六時三十分。
 目覚ましが遠慮がちに朝の訪れをしらせる。
「ん……」
 少女はもそもそと身じろぎして、時計へ手を伸ばした。
 外はすでに明るい。
 九月一日の朝。それは彼女の誕生した日でもある。学生たちにはあまり歓迎されない日付なのは致し方ないだろう。
「ご飯、作らなきゃ……」
 眠い目をこすりながら、少女は布団から抜け出した。昨日はよく眠れなかった。
 母親の常軌を逸したその姿が、脳裏から離れなかったのだ。
 壊れた人形のようにヒステリックに笑い続けた母は、きついアルコールのおかげで今も眠っている。
 少女は布団を押入れにしまうと洗面所で顔を洗った。鏡の中にいる自分は、疲れ切った顔でこちらを見ている。長いまっすぐな黒髪。少し色素の薄い茶色い瞳。顔はどこか青白くて、今にも倒れてしまいそうだった。
 しばらくぼんやりと鏡を見詰め、彼女は思い出したかのように部屋へ戻り、のろのろとセーラー服に着替えた。夏用の制服は、二種類ある。白い生地の半袖のセーラー服と、同じ生地の長袖のセーラー服。少女は真夏でも決して半袖を着ることはなく、当たり前のように長袖のセーラー服を着用した。
 淡いブルーのエプロンをつけたとき、不意にアパートのドアをたたく音が響く。
 六時五十分。
 早すぎる来客だ。新聞は取っていないし、ここの家に訪れる客はめったにいない。
 少女はしばらくドアを見詰める。
「朝霧さん? 朝霧神無さん?」
 若い男の声が、少女の名を呼んだ。聞き覚えのない声である。周りを気遣ってのことだろう、男の声はどこか遠慮がちだった。
「朝霧さん?」
 何度か名を呼ばれてから、神無はドアに向かった。
 一瞬ためらい、振り返る。
 母はピクリとも動かずこちらに背を向けて寝入っていた。それがどこか拒絶のように見え、神無は無言のまま視線をドアへ戻した。
 鍵を開けると声どおりの若い男が立っていた。若い――おそらくは、自分とそんなに違わない年の、背の高い男。
 少し長い髪をかきあげて、フレームの薄い丸メガネを中指で軽く押し上げる。
「よかった、まだ寝てるんやないかと思った」
「……どなた……ですか?」
 茫洋とした声で、神無は男に問いかける。
 男は少し苦笑した。
「オレ、士都麻しづま光晴みつあきって言うもんです。朝霧さん迎えに来たんですわ」
 不思議なイントネーションで男はそう言った。関西人のような、そうでないような、神無にはひどく聞き慣れない話し方だった。
「迎え……?」
 神無はわずかに首を傾げる。
「ええ。本当申し訳ないんですけど、その制服、今日で着おさめってことで」
 光晴は軽く言い流す。
 制服といわれ、神無は自分の着ているセーラー服に視線を落とした。紺のスカートは膝よりも長く、白い靴下は膝のすぐ下まである。白いセーラー服は長袖。暑苦しいとどんなに言われても、神無は肌の露出を嫌って半袖は着ない。
 神無は光晴を見た。
 どこかの制服らしい。半袖シャツの胸元のポケットには凝った刺繍がされている。モチーフは鷹だろう、ずいぶんと雄雄しい。ゆるめにつけているネクタイは、紺色がベースで、部分的に白のストライプが入っている。ズボンも紺ベースで、茶と赤のタータンチェック。
 見慣れない制服だ。
 市外の高校の物かもしれないが、別の物かもしれない。
 神無にはあまり興味のないことだった。
「本当申し訳ないんですけど」
 男は少女ではなく、その奥でピクリともしない女を見詰めて言葉を続けた。
「お嬢さん、もろてきますわ」
 少女は男を見詰めた。
「鬼の、使い?」
 零れ落ちた少女の言葉に男は微かに目を細めた。
「遅なってすんません。ようやっとお迎えにあがれました。こんなどうしようもなくなってから来るなんて、男としては最低やけど」
 動かない少女の顔を痛々しげに見詰めながら、
華鬼かきがお待ちです」
 光晴がささやくようにそう言った。
 それは、神無の運命を変える男の名だった。

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