廊下に出ると、いつの間にか赤絨毯が敷いてあった。神無は自分の顔がこわばっていくのを感じる。
 これから行われる儀式は神聖なものである。鬼にとってはただのお披露目の場であるともえぎは言ったが、伴侶となる娘をおおやけにさらすのだ。決して安易な気持ちで臨んではいないだろう。
 そう、あの男以外は。
「さ、こちらです」
 神無は言われるままに、赤い絨毯を踏んだ。まるで血染めの絨毯だ。一歩進むごとに、足がどんどん重くなっていく気がする。
「形式は神前式のように見えますが、堅苦しいことはありません。一族の前で夫婦のちぎりとしてさかずきを交わすだけ。それだけですよ」
 もえぎはそう言って、神無をエレベーターの前まで誘導した。
 エレベーターの床も、赤い絨毯が敷いてある。神無が閉鎖的な空間に入ると、もえぎはその入り口で深々と頭を下げた。
「いってらっしゃいませ。どうか、お幸せに」
 エレベーターのドアがゆっくりと閉まっていく。わずかな隙間から、彼女が優しく微笑んでいるのが見えた。
 エレベーターのボタンはすでに押されている。神無は息をのんで、震える指を伸ばす。
 二階のボタンを押そうとして、少女はきゅっと赤い唇を噛んだ。
 ここまで来て逃げ出そうとする自分が哀れだった。逃げる場所も、逃げる手段もないとわかっているのに、まだもがこうとする。
 神無は震える手を引き寄せ、もう片手で包み込む。
 逃げてはいけない。
 今までずっと逃げてきたのだ。自分がおかれている立場も知らず、ただ危険を避けるように逃げ続けてきたのだ。
 機械的な音が軽く響くと、エレベーターのドアがゆっくりとスライドした。
 三階にはゲストルームがあると聞いていた。その床も、神無が進まねばならない道を示すかのように、赤い絨毯が敷いてあった。
 神無は青ざめた顔を上げる。
「ようこそ、鬼頭の花嫁。私は本日斎主いわいのうしを務めさせていただきます、渡瀬と申します」
 不意にかけられた声に、神無は肩を大きく揺らした。
 エレベーターのわきに壮年の男が立っていた。
「いわいの……うし?」
斎主さいしゅと申したほうが、通りがよいでしょうな」
 ゆったりと和装の男がそう返すが、もちろん神無には何のことだかさっぱりわからない。
 男はエレベーターのドアを押さえ、中を覗き込んできた。
「鬼頭はどちらに?」
 エレベーターに乗せられたのは神無一人である。すでに彼がここに来ているとばかり思っていた神無は、驚いたように渡瀬を見上げた。
「参入は一緒にと、あれほどお伝えしたのに……」
 溜め息混じりにそう言った彼の目が、ふと神無に向く。
 男の口元が、歪んだ。
 ひどく見慣れた笑顔だった。
 侮蔑と欲望のい交ぜになった表情。
「さすがは鬼頭の花嫁――その容姿でもそこまでの色香とは。さぞ、悪夢をご覧になったことでしょうな」
 嘲笑交じりの言葉に、神無は何も返さずエレベーターから降りた。
「……動じませんか。面白い」
 渡瀬はそう呟くと赤い絨毯を歩き始めた。
「式が小一時間ほど遅れております。主賓がいない挙式というのは例がありませんが、これ以上引き伸ばすわけにはいかない」
 花嫁だけで式を進めていこうとする渡瀬に、神無はうろたえる。彼らには常識は通用しないのだ。事実、渡瀬の声にはさほど困った響きはない。
 赤い絨毯が切れる。
 囁くような声が低く響いている。多くの声が入り乱れ、判然としない会話。
 渡瀬はふすまの前で立ち止まると、ちらりと神無に視線をやってからそれを開けた。
 ざわめきがいっそう大きくなる。
「お待たせいたしました。式を始めましょうか」
 ここでもい草の匂いがした。替えられて間もないだろう畳は青々としている。
 神無は室内を見て、言葉を失った。
 着付けに使われた部屋もかなり広かったのに、ここはそれ以上だ。いくつかの和室の襖を取り外しているようだが、それにしてもこの広さは異常だろう。左右に鎮座ちんざしている和装の男たちは、最後には黒い線のように区切りもなくつらなっていた。
「おい、鬼頭はどうした?」
 男の一人が大声を張り上げる。
「いえ、それが――」
 渡瀬が言葉を濁すと男たちが嘲笑した。
 花嫁を、見据えながら。
「選択を誤ったようですな、鬼頭は」
 青ざめたまま上座に着く花嫁は、歴代の鬼頭の花嫁の中でも類を見ないほど平凡な少女だった。
 鬼の花嫁は美少女が多い。美しい女を脅し、その娘を花嫁に迎え入れるのだ。まれに醜女しこめもいるが、ほとんどは母親譲りの美しい少女たちだった。
 鬼の中では、美しい少女を花嫁とするのがごく一般的で、その婚礼衣装もその花嫁に見合う一級品を取り揃えるのが通例だった。
 しかし、上座にいる娘はそうではない。
 間に合わせの婚礼衣装で申し訳程度に着飾った少女だ。
 しかも、主賓である鬼頭はいまだに姿を見せない。
 いったいどんな茶番劇だ。
「人を馬鹿にするにもほどがある」
「そう言うな、いい話のネタができたじゃないか」
 男たちが神無を見ながら、無遠慮に話す。
「冗談じゃないぞ、私は大切な学会をキャンセルしてまでここに来たんだ」
「召集が昨日の今日じゃ、皆不満でしょう。お互い様ですよ」
「こんな事でもなければ、互いに帰郷することもない。いい機会じゃないか」
 男たちがざわめきだす。
 渡瀬はそれを見詰め、小さく溜め息をついた。
「おい、さっさと杯を交わせ!」
 遠くから男の怒声が響く。
「一人でか? そりゃ、前代未聞だ」
 どっと、男たちが笑う。好色そうな、下卑げびた笑い。
 再び渡瀬は小さく溜め息をつき、朱塗りの杯を手にした。神前式で使う杯よりもはるかに大きい。直径は20センチほどあるだろう。
 彼はそれを神無に持たせた。
「本来はこれいっぱいに酒を注ぎ、半分を鬼が、その半分を花嫁が飲むのです」
 三々九度という形式とは違う。渡瀬は手短にそう説明すると、杯になみなみとお神酒みきを注いだ。
 アルコールの匂いには慣れている。しかし、自分が飲んだことはなかった。
 神無は半ば茫然としながら杯に視線を落とす。
 杯が小刻みに揺れ、小さな波紋が幾重いくえにも生まれる。
 夫婦の契りを交わす儀式。厳粛なはずのそれは鬼が刻む印となんら変わりなく、少女にとってはその身を縛り付けるための忌まわしい鎖だった。
 神無は杯に真っ赤な唇をよせる。
 なんとか流し込んだ酒は、苦味と甘みをふくみ、喉を焼く。
「早く杯を空けろ!! いつまでたっても宴が始まらん!!」
 遠くから野次が飛ぶ。
 真紅の杯を満たす酒は、ほとんど減ってはいなかった。
「オレが助けてやろうか?」
「そりゃいい、鬼頭の花嫁と婚姻を交わすなんて、またとない機会だ」
 嘲笑が辺りを包む。
 神無は無言のまま再び杯を傾けた。
 喉が焼ける。必死で酒を飲み下すが、なみなみと注がれたそれは一向に減る兆しを見せない。
「鬼頭がいないんだ――仕方ない」
 血走った目をした男が、ゆっくりと立ち上がる。空気を満たす笑いが、その種類を変えた。
 神無が青ざめる。
 まっすぐに向かってくる男の意図がはっきりと読み取れる。神無が杯を投げ捨てようとした瞬間、鋭い音が鬼たちの笑いを掻き消した。
 重苦しい空気が一瞬にしてあたりを包む。
 神無が顔を上げようとしたときには、強引に杯が奪い取られていた。
 鬼ヶ里高校の制服が視界に入る。
 上を見ると、華鬼が杯を空け、それを投げ捨てているところだった。杯は柱に当たり、まるでガラス細工のように弾けた。
 柱の脇には、ひしゃげて骨組みが剥き出しになった襖があった。先刻の鋭い音は、この襖を開けた℃桙フ音だったのだろう。
 杯を投げ捨てた華鬼は、そのまま無残に破壊された襖に向かって歩き出した。
 神無はとっさにそのズボンの裾を掴んだ。
 あたりは静まり返っている。
 異様な空気だった。
 華鬼は神無を睨みつけると、何を思ったのかその体をかがめる。
 そのまま、ふわりと少女を横抱きにした。
「バカな女だ」
 低く囁く。
 華鬼は花嫁を抱いたまま、その部屋を出た。
 唖然とその光景を見ていた鬼たちが、いっせいに騒ぎ出した。
「ずいぶんとご執心じゃないか、鬼頭は!」
「なんだ、オレはてっきり……」
「意外に早く、跡目あとめが誕生するかもしれませんなぁ」
 いくつも声が交差する。
「さぁ、宴だ宴!! 酒をもってこい!!」
 よく通る声が、神無の耳に届く。しかし、彼女は自分を抱きかかえる鬼から目が離せなかった。
「これから自分がどうなるか、まったく考えもしなかったか?」
 押し殺したような声が低く問いかける。その瞳が、苛立ちを隠せず金色に染まった。
 神無の細い体を支える華鬼の手に、ゆっくりと力が入っていく。
 悲鳴が、喉の奥に絡みついた。

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