頭上で爆音が轟いた。壁がみしみしと小さく悲鳴をあげている。
「やってるやってる」
 頭上から響く轟音に驚き、宴会の途中なのだろう和服の男たちが忙しく廊下を走り回る。そんな男たちをやり過ごして水羽は慣れた足取りで神無を一階まで誘導していく。
「あの……」
「ん? 二人なら心配ないよ。問題なのは建物のほうかな〜。四階、この分じゃ全壊かも」
 壁がかすかに揺れている。鬼が住むために建てられた宿舎は、通常の物よりはるかに頑丈に作ってある。だが、鬼頭とその庇護翼が正面からやり合っては無事ではすまされないだろう。
「一階までは被害ないから、今日はボクのところに泊まりなね?」
 軽くそう言って、彼は少女をドアの前に案内した。
「ここ、ボクの家。ドア開けて、右手がダイニングキッチン、左手の奥がバスルーム、トイレはその隣。正面はベッドルーム、その右が勉強部屋で、左はリビング。間取り、一階から四階まで一緒なの」
 さらっと説明して、水羽はバスルームと思しきすりガラスを指差した。
「クレンジングクリームもえぎに借りといたから、とりあえず化粧落としてきなよ。バスルームも使っていいよ。必要な物はひとそろえ置いてあるから、遠慮しないでね?」
 そう言いながら、水羽は靴を脱いでスリッパに履き替えて廊下を歩き出した。
 少年の後ろ姿はそのまま正面の部屋へと吸い込まれていった。
 神無はそれを唖然として見送り、ようやく正気に戻る。靴を脱ごうとして、履いていないことを思い出す。彼女は慣れない手つきで足袋たびを脱ぎ、言われるままバスルームへ向かった。
 脱衣所の脇に洗面所があった。そこには水羽が言ったとおり、クレンジングクリームが置いてある。
 母は化粧をしない女だった。神無もそういったことにさほど興味のあるタイプでもなく、ゆえに使い方など全くわからない。
 彼女は見慣れない容器に手を伸ばし、かすかに聞こえてきた破壊音に天井を見上げ、それがおさまると手にしていた物を裏返して真剣に使用方法を読み出した。
 無愛想に並ぶ小さな文字を一通り目で追うと、彼女はようやく顔を上げる。
 視界に、パジャマが入った。そこにはバスタオルと下着も添えられている。神無はほっと表情を緩め、バスルームのドアを小さく開いて中をのぞいた。
 そこはやはり、小さなアパートの小さな浴室とは全く違っている。あの大浴場の異様な規模とは違い、ずいぶんこじんまりしたイメージではあるが、それでも十分な広さを持っている。
 神無は少し考えるように中を見詰め、それから帯を解いた。
 人に肌を見られることは避けてきたが、別段風呂嫌いというわけではない。すでに湯の張られていた風呂は、少し熱めに設定されていた。
「あ、お風呂入ってきたんだ?」
 ベッドルームのドアを開けると、ベッドに寝そべるようにして本を読んでいた水羽が軽い調子で口を開いた。
 一階から四階の間取りは同じと言っていた。
 確かに同じだ。
 しかも、多分ベッドも同じ。ほとんど正方形に近い巨大ともいえるものである。
 それを見て、神無はドアの前で硬直している。
「そこのテーブルの食事、食べてて。ボクも風呂入ってくる。も、今日一日疲れたぁ」
 跳ねるように起き上がり、本をベッドに投げ捨てながら水羽はそう言った。
「ほら、昼から何も食べてないでしょ。軽くでもいいから食べときな」
 神無の体をテーブルのほうへ向け、水羽は部屋を後にする。
 再び取り残された神無はぐるりと部屋を見渡した。
 間取りは四階のあの部屋と同じ。入った瞬間、またあの部屋に逆戻りしてしまったかのような錯覚に襲われるほどだった。しかし、そこには全く違った空気がある。
 部屋の中央に印象に残るベッドが一台、大きなテレビにコンポ、食事の乗ったテーブルに、雑誌のぎっしり詰まった収納ボックスがいくつか。それに――
 抱きしめたらさぞ気持ち良さそうな、大きな熊のぬいぐるみがちょこんと座っていた。大きな黒い目に、きゅっと笑みを結ぶ口元。太い胴体は、一抱ひとかかえはあるだろう。
 神無の表情が柔らかくなる。
 吸い寄せられるようにふわふわと熊のぬいぐるみの前に移動する。手を伸ばして触れると、想像以上に柔らかかった。
 でんと座る熊のぬいぐるみは、しゃがんだ神無よりも少し大きい。
 無言で神無を見詰める大きな熊をペタペタと撫でまわす。
 少女はそのまま、両手を広げてその熊を抱きしめた。頬に触れる茶色い毛の感触がくすぐったい。ぬいぐるみは、太陽のにおいがする。
 初めて触れたその感触が心地よくて、神無は何度も頬を擦りよせた。
「そういうの、好きなんだ? ――かわいい」
 耳元をくすぐる声に、神無はハッとして目を開く。
 ずいぶん長いことぬいぐるみを抱きしめていたらしい。視線をあげると、覗き込むようにして身をかがめる水羽の顔が、すぐ近くにあった。鬼はもともと端整な顔の者が多い。目の前にいる少年も、少女と見まがうほどの容姿だ。
 驚いたように目を見張る少女に優しく微笑みかけて、水羽はガシガシ髪をタオルで拭きながら移動し、部屋の隅にある箱を持ち上げてその中身をベッドの上にぶちまける。
 殺風景だったベッドの上が鮮やかになる。
「結構いろいろもらうんだ。ボクも嫌いじゃないから受け取るけど、変な趣味かなって思って」
 クリーム色のまあるいヒヨコのぬいぐるみを頬に当てて、水羽が首を傾げてみせる。神無はブンブン首を左右に振って、色とりどりのぬいぐるみが散らばるベッドに歩いていく。
 薄暗いアパートでは見ることもなかった様々なサイズの様々なぬいぐるみたち。それらを両手いっぱいに抱きしめると、笑顔がこぼれた。
「あんまり無防備にならないでね? ボクのほうが抱きしめたくなる」
 水羽のその一言を聞いて、神無は両手にぬいぐるみを抱きかかえて二歩後退した。
 素直すぎる少女の動き。それが可愛くて、水羽は微苦笑する。
「大丈夫だよ。鬼はね、自分の花嫁が嫌がることは絶対しない」
「自分の……?」
 ぬいぐるみを抱きしめたまま、不思議そうに神無は水羽を見た。
「そう。神無、いまボクの花嫁でもあるから」
「……」
「ボクたち求愛したでしょ。だから、神無はボクの花嫁でもあるの。神無に選択肢ができたんだよ」
 意味をかいさない少女は、なおも不思議そうに少年を見た。
「鬼頭と三翼、四人の中から誰かを選ぶの。ボクたちにとって、神無は大切な宝なんだよ」
 ピクリと神無が緊張する。
 彼女の視線が上に移動したのに気付き、水羽もつられて上を向く。
「華鬼のアレはね、ちょっと異常。自分の本能にまで逆らって、何もがいてるんだろうねぇ、あの男」
 あれからずいぶん時間がたっているのに、頭上からはまだ音が響いてきている。婚礼に出席していた鬼たちもあの騒動に巻き込まれているのなら、四階の惨状はすでに想像の範疇はんちゅうを超えている。
「あの人……」
「ん?」
 天井を見詰めたまま、神無はほとんど無意識のように呟いていた。
「あの人、どうして苦しいの?」
 幸せであるはずの男。何の苦労も何の不自由もないはずなのに、垣間見せたあの追い詰められたような表情はなんだったのか。
 苛立ちとも、憎しみとも――ましてや、殺意とも違う。
「何が苦しいの?」
 零れ落ちた神無の疑問に、水羽は目を見張っていた。
「神無――わかるんだ……?」
 ひどく驚いたように、水羽はぬいぐるみを抱きかかえたまま立ち尽くす少女を見た。
「そっか、神無にはわかるんだ……そっか……」
 驚いたような表情は、すぐに笑顔に変わった。
「それなら――大丈夫かな……うん、大丈夫かも。なんか、ほっとした」
 一人で納得して、水羽は双眸を閉じる。まるで何かを思い出すように。
「……あいつね、本当はすごく優しいよ。少し不器用だけどね」
 意外な言葉が水羽の口から飛び出す。神無は困惑しながら水羽を見詰める。
 優しいとは思えない。
 不器用かどうかも、わからない。
 残酷な男だとは思う。非情で、冷酷で――鋭利な刃物のような男。
 人を道具としてしか見ず、苛立ちを殺意で塗り固めた、悲しい鬼。
「ねぇ神無、華鬼を好きになりなよ」
 不意に水羽がそう囁いた。
 言葉もなく立っている神無を包み込むような優しい目で見詰めて、彼は穏やかに言葉を続ける。
「そうしたらね、きっと誰よりも幸せな花嫁になれるよ。あいつはね、神無を守るためにいるんだから。あいつだけが、神無を守れる鬼だから」
 その言葉に反応するかのように、胸に咲いた花が熱を持つ。呪いのように刻み込まれた鬼の花嫁の印。今まで少女を苦しめる事しかしなかった忌まわしい痣。
 新たに刻まれた三つの花の中央には、大輪の妖花が鮮やかに咲き誇っていた。
「華鬼を……?」
 呟いて、少女はそっと刻印に触れる。
 鬼たちの間に長く語り継がれることとなる不変≠ニ呼ばれる恋物語の、それが小さな幕開けだった。

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