浴槽を出て脱衣所に戻ると、神無は真っ白なバスタオルでくるまれた。
「そんなに怯えなくても大丈夫。これは形式的な儀式です。鬼にとってはただのお披露目の場なのですよ?」
 真っ青になる神無に困ったように微笑みかけて、もえぎは痩せて傷だらけのその体を丁寧に拭いた。
「結婚といっても籍が変わるわけではありません。確かに今日が初夜ですけれど、鬼にとってそういった概念もありません。花嫁が拒めば無理強いはしませんし――ある意味、人間の男より紳士的ですから」
 言い聞かせるように語り、もえぎは純白の肌着を持つ。
 そして神無にそれを着せると彼女の手を引いた。
「あ、あの!」
「はい?」
「し、下着……!」
 いま着ているのは、袖のないロングタイプの和装用の肌着だけである。薄布一枚で心もとない神無は、真っ赤になりながらもえぎを見た。
「――その、一応つけないしきたりで」
「え……!?」
「打ち掛けを着るので下着の線は関係ないはずですが、どうも昔からそういう事になってるようで、下着も和装ブラも、一切身につけないんです」
 苦笑しながらもえぎは言った。
 神無の顔が思い切り引きつっている。
「お式の後にもう一度身を清めるので――その時、お持ちしましょうか?」
 気を利かせてくれたもえぎに、神無はコクコク頷いた。ここでその質問が来るということは、普通はその入浴後も下着を着けない習慣なのだろう。
 少女にとっては、もはや拷問以外の何物でもない。
 神無はスリッパを履かされると、そのまま廊下へ誘導される。体をわずかにこわばらせ、神無はうつむいた。いったいどこに連れて行かれるのか不安になる間もなく、もえぎはすぐ近くの部屋のドアを開ける。
 真新しい、い草の匂いがした。
「さ、頼みますよ」
 もえぎが明るく声をかける。
 はじかれたように顔を上げると、そこは異様に広い和室だった。何畳あるかもわからない、宴会でも開けそうな大広間だ。
 そこには青々とした真新しい畳が敷き詰められ、優美な鶴が銀糸で縫い込まれた純白の白無垢が置いてあった。これから使うだろうさまざまな道具は小さなテーブルの上にある。白い三面鏡の化粧台が不自然に置かれ、すぐ傍に女が三人立っていた。
「はぁい」
 もえぎの声に、女たちが明るい声を返す。
「まぁまぁ、鬼頭の花嫁を仕上げられるなんで、なんて光栄でしょう」
 一番年長者だろう女が顔をほころばせる。
「ごめんなさいねぇ、こんなおばちゃんたちがお相手で」
 と、細身の女が口を開く。
「しかも、この婚礼衣装――これ、間に合わせなのよぅ。まったく、せっかくの晴れ舞台なのにもったいない」
 小柄な女が少し不服そうに白無垢の袖をつまんだ。
「でもほら、この帯いいわよ? それに白無垢と角隠し、ちゃんとそろいの生地だし――あら、鬼頭のお嫁さんは髪が長いわね? さっちゃんえる?」
「ほんと、キレイな黒髪ねぇ。結っちゃいましょうか?」
 ころころ笑いながら、あっという間に化粧台の前に連れて行かれる。
「さぁ急がなきゃ、お式に間に合わないわ」
「まぁ、ずいぶん細いのね、うらやましい――もえぎさん、タオル五枚ぐらい用意してくれません? これじゃ細すぎるわ」
「んま、タオル使うの!? 帯は腰で留めるのよ、腰で!! 緊張してるんだからタオル使って締めたら気分悪くなるわよ!?」
 弾丸トークである。神無はあっけに取られて言葉を挟むすきもない。
「あら、綿帽子もあるじゃない。どっちにします?」
「角隠しのほうがほら、かんざしが見えていいわ。白甲のいいのが用意してあるのよ」
「でも綿帽子も捨てがたいわね! 花嫁って感じがいいッ」
 興奮気味に小柄な女が少し高めの声で言う。
「とりあえずお化粧先にしましょうか?」
「それじゃ私は髪を結わなきゃ」
長襦袢ながじゅばんだけは着ておきましょうね」
 頷く間もない。ほとんどされるがままに、少女は三人の気の良さそうな女に身を任せていた。その姿をもえぎが微笑みながら見詰めている。
「色白ね。お化粧がよくのる、キレイな肌だわ」
「髪も――ほら、こんなにつやつや。全然痛んでない」
 女たちが楽しそうに会話をはずませながら、手際よく作業を進めていく。ずいぶんと慣れている。こんな場面に立ち会うのは、きっと一度や二度ではないのだろう。
 三面鏡に映る自分の姿をぼんやり眺めながら、神無は不思議な気分だった。
 同じ鬼の花嫁なのに、大浴場で会った女たちとここにいる女たちとはまったく違った印象がある。
 嫉妬も憎悪もなく自分を見てくれる女――そんな人たちがいるとは思わなかった。
 落ち着かない空気ではあるが、決して不快ではない。
「はい、少し目を閉じててね」
 ニコニコ笑いながら、年配の女が神無の前にしゃがむ。
「ちょっと引っぱるよ?」
 髪を結う女がそう声をかける。
 神無のまわりで忙しく手が動き回っている。
「髪はほつれない程度でいいかしら?」
「お式もそんなに長くはないし、それはかまわないでしょ? 油の匂いに酔う花嫁もいるから、できるだけ使わないほうがいいんじゃない?」
「ねぇ、やっぱり綿帽子にしましょう!! 可愛い花嫁になるわよ?」
「そうねぇ、角隠しも捨てがたいけど、綿帽子かしらねぇ」
 ぽんぽん飛び出す言葉を、神無は双眸を閉じたまま聞いていた。頬に何か柔らかいものが触れる。続いて目元、口元にも。
「ささ、立って」
 言われるまま立ち上がると、いつの間につけられていたのか襟元からタオルが取り除かれた。
「はい、袖通してね」
 の言葉と同時に、気付くとずっしり肩が重くなった。
「な、何枚きるんですか?」
「ん。しきたりで四枚」
 にっこりと細身の女が笑う。
「しかも、絶対白一色なのよ。裏地が赤とかだと可愛いのに」
「打ち掛けを合わせると五枚着る事に――ああ、長襦袢とあわせるなら六枚。肌着も入れれば七枚かしら」
 そう続けながら、小柄な女が腰紐を縛る。
 ちなみに伊達締だてじめも白である。完全に徹底しているらしい。
「きつかったら言ってね?」
 その声を聞いて下を向くと、すでに帯が締められていた。
「打ち掛け着るから帯が凝れないのよねぇ」
 どこか不服そうに笑っている。
「いいじゃないの、凝っちゃえば?」
「だってシルエットがおかしくなるのよ。鬼頭の花嫁がおかしな格好で出るわけにはいかないでしょ。皆来てるのに」
「そうねぇ」
 少し納得しながら、年配の女が頷いた。その手には、すでに打ち掛けが用意されている。帯が締められると、神無は打ち掛けに袖を通した。
 体が重い。しかし、それ以上に気になることがあり、神無は恐る恐る口を開いた。
「あの、皆って……」
「ああ、偉い人は一通り来てるみたい――凄いのよ、大学病院の先生とか弁護士、政治家もいるのよ? 見た目は普通の人と一緒だから、街で会っても絶対気付かないわね」
「……」
 神無は驚きで言葉を失っていた。
 木籐≠ヘ鬼の中で一番強い鬼――つまり、鬼の頭という意味の鬼頭なのだ。その婚儀に呼ばれるとなると当然来る者もそれなりの偉人となる。
 神無は鬼頭の花嫁だった。
 自分の立場に気付き、血の気が引く。
 これから向かうのは、とても居心地のいい場所とはなりえないだろう。
「そういえば、今日は鬼頭の――ほら、父親が欠席とか」
「ああ、連絡が行ってないって話? どうなのかしら」
 小首を傾げて、女は神無に緩やかなカーブを描く綿帽子をかぶらせる。
「なかなか気難しい人って聞いてるけど、お式に出ないのは残念ね」
 少し苦笑して、彼女は神無を三面鏡に向けた。
「はい、花嫁の出来上がり」
「まぁ……35年前を思い出すわ……」
 うっとりと年嵩としかさの女性が言った。
「私も30年前はこんなにも初々しかったのね」
 と、細身の女が漏らす。
「27年前に返りたい……!」
 小柄な女性が思わず続ける。それぞれに感慨深いらしい。
 神無は三面鏡の奥にたたずむ青ざめた少女を呆然と見詰めていた。
 真っ白に塗りつぶされた少女。欲望と憎悪を向けられることが当然となり、おびただしい傷跡を純白の婚礼衣装で覆い隠した自分。
『幸せな花嫁になれると思ってるの?』
 大浴場で会った女たちの言葉が脳裏をよぎった。
 表層をどんなに美しく飾っても、その中身は今までの自分だった。
 怯えて逃げることしか知らない、ちっぽけな――なんの価値もない、愚かな自分。
 幸せになれるとは思ってはいない。
 望んでなどいない。
 けれど。
 もし――
 もし、許されるのなら。
「幸せになりたい……」
 誰の耳にも届くことのなかった言葉は、小さく小さく、彼女の心の奥にしまわれていた。

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