「鬼頭が怖すぎて出られなくて!」
 あの殺気を向けられれば、大概の者は恐怖で震える。容赦のない威圧感はそこにいる者総てを飲み込んで増殖を続ける。
 とっさに逃げ出そうとするのは命を守ろうと本能が働くためであり、それは決して恥ではなかった。
 鬼頭≠ナある華鬼を前にして神無を守り切れなくとも、彼らを責める権利は誰にもない。
 けれど、花嫁を守るためにある彼らにとっては庇護翼失格ともいえる失態である。大切な主の花嫁に危険が及んでいるにもかかわらず、恐怖で身がすくんで助けに行くことができなかったなど、庇護翼にとっては最低の言い訳だった。
「なに言っとるんや。オレらを呼びに来たんは、ええ判断や」
 神無から離れて双子に近付いていき、光晴は優しく笑った。
「おかげで大切な花嫁守る事がでけたし。おおきに」
 大きな手を伸ばして、少年二人の頭を同時に撫でる。
 少年の顔が見る見る崩れていく。
「も、もう必死で! 近くにいる三翼、光晴と麗二だったから!!」
「間に合ってよかった……!!」
 へにゃへにゃ座り込む少年に、光晴はなおも優しい笑顔を向けた。
「まだ庇護翼やるには日が浅いな。けど、ええ判断しとるし、問題ない。ご苦労やったな」
「み、水羽だってまだ庇護翼やるには……!」
 最年少で鬼頭の庇護翼になった主の名をあげ、双子は泣きそうに顔を歪めている。主にならって随分無理をしているらしい。
 光晴は麗二と顔を見合わせ、微苦笑した。
「水羽は別格やからな。あの歳で普通に庇護翼やっとるんやから、えらい器っちゅうか」
「末恐ろしいというか」
 顎に手をやり、麗二も深く頷いている。
「せやから無理せんでもええ。いつでも呼び。庇護翼はなんも花嫁だけを守るためにあるんやない。大切な者を守るためにおる」
 その言葉に、風太と雷太は顔をぐちゃぐちゃにした。ようやく緊張が解けたかのように、互いの顔を見合わせて照れたように笑っている。
「にしても、問題なんは華鬼やな」
 う〜んと唸り声をあげる光晴に麗二は微笑しながら近付き、素早くその腕を取った。
「今一番の問題は光晴さんの怪我の治療方法ですよ。手術台、本当に久々ですね」
「れ、麗ちゃん!?」
「神無さん、光晴さんの腕を持ってください」
 にっこりと微笑まれ、神無は言われるまま彼に近付いていきその腕を両手で掴んだ。
「では、保健室の奥へと案内いたしましょうか。光晴さんのお蔭で意外に早く神無さんを招待できますね」
 趣旨が若干ずれてきている。
 保健医は満面の笑みを神無と双子、そして光晴の順に向けた。
「雷太さん風太さん、教室に戻ってください。ご苦労様でした。じゃあ行きましょうか、神無さん。絶対放しちゃダメですよ」
 弾けんばかりの笑顔が零れ落ちたと同時に、悲鳴が廊下を長く響いていき、しばらくして消えた。

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