序章


 かすかに薬品の匂いが漂う白い一室に、普段なら決してそろうことのない男がいた。総勢九名。そのうち六人は、いかにも困惑気味に別の三人を見詰めている。
「で、昨晩は?」
 すでに性別さえ忘れられている保健室の麗人≠アと高槻麗二がゆったりとした口調で棚にちょこんと腰掛ける見目麗しい少年に声をかける。
「それがさ〜」
 人々を魅了してやまない微笑で、少年――早咲水羽は携帯を取り出す。
「はい」
 水羽は携帯の画面を麗二に向けた。
「神無、ぬいぐるみ大好きみたいで。ベッドメイクしてあげたら熟睡」
「…………」
 画面を凝視していた麗二の目じりが下がっている。何が映っているのかわからない六人の男は互いの顔を見合わせて怪訝そうに眉を寄せる。
「可愛いですねぇ」
「でっしょ〜」
 にこにこ笑って、水羽も一緒に画面を覗き込む。麗二は顔を上げ、じっくり少年を見詰めてからおもむろに一言。
「水羽さん、男として見られてませんね」
 玉砕である。
 画面の中にある光景は、警戒心の欠片もない少女の寝顔。
 隣にいるのが男≠ネら、まず間違いなくこの写真は撮られなかっただろう。
「……同じベッド使って何も問題がないってのも問題だよね。うすうす気付いてはいたんだけど、全く意識されないのは男としてどうかと……」
「でもこれなら差し引きゼロですね」
「でしょ!」
「あとで転送してください」
「ストップ!!」
 どこまでも延々と続きかねない会話に、鋭く横やりが入る。携帯を覗きこんでいた二人の視線が、最後の一人へと向けられる。
 ぶすりと口元を引き結んだ長身、丸メガネの男が睨んでいる。執行部の会長、士都麻光晴だ。
「オイそこの変態ども! ケーサツ突き出されたいんか?」
 物騒な言葉に、水羽が微笑んでせわしなく携帯の上で指を滑らせた。
「その言葉、そっくり返してあげるよ?」
 ピクリと光晴が体をゆらす。そして、振動を繰り返すポケットを探る。
「…………」
 手にされたのはシルバーカラーの携帯である。彼は折りたたまれたそれを開け、険しい表情を一瞬で崩した。
「か――」
「光晴。携帯貸して?」
 ビクッと光晴が大げさに反応する。
「いま転送した画像、デリートする」
 弾けんばかりの笑顔で手を出す水羽に、光晴の顔が引きつっている。慌てて携帯をポケットにしまい、右手をあげた。
「他人様の寝顔写すんはよおない」
「だから貸してってば」
「いやじゃ」
 こそこそ保健室の出口へと足を運ばせる光晴に、容赦なく水羽が大股で近づいていく。珍しい光景だ。
 執行部の会長はなかなかそつのない性格であり、人とは真っ向勝負が基本の男だ。
 それが逃げている。
「……あの」
 珍しい光景ではあるが、とりあえずすでに傍観することには飽きている六人のうちの一人が口を開いた。
「本題、入りませんか?」
 ぴたりと光晴と水羽が動きを止めた。
「ここに呼ばれた理由はわかってるつもりです」
 言葉を続けると、
「求愛の件ですよね?」
 と、別の男が渋い顔で続けた。
「しかも鬼頭の花嫁」
「なに考えてるんだよ、水羽!!」
「あんた子供でしょ!?」
「いやその件は置いといて、まず求愛の話を――」
「置いとくな!! 33歳って言ったら、子供だよ!! 子供!! それが鬼頭の花嫁に求愛してあの人に恥かかせて、無事でいられると思ってるの!?」
 小柄な少年が悲鳴をあげている。平均寿命が600歳である鬼にとって、その年齢で求愛というのはまずありえない。
 しかも前例がないほど相手が悪かった。
「そうだよ!! オレ胃に穴が開きそう!! 水羽のバカ〜!!」
 同じ顔の少年が、手に手を取って泣きごとを言っている。
「失礼だな」
 ぷうっと水羽がふくれた。
「ボクにだって守りたい人はいる」
「そーゆうことや。郡司、透、主の命じゃ。オレの庇護翼として花嫁を守れ」
 呼ばれた男たちは椅子から立ち上がった。
 がっしりとした体型の大柄な男が、隣にいる長髪の男に一瞬だけ視線をやって、そのまま光晴を見た。
「花嫁は、鬼と婚姻をしたあとは庇護翼の手を離れ、その鬼が守ることになるはずです」
「なんや郡司、気に入らんか?」
 大柄な男は一瞬言葉に詰まった。庇護翼が花嫁を守るのは、生まれてから16年間と決まっている。婚姻した花嫁を庇護翼が守るのは――ましてや、花嫁を守るはずの庇護翼が求愛して、さらに自分たちの庇護翼にまで守らせようとするのはあまりに異常だった。
 そこまでして守る必要があるのか。
 ここに呼ばれた六人の男たちは、そんな疑問を抱いている。
 郡司は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「いいえ。……お受けします」
「透は?」
「受けます」
 戸惑ったような表情で、傍らの男が頷く。
「では」
 麗二が別の二人に向き直った。今まで一度も口を開いていなかった寡黙な男と、居心地悪そうにそわそわ辺りを見渡す少年。
 二人は視線を向けられ、すっと立ち上がる。
「一樹さん、拓海さん、私の花嫁をよろしくお願いします」
 にっこりと微笑みながら言っているが、有無を言わせぬ威圧感がある。断ったらただではすまないという無言の圧力がひしひし伝わってきた。
 見た目はこれほど華やかなのに、何故かいつも般若を連想させずにはいられない笑顔である。
 この笑顔のときには、逆らわないほうがいい。
 そう判断した二人は、項垂れるように頷いた。反抗する勇気はないらしい。
 苦笑しながらそれを見詰め、水羽も視線を移動した。
 判で押したようによく似た双子が涙目になって水羽を見詰めている。
「風太、雷太もよろしく」
 さわやかに片手をあげて選択肢を除外した水羽に、風太と雷太は頷くしかなかった。鬼にとって主は絶対なのだ。
 逆らうとするなら、よほどの事情でなければならない。
 たとえ相手が鬼頭の花嫁で、事実上横恋慕のような求愛であったとしても、それが断る理由にはならないのだ。
 もともと庇護翼は、花嫁を守るために鬼たちが作ったシステムでもある。
 ゆえにどんな状況においても、主の花嫁を守れという命令は庇護翼である彼らにとっては当然のものなのだ。
「や、やるよぅ! やればいいんだろッ」
「オレこんなご主人様いや〜ッ」
「褒めるなよ」
「ほめてない〜!!」
 見事にハモりながら、双子が叫んだ。
 昨夜の乱闘で三翼の求愛話はまず間違いなく鬼たちに知れわたった。庇護翼に守られることなく育った鬼頭の花嫁≠ェ無事であったことの意外さ、そしてその後の乱闘騒ぎで確実に問題の種は芽吹いているはずだ。
「……求愛、か」
 保健室を出て行く男たちを見送りながら、水羽が小さくつぶやく。
「もえぎが部屋に入れてくれてよかったよね。ついたてまで用意してくれて」
「……そうですね……」
 微妙に遠い目で麗二が頷いた。あの場に居合わせたおかげで神無は守れたものの、しかしその代償がなんだったかというと――。
「求愛のこと、もえぎに言った?」
「ど――土下座させていただきました」
「…………ど」
「土下座」
 水羽が詰まったので、光晴が続けた。麗二の花嫁であるもえぎの手引きなしではあの状態はなかったとはいえ、この男にそこまでさせるとはたいした女である。
 もっとも、鬼は自分の花嫁にはとにかく弱い。
 これは強い鬼であればあるほど如実に現れる。
「口説くときに貴女で最後だと大見得おおみえを切りまして。えぇもう、返す言葉もございません」
「で、許してくれたの?」
「笑いとばされました」
 それもどうかというような答えである。
 水羽はまじまじと麗二を見た。
「――後悔、してる?」
「いいえ。お守りすべき方ですから」
 まっすぐ返された言葉に水羽は頷く。
「そうだね。ボクもそう思う」
「問題は九翼で足りるかっちゅう点や」
 窓に向かって歩きながら、低く光晴が唸った。
「今でさえ歴代鬼頭の花嫁の中で随一や。今なら九翼でも守れる。今のままなら」
 含むような言葉に、残された二人も窓に向かった。
 風が純白のカーテンを大きくはためかせる。鬼が住むには穏やかすぎる場所。そこに、かつてないほどの波乱の予兆があった。
「16で初潮がないとは思いませんでしたからねぇ。でも、心と体は表裏一体。彼女が今まで無事だったのは、自己防衛本能の賜物だったかもしれません」
「蕾のままでよかった?」
 水羽の問いかけに、麗二は悲しげに微笑む。
「苦痛と引き換えに生きてきたんです。体の成長を止めるほどの苦しみと。よかったとひとくくりにする事はできません」
 体に残る傷跡は、その肌を埋め尽くすほどだった。心に残る傷は、おそらく肌に残るそれよりももっと深いに違いない。
 光晴が神無を花嫁として迎えに行った時、古びたアパートの一室で見た彼女は虚無に囚われた人形のようだった。
 それがかわっていく。少しずつ、確実に。
 まるで日の光を受け止める花のように。
「花が、咲くんや。大輪の華=Bオレら三人と、その庇護翼をあわせれば九人。過去に九翼ついた花嫁はおらん。その九翼で守りきれるかどうか――」
「さすがにはなおに≠フ異名を持つだけはありますね」
「華鬼もこういうトコだけは名前負けして欲しかったよね――守れる?」
 少年の問いかけに、男たちが笑った。
「誰にモノゆうとるんじゃ。全力でいかせてもらうで」
「たとえ相手が誰であろうと引く気はありませんよ」
 少し緊張気味だった水羽の顔に笑顔が戻る。
 光晴が軽く右手を上げ、麗二が左手を上げる。その中央にいた水羽は両手をあげた。
 小気味よい音が室内に響く。
「上等!」
 三つの視線は、ただ優しく校庭を歩く一人の少女へとそそがれていた。

Back  Top  Next