「お、お待ちください!!」
 悲痛な女の声が廊下に響く。
沐浴もくよくがまだ済んでおりません!! 鬼頭!!」
 神無の怯え方がただ事ではないと悟ったもえぎは必死で華鬼にそう訴えた。少しでも時間を稼ごうとする彼女の顔は、神無同様、蒼白である。
 鬼が自分の花嫁を傷つけるはずがない。鬼が花嫁を守るのは、それは彼らの本能なのだ。とくに強い鬼は花嫁に絶対服従といってもいい。
 目の前にいる男は鬼頭≠フ名を継ぐ者。
 しかも、歴代の鬼頭の中でもっとも強いと言われた男だ。
 その鬼が自分の花嫁を傷つけるなど有り得ない。
「鬼頭!」
 ――有り得ない、はずだった。
 神無はただ、この突然の出来事に怯えているだけだろうと思っていた。事実、もえぎも昔はこの不条理な結婚に不安と混乱、怒りを覚えた一人だった。
 華鬼は確かに穏やかな気質ではない。
 校内で揉め事を起こすことは少なかったが、彼はさまざまな火種を抱える男だ。そこにいるだけで女を惑わせ、男を挑発する。
 だが、花嫁に対してだけ別であると思っていた。
 過去の鬼頭たちがそうであったように、誰よりも深い愛情をもって花嫁に接するはずと、もえぎは信じていた。
 しかし、目の前にある光景はそんな当たり前の予想を大きく裏切っている。
 神無の血の気のうせた顔はこわばり、その体は小刻みに震えていた。彼女は悲鳴さえあげることができず、ただ己の手を見詰めていた。
 異様なほどの威圧感。
 花嫁を抱く鬼の手に更なる力が加わり、肉へと喰い込んでいく。
「鬼頭――!!」
 危険だ。
 このまま部屋へ行かせれば、少女には苦痛しか残されていない。瞬時にそう判断し、もえぎは華鬼の腕を掴んだ。
 神無を横抱きにしたまま黙々と歩いていた華鬼が、ふっともえぎに視線を移す。
 その金の瞳には、怒りとも苛立ちとも取れない感情が見え隠れする。
「――邪魔をするな」
「いいえ。これ以上先へは行かせません」
 まなじりけっし、もえぎは厳しい口調で続けた。
「花嫁を放してください。今の貴方には預けられません」
「――麗二の花嫁か。いい度胸だ」
 鬼でも恐れおののくこの威圧感に負けじと立ち向かう数少ない女。麗二の加護があるからだけではない。彼女自身も、それに見合うだけの強さがある。
 毅然とした態度は、この威圧感さえものともしない。
 華鬼の口元が引きあがる。
 自分に歯向かう女を嘲笑するように。
「オレに逆らうな。死にたいのか?」
「血で汚れた手で花嫁を抱きますか? それが望みなら、そうなさればいい。私は退きません」
 睨み据えるその目には、何の迷いもなかった。
 張り詰めた空気がさらに威圧感を増す。全身に悪寒が走る。
 神無はぎゅっと目をつぶり、小さく一つだけ息をした。
「もえぎさん、大丈夫です」
 消え入りそうな声で、神無は告げる。
「私は大丈夫です。だから……」
 ハッとしたようなもえぎに、神無は笑顔を作る。まだ、うまくは笑えないけれど。
 きっとひどく醜い笑顔でしかないけれど、神無は必死でそれをもえぎに向けた。この女性をここで死なせるわけにはいかない。
 麗二の大切な花嫁。
 ほんのわずかな時間をともにしただけの自分のために、体をはってくれる優しい人。
 神無の笑顔の意味を理解し、もえぎは唇を噛んだ。
「……ありがとう」
 もえぎの手が華鬼の腕を放したのを確認して、神無はホッと息をつく。
 華鬼は女を一瞥してから、再び歩き出した。
「ずいぶんと偽善ぶるな」
「……」
「死ぬ覚悟か? それとも、それ以上の苦痛が望みか?」
 嘲笑あざわらうように華鬼が声をかける。神無は何も答えず、再び紙のように白い自分の手に視線を落とした。
 痛みが一つ増えるだけだ。
 それが死を伴う物なのか、激痛だけを与える物なのかは、もう自分にとって大きな問題ではない。
 神無は、心の中で囁く。
 死を望むほどの苦痛は、とうに知っている。
 世界が優しかったことなどない。
 それはいつも欲望と憎悪でできていて、神無を手招くのだ。それを知っていたから、彼女は自らの感情を押し殺すように生きてきた。
「……つまらない女だな」
 低く言って、華鬼が階段を上がる。彼はすぐ傍にあったドアを乱暴に蹴り開けた。
 そこで彼が靴を脱いだことに気付く。
 彼は婚礼をおこなったあの真新しい畳の上を土足で上がった。
 彼にとってこの結婚式は、間違いなく歓迎すべき行事ではなかったのだ。それをいまさらながらに思い知る。
 華鬼は無言のまま短い廊下を進み、突き当りの部屋のドアを再び蹴り開けた。
 神無の肩が大きく揺れる。
 それは悪夢の続きのような、絶望的な光景。
 広めの間取りのその部屋には、正方形に近いような大きなベッドと液晶テレビ、それにわずかな調度品と間仕切り用のつい立しかなかった。
「初夜に何を望む? 鬼頭の花嫁」
 嘲る声が、耳元で優しく囁く。
 神無は青ざめる顔を上げた。
「わ――私は、鬼頭の花嫁じゃない」
 震える声でそう言うと、すっと華鬼の瞳が細められる。
 室内の温度がさがるような、冷酷な瞳。
「オレの刻印を持った女が、鬼頭の花嫁じゃない? それなら――」
 華鬼は乱暴に神無をベッドへ投げ、少女が逃げる間もなくその体を押さえつける。
「や……!」
 のしかかってくる男を押し退けようとした手は、あっさり一まとめにされ頭の上で固定された。婚礼用に美しく結われた髪が無残に乱れる。
「お前が鬼頭の花嫁でないなら、この刻印はなんだ?」
 強引な手が帯を無理やり引き解く。肌を焼くような痛みに、神無が息をのむ。
 冷たい手が残酷なほど乱暴に、少女の純白の衣をはだけさせた。その奥に隠されたおびただしいまでの傷を見て、華鬼は一瞬動きを止める。
 白い肌に咲く印とは異質な傷痕。わずかにくすんだそれらは、少女の柔らかい肌を埋め尽くしている。
「――当然、か」
 庇護翼をつけなかったのだ。刻印の持つ色香に、男たちがどれほど我を忘れてこの少女を欲したかなど、容易に想像がつく。
「死ねばよかったのにな。お前など」
「――殺せば、いい」
 それでこの苦痛から解放されるなら、もう二度と誰にも傷つけられることのない未来があるのなら、いま一瞬の痛みなどいくらでも我慢できる。
「……生意気な女だ。死にたいのか?」
 低く喉の奥で笑って、華鬼の手がゆっくりと下りていく。乱れた着物の裾からのぞく白く細い足を、冷たい手が割り開く。
「残念だったな」
「――ッ!!」
 大きく目を見開く神無を冷酷に見詰めながら、華鬼が残忍な笑顔を浮かべた。
「花嫁は子を生ませるための道具だ。十六年間を無駄にする必要はない」
 その意図を悟って、神無は言葉もなく自分を組み敷く男を見た。
 残酷な男。
 気まぐれに印を刻み、十六年間ただひたすら死を願い続け、生きて目の前に現れた自分を平気で道具≠ニ割り切る鬼の末裔。
 死を願っていた。
 ずっとずっと願い続け、それでも生き続けたのは――こんな、未来が欲しかったからではなかった。
「私は……」
 言ってはダメ。
 警笛けいてきが鳴る。心の奥で、その儚すぎる命を守るための警笛が激しく鳴り響いている。
「私は――」
 神無は華鬼の目を見詰めたまま、その警笛から耳をふさいだ。
 その言葉を言えば、彼は間違いなく――
 私を、許さない。

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