「返せだと?」
 苛立ったような華鬼の声。
 神無は青ざめて後ずさる。存在感が違うのだとさっき聞いたばかりだった。その意味が、今ならわかる。
 びりびりと空気が震えるようだった。
 おそらくは――怒り。何に対してなのかはわからない。それでも、全身が危険を察知するほど、彼の存在は神無にとって脅威だった。
 今まで一度として感じたことはない類の恐怖が神無の心を占めている。
 この男は、何のためらいもなく自分を殺すだろう。
 殺して、平気な顔で立ち去るだろう。
 それがはっきりとわかる。情の欠片もなく、後悔すらしない。そんな男だ。
「この女は、お前の命のかわりに差し出されたんだ。かえせとはずいぶん虫のいい話だな」
 侮蔑と怒りを込めて、華鬼は母に言った。神無は口を挟むこともできずに、呆然と二人を見詰めている。
「こら、ヤバイで」
 まるで神無を守るかのように、光晴が素早く少女の前に出た。
「まさか花嫁を庇護翼に守らせなかったのは――」
「――最低! 華鬼って最悪!!」
 続けざまに、麗二と水羽が駆けつけてブツブツ言い始める。
 瞬間、空気が大きく振動する。目に見えない、音で反響するわけでもない――それなのに、空気が振動≠オた。すさまじい圧力を感じる。風が不自然に吹き上げた。
 神無は震える体を両手で強く抱きしめた。
 これが鬼頭の鬼頭たる所以ゆえん。その存在が、人々をことごとく沈黙させるのだ。
 圧倒的といわざるを得ないだろう。この息苦しいまでのプレッシャーを感じて、平然としていられるのはごくわずかな鬼のみだ。
「――かえして」
 母は、真っ青になりながらも、同じ言葉を繰り返している。
 どうして、と神無は思った。
 かえしてと言うぐらいなら、どうして今朝、家を出る自分に対して声をかけようとはしなかったのだ。
 今まで一度として必要なとき以外は一切声をかけることもなく、視線すら合わせようとしなかった母。
 どうせいらないのなら、取り返しに来なければいいのに。
 あの息の詰まるような小さなアパートの一室で、世界の終わりだけを願うようなあの暮らしが、母の望みだというのか。
「――十六年前にオレは聞いたな? 十六年後に娘を差し出すか、今ここで殺されるか、どちらがいいと」
「そ、そうよ」
 かすれる声で母が答える。
「お前は娘を差し出した。自分が大切だったろう? 子供の未来なんてどうでもよかったんだ」
「だって――」
「神無だと? ふざけた名前をつけてくれたな、オレへのあてつけか? 貴様が自分で選んだことだろう。オレは強制なんて一度もしなかった」
 怒りが伝わってくる。
 肌を刺すような激しすぎる感情の波。
 神無――神はいないという意味の名前。確かに神などいないのだろう。いたらもう少し、楽に呼吸できる方法を教えてくれたに違いない。
 名を呼ばれるたびに、思い知らされる。
 誰にすがることも、誰に頼ることも、誰に祈ることも無意味なのだと。
 世界はあまりにも暗すぎた。一片の光すら見出せないほど。
 父は神無の生まれる前に他界していた。唯一の肉親である母は、神無の存在を否定するかのように、少女を拒み続けた。
 これが現実なのだと思った。
 男たちからはことごとく性の対象として見られ、女たちからは憎悪の対象としてしか認識されない、それが自分なのだ。
 そんなことは言われなくても知っている。
 いまさらどんな言葉を投げかけられても心など痛まない。流せる涙はもう一滴も残ってはいない。
 心と同様にカラカラに干からびているのだ。
「違う……!」
 真っ青になりながらも、母は必死で言葉を絞り出す。
 何を否定しているのだろう。
 神無は無表情に母を見詰めた。自分とよく似た、小柄で痩せた女。化粧気のないその素顔は、母を老女のように見せている。
「もともと必要なかった娘だ」
「違う!」
「天秤にかければ、迷うことなく自分の命を選ぶ――その程度の娘だ」
「違う!!」
 涙のいっぱい溜まった目で、母は華鬼を睨みつけた。怒りが恐怖を凌駕した、初めて見る母の姿。
「あんたあの時言ったじゃないか!? ここで死ぬか、十六年後に娘を差し出すかを選べって!」
 鋭く言って、母は再び一歩前進する。
「神無ちゃん、よぉ見とき。あれが母親や。あんたに詫び続けて生きてきた、あんたの大切な母親や」
 光晴の声がどこか遠い。
 神無は母を凝視していた。
「あたしは自分の命なんか選んじゃいない! あそこであたしがあんたに殺されたら、神無は生まれなかったんだ!」
 悲鳴のような声で、母が叫んでいた。
 ――意味が、よくわからなかった。
 母の言わんとする言葉が、神無には理解できなかった。おそらく、華鬼にも。
「何が言いたい?」
 金色に光る獣のような目を母に向けて、低い声で華鬼が問う。
「神無は、あの子は、あの人が残してくれた命なんだ! 結婚してもずっと子供ができなくて、ずっとずっとあきらめていて――」
 あぁ、聞いたことがある。
 神無がぼんやり考える。
 結婚は早かったが、ずいぶん長い間子供ができなかったと――あれは、誰から聞いた話だったろう。
「あの人が事故で死んで、後を追うつもりだった。でも、死にきれなくて病院に運ばれて、そこで神無がいるって聞いたんだ」
 望んだ子供だった。
 あの人が生きていれば、どんなに喜んでくれただろうと。
 母は嗚咽を漏らした。
「神様はいるんだと思った。あの人の形見を抱いて、あの人の分まで幸せにしてやろうって誓った夜に――あんたが」
 また一歩、母が華鬼にむかって前進する。
「あんたがあたしの前に姿を現したんじゃないか!?」
 否定すれば殺される。
 瞬時にそう悟った。やっと授かった子供ごと、殺されてしまう。
 そのとき彼女が最優先にしたのは、夫の忘れ形見である大切な命を宿した自分の体≠守ることだった。
 はなから何も天秤になどかけてはいなかった。
 子供の命が何よりも大切だった。
 ――生まれた子が女だと知って彼女は絶望した。
 あいつが来る。
 十六年後に、娘をさらいに、あの鬼が来る。
 血も涙もない冷徹な鬼が、約束通りやってくる。
 やはり神などいなかったのだ。
 そう思わざるを得なかった。娘の肌に焼きつくように刻まれた印を見るたびに、己の取ったあのときの行動が――鬼に命乞いをしたことが、本当に正しかったのかどうか疑うようになった。
 やがて娘を直視することができなくなった。
 別段美しくもない、平凡な娘。どこにでもいるありきたりな娘。
 それなのに、ことあるごとにトラブルに巻き込まれる――その理由を、彼女はおぼろげながら理解した。
 肌に刻まれた印。
 男たちは何かに誘われるように娘を脅かしていった。平凡な日常を凄惨な物に変えるほど、それは幾度となく繰り返されていった。
 彼女は娘をできるだけ家から出さないようにした。
 遊びたい盛りだったろう幼少の頃も、少女は部屋の中へ閉じ込められていた。
 彼女は本能的に、娘を守る術を知っていた。
 泣くことも笑うこともやめた娘が哀れだった。それでも、生きてさえいてくれればいいと身勝手に考え、その願いに絶望した。
「神無をかえして」
 ずっと考えていた。
 どうすれば娘を幸せにしてやれるか。
 どうすればあの苦痛を和らげてやることができるか。
「十六年前に聞いたよね? 自分の命か、娘の未来、どちらを差し出すか」
 答えなどとうに決まっていた。
 迷っていたのは、娘の幸せな姿を見たいと思う己の浅ましさゆえだった。
「あたしの命をあげる。だから、もう神無を自由にして」
 そう、答えなどとうに決まっていたのだ。

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