本来なら、男に抗議するべきだろう。
 一方的に言うことだけを言って、乱暴ではないがいささか強引に車に乗せられた。だが、神無は無言のまま、どこか上の空で流れる景色を見詰めている。
 母は、何も言わなかった。
 娘が見ず知らずの男に連れて行かれるというのに、母は、まるでその事実を無視するかのように背を向けたまま動こうとはしなかった。
 どうでもよいのだ。
 自分の存在など、彼女にとっては重荷だったのだ。
 母は、過去に一度も神無に笑いかけたことはない。そう、ただの一度も。
 きっと清々している事だろう。
 邪魔な娘が消えて。
「なぁ、神無ちゃん」
 光晴みつあきがぼんやり外を見詰める少女に声をかける。
「怖わないの?」
 神無が光晴に視線をやる。
「どこに連れて行くんだとか、華鬼かきは誰だとか、自分はどうなるんだとか、そーゆー質問、なんもないの?」
「どうして……?」
「へ?」
「私、そう聞いたほうがいい?」
「――いや、いや、すまん。オレが連れてきといて、そんなん言うのおかしいな」
 肌になじむシートに全体重を預け、光晴が大きく息を吐く。
「最低やで、華鬼。何でこんなんなるまでほっとくんじゃ。十六年間も、なんで助けもよこさず見捨てておいたんじゃ」
 そして今更。
 いまさら迎えをよこすなんて、本当に男として最低だ。
 自分でこの少女を選んでおきながら、なぜ今まで一度たりともその姿を見に行きもせず、手を差し伸べることもせず放っておいたのだ。
「女はな、でて育てるもんじゃ。はなのように庇護するもんじゃ。それをあのバカ、怠りおった」
 ぎらりと光晴の瞳が鋭くなる。
 人ならざる者の光。細められた深い黒瞳は、手負いの獣のように血走っている。
「――!!」
 ビクリと少女が身をすくめる。
 光晴から少しでも離れようと、少女はドアに張り付いた。ドアを開けようと震える手であたりを探る。運転中の車のドアを開ければどんな事になるのか、子供でもわかりそうなものだった。だが、少女は車の出しているスピードなど気にもとめない。
 ここにいるよりはいい。高速の風景の中に飛び込んだほうが、きっとずっと楽に違いない。
 少女は必死でドアに爪をたてる。
 全身がガタガタと震えた。指先もいう事をきかない。
 母と一緒にいることが苦痛だった。あそこから出られるならどこでもいいと、そんなことを少し考えた自分がいた。同じアパートに住む大学生と顔をあわせることも、アパートの管理人と顔をあわせるのも神無には息が詰まるほどの苦痛だった。
 だからどこにでも行こうと思った。
 この人は、少し優しそうに見えたから。
 でも。
 この男も、同じ。
 あいつらと同じ。
 血走った目で、ぎらつく顔で、まるで獲物を見つけた狼のように近づいてくる、あいつらと何のかわりもない。
「すまん!!」
 真っ青になってがたがた震えだした少女にようやく気付き、光晴が慌てたように反対側のドアに張り付いた。
「あかん! あんた刻印℃揩チてんの忘れてた! すまん、怖い思いしたやろ?」
 ぴったりとドアに張り付いたまま、どこかオロオロと男は言った。
「もう大丈夫やから。オレはあんたに危害は加えん。オレは庇護翼ひごよくや。あんた守るために呼ばれたモンや」
 そこまで言って、彼は一瞬言葉を切った。
「だから、オレの名を呼び。オレと高槻たかつき水羽みなはは、あんたを守るために十六年前からあんたの傍にうとらんといかんかった」
 まだドアに張り付いたままの神無に小さく笑って、
「命令出さんかったんは華鬼や。よう見とき。オレが一等始めに殴る男や」
 どこか挑発的に、光晴は口元を歪めた。
 そしてその言葉どおり、光晴は出合い頭に一人の男を思いっきり殴り飛ばした。
 恐ろしく鋭い瞳をした、黒髪の青年を。
 木籐きとう華鬼かき――。
 鬼の末裔まつえい
「このクソ爺」
 汚い言葉と一緒に口腔の血を吐き捨てて、華鬼はゆらりと立ち上がる。
 登校時の正門でいきなり殴り飛ばされたのは、私立鬼ヶ里きがさと高等学校の生徒会長であった――。

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