華鬼が金色の瞳で母を睨みつけている。
「ふざけるな」
静かすぎる怒声が、彼の怒りを克明に伝える。あまりの威圧感に、母が喉の奥でヒッと小さく悲鳴をあげた。
「いまさら貴様の命に何の価値がある? 死にたいのなら手は貸してやる。だが、それは取引じゃない」
「取引?」
ガタガタ震えながら、真っ青な唇で母が問う。
「取引する気なんて始めからないだろ!? 今も、十六年前のあの時だって! あんた、あの時、どう答えたってあたしを殺す気だった!」
だから無様に命乞いをした。必死で助けてとすがって、そうしてつなぎとめた命だった。ひどく惨めではあったけれど、我が子が助かったことだけが救いだった。
「今だってそうだ。あんたにとって、神無はいらない花嫁だ。本当は死んで欲しかった娘だった」
母の言葉に、華鬼は口元を歪めた。ひどく凶暴な笑みだった。
「よく――わかってるじゃないか。死ねばよかったんだよ、こんな女」
華鬼の言葉に、三翼が殺気立つのがわかる。
「華鬼……!!」
光晴が低く唸った。
花嫁は宝だった。十六年間待ち続け、長い片想いの末にようやく迎えることのできる大切な
だが、華鬼にとってはそうではなかったと言うことだ。
死んで欲しかった花嫁。
だから庇護翼をつけずに十六年間沈黙を守り続けていた。
「お前から始末してやる」
残忍な笑みを浮かべたまま、華鬼は母に向かって腕を振り上げた。
母が神無を見詰めている。自分を殺そうとする華鬼ではなく、その向こう側で茫然とする神無を。
死さえ受け入れようとする母の目は、ひどく穏やかだった。
必要以上に言葉を交わすことのなかった母。まるで何かにおびえるように日々を過ごしてきた女。
彼女の胸に抱かれた記憶も、優しく頭を撫でられた記憶すらない。
拒絶の言葉さえなかったが、きっと嫌われているのだろうと、神無がそう思わざるを得ない生活だった。
「お母さん……」
母が笑っている。
優しく、穏やかに。
初めて見る母親≠フ顔で、彼女はまっすぐ神無に微笑みかけていた。
母の唇がゆっくり動く。
言葉はなかった。
だが、その唇の動きが、彼女の想いを神無に伝えてきた。
神無は無意識に走っていた。
「やめて――!!」
母に向かって振り下ろされようとするその腕に、神無はしがみついていた。華鬼の怒りが、殺意の矛先が自分に向いてもいい。いや、始めから自分に向いているのなら、巻き込まれているのはむしろ母親のほうだ。
優しい人ではなかったけれど、楽しい生活でもなかったけれど、最後に母の笑顔が見られたから、そして心からの言葉≠もらったから、もうそれだけでいいと思った。
この人を自由にしてあげよう。
私という
十六年間背負い続けてきた重荷から、自由にしてあげよう。
神無は母親に小さく笑ってみせた。
「神無!!」
母が悲鳴をあげる。華鬼がもう片腕を持ち上げた。そして、苛立ったように右腕にしがみつく神無を睨みつける。
「お前が先か?」
憎悪以外なにも読み取れない声音でそう言って、彼は腕を振り下ろした。
神無はとっさに
痛みが来るだろう。今までに一度も感じたことのない激痛と呼ぶべきものが。手加減などするはずはない。それは神無の命を奪うための行為なのだから。
「……?」
しかし痛みはなかなか訪れず、神無は恐る恐る目を開けた。
「いい加減にしとけや、華鬼」
怒気を孕む低い声は少し高い位置から聞こえた。
振り下ろされようとする腕を掴んだのは、光晴。その瞳は怒りのために金色に輝いていた。
「庇護翼の前で花嫁傷つけようだなんて、いい度胸じゃん?」
震えながら華鬼の腕にしがみつく神無をそっと引き剥がしながら、水羽が嫌味っぽく笑った。
「私たちでよろしければお相手しましょう」
神無の母を守るように華鬼の前に立つのは麗二である。
「――三翼!! 逆らう気か!?」
「逆らう? オレらは花嫁を守るためにここにあるんじゃ。何を勘違いしとる、鬼頭=H」
ぎりっと華鬼の腕を掴みあげ、光晴が冷ややかに言い放つ。
「お
「一人ずつなら殺せる」
麗二の言葉にニッと笑って、華鬼は光晴の手を振りほどく。
そして一人一人の顔をゆっくりと
本当に強い鬼なのだろう。神無はそう思った。その存在だけで総てを沈黙させるほどの男なのだ。
彼は神無とすれ違う瞬間、彼女だけに聞こえるような声で囁いた。
それは血も凍るような絶望の言葉だった。
「――神無?」
青ざめた神無に、水羽が心配そうに声をかけてくる。神無は小さく首を左右に振り、母親を見詰めた。
ようやく正常な感覚を取り戻したのか、彼女はその場に座り込んでいた。ガタガタ震えながら、両手をぎゅっと握り締めている。
母は言葉をくれた。声には出さなかったけれど、温かい言葉をくれた。
「お母さん」
小さく呼びかけると、母は青ざめた顔を上げる。
「お母さんも、幸せになってね?」
娘の言葉に、彼女は目を大きく見開く。死を覚悟した瞬間に伝えたかった言葉を、まさか生きて娘から返されるとは思っていなかったのだろう。
大きな瞳はすぐに涙でいっぱいになった。
幸せになって。
私の分まで。
神無はそっと心の中で言葉を続けた。自分には多分、そんな未来は用意されてはいない。
すれ違いざまに言った華鬼の言葉が、神無の耳からはなれない。
彼はこう囁いた。
「今夜が楽しみだな」
――と。