「強い人ですね」
不意に麗二がそう言った。
光晴に促されるように歩き出した母を見送りながらの言葉である。神無は意味がわからずに麗二の顔を見上げた。
「うん、強い女」
水羽も頷く。
「十六年前に、きっとすごく怖い目にあってると思うよ。あの華鬼が相手なら」
殺す気だったと言っていた華鬼の言葉は、嘘ではないだろう。その華鬼相手に、どんなに必死で命乞いをしたのか、その詳細は今の神無にはわからない。
それでも、昨夜の母の狂態が総てを物語っていた。
壊れた人形のようにヒステリックに笑い続けた母。最後には泣きながら、浴びるように酒を飲んでいた。
父に――死んだ夫に助けを求めながら。
その言葉の意味を、神無がようやく理解する。
十六年前に繋ぎとめた命。母の笑顔の一切を奪うほどの恐怖の原因は、木籐の名を持つ冷酷な鬼だったのだ。
ここに来ることがどれほどの苦痛だったのだろう。
彼女が直面したのは、死≠ノ対する恐怖ではない。彼女を絶望の果てにまで追いやったのは、あの華鬼という鬼の存在そのものだ。
人の命を奪うことに何の罪悪も感じないだろうあの
憎悪と怒りの感情を吐露するすさまじいまでの威圧感。
それを十六年前に受けてなお、母はここに来てくれた。
娘を自由にしようとして、来てくれたのだ。
幸せになってほしい。
心から神無はそう思う。
光晴に説得され、ようやく巨大な鬼の
「――刻印は、死ぬまで消えません」
ポツリと麗二が呟く。
「ここを出れば、貴女は多分……」
麗二の言葉に、神無は小さく頷いた。
わかっている。
遺伝子を意図的に組み替えられた女が鬼の花嫁ならば、それを正常に戻すことはおそらく不可能だろう。細胞の総てが狂い、人ではないモノとなっているのだ。
見えない鎖に繋がれて生きるしかない。
神無は巨大な校舎を見た。
ここを出ることはできない。
一人では生きていくこともままならない。それほどに華鬼の呪縛は――彼が刻んだ印は強力だった。
死の瞬間を夢みるほどに。それのみが救いであると渇望するほどに。
神無は麗二と水羽に視線を戻す。
花嫁を守るという庇護翼。あの華鬼に平然と対峙する鬼の末裔。
彼らなら、あの苦痛を和らげてくれるかもしれない。
しかし、庇護翼である三人を巻き込んでここを出たら、華鬼は必ず母を殺しに行くだろう。
なぜか神無はそう思えてならなかった。
ただの肉片になった母だったモノを、彼は平然と神無に差し出す。そんな最悪の未来が脳裏をよぎる。
もう巻き込むわけにはいかない。やっと自由になった唯一の肉親を。
母は命懸けで守ってくれた。
あの恐怖を知っていたのにここまで来てくれた。そのことが何よりも嬉しかった。
神無は、思考の波に巻き込まれてうつむきかけた顔を、ゆっくりと上げる。
生贄は自分だけでいい。幸せな未来など、一度だって望んだことはない。
「……行こうか?」
わずかに表情を曇らせて、水羽が神無に声をかけた。
「鬼頭と庇護翼は、職員宿舎の別棟を使ってるんだ」
つまりは華鬼の花嫁たる神無も、そこでの生活を余儀なくされる。
水羽の言葉は、神無の心に暗い影を落とす。
逃げられないのだと言われている気がした。
日が陰る。
神無の目に映るくすんだ世界が、ゆっくりと色を失っていった。