act.99  タブー


「創世?」
 陸は球体の内側から礎の女神セラフィの言葉を繰り返した。
「要は? ラビアンは……ココロ、は」
 自分以外は全員、球体の中でぐったりと倒れ込んでいた。ほんの少しだけその体が上下に揺れていることを認め、陸は不安と安堵が入り交じった表情で言葉を投げる。場所は赤泉の内側、いまだ深紅に染まった水中だ。
「あるべきものをあるがままの姿に――それが、古代樹の役目」
 礎の女神は陸の質問には答えずささやく。ゆるりと球体が動き、それが浮上していくのがわかった。
「古代樹は」
「――惑星再生のプログラム。自己防衛の最たる証」
 無意識のうちに礎の女神の言葉を継いだ陸は、我に返って自らの口を押さえて眉を寄せた。
「そう、本来大地が持つ修復能力です。でもそれは、大地を守るためのものであって、生物を守るためのものではない」
 球体が赤泉を抜けると視界が拓け、陸はその光景に目を見張った。
 どこにこれほどと思うくらいの泥水が大地を覆い、その水深は大樹をも呑み込むほどに増している。それらすべては気味の悪い闇の中に沈み、ときおりひらめく雷光に照らし出されては消えた。
 赤泉に入ったのは日もまだ高いころだ。闇に慣れない目を凝らした陸は慌てて空を見上げ、そして絶句した。水面から伸びた樹が――蔦のように絡み合った巨大な樹木が縦横無尽に広がり、文字通り天空に根を張って増殖を続けている。ひしめき合う蔦に、別の蔦が絡まる。視線をとっさに地上へ戻して辺りを見渡すと、山ほどの規模がある樹木が何本も立ち同じように蔦を伸ばしていた。高度は雲よりもはるかに上だ。空から漏れていた光は数度瞬きする間に蔦に覆い隠されてしまった。
「これが古代樹……?」
「成木となった姿」
「でもこれじゃ光が届かない」
 澄んだ声を耳にしながら陸はうめいた。しかし、これが本来の古代樹の目的であり姿なのだ。古代樹は天空に枝≠伸ばし、世界を覆い尽くした後に千年眠りつづけ、世界をゆっくりと造りかえていく。創造の間、世界は常闇に落ちて生物は死滅し、大地がもう一度息を吹き返したころに古代樹は自らの中で幼木を創って枯れ、世界を育てるための苗床となって大地を覆う。
 いま陸の前には、その第一段階である光景が広がっていた。彼は見えないはずの目ですべてを見通し、腐肉へと向き直る。
「オレたち、助かるのか?」
 一度沈んだ大地を元に戻しただけですべてが終わりではない。古代樹にとって世界を造りかえることこそ使命だとしても、それは少なくとも、礎の女神の望みではないはずだ。
「そのための神です」
 静かな声に反応するように、ぽつりと水中から球体が浮上した。自分たちが入っているものと同じ仕様だと判断した陸は、その中にリスのような動物が一匹丸まって眠っているのに目を止める。どういう状況なのか尋ねようとして首をひねった彼は、おびただしい数の球体が次々と浮上してくるのを見てたじろぎ、そこにさまざまな動物が眠っているのを見てようやく理解した。
「これが、そのための犠牲です」
 数え切れないほどの球体が浮遊し、やがて一ヶ所へ集まっていく。遠くそれを見つめながらささやいた腐肉が血を滴らせる翼をゆっくり開くと、その中央には依然として剥き出しの心臓が不自然な形で脈打っていた。
「ココロ」
 陸は喉の奥からその名を絞り出す。神を降ろすために創られたキメラの少女は、手も足もない崩れた体と翼を持つだけの肉塊となっていた。その一部が盛り上がって伸び、心臓へと向かう。奇妙な光景に目を見張った陸は、心臓に触れる直前に苦しむように暴れ出すものを見て口を開いた。
「そこにいるのか?」
 思わず口をついた質問に陸はひどく後悔した。
「これは肉を寄せ集めただけの偽りの体。魂も命も、人の手によって作りだされた現存しないもの」
「でも、心はそこにあるんだろ!? 偽物じゃなくて、ちゃんとした思いが」
 叫んだ直後、肉の塊は腕の形へと変化して向きを変え陸へ伸ばされる。限界まで伸びた腕はそこで一度止まり、鈍い音とともに曲がり、不自然な間接を瞬時に成形して人体では考えられない長さとなって陸に向かった。反射的に陸が身をひくと、腐敗した腕は球体に触れる直前でぴたりと停止した。
「心があるからこそ、この肉の器は統率される」
「貴様……!!」
 淡々とした声を打ち消すかのごとく響く罵声は、同じ腐肉から漏れていた。肩らしい場所が盛り上がって頭部になると、すぐにそれは体内に引き込まれて消える。
 意識があるのだ。肉塊に取り込まれたオデオ神は、まだその意志を持ち続けて暴れている。
 不快な音をたてる腕が目の前で形を変えてもがくのを見て、陸はそう判断した。抑えているのは、肉体の持ち主であった少女――。
「どうして……」
 そこまで、必死になるのか。神を降ろすためだけに創られた少女は、森の中で殺されそうになったところを陸が助けたのだ。悪戯に生み出し、不要となれば迷いなく消そうとしたこの世界は、果たして彼女にとって守る価値のあるものだったのか。
 こんな苦痛に直面し、それでも戦う意味などないはずだった。
「誰でもない、あなたがいたからです」
「オレ?」
 陸は礎の女神の言葉を茫然と繰り返す。人の形を取り始めた腐肉は頷き、空を仰いで吐息をついた。
「帰りなさい、もといた世界に。あなたたちはここには存在しなかった」
 告げられる言葉に陸はぎょっとする。こんな状況で帰れるはずがない。古代樹が世界を覆った上に大地は水没したまま、さらに仲間はかろうじて生きているという状況の者ばかりなのだ。自分たちだけが安全な場所に送り返されるなどあまりに都合がよすぎる。
 それに要は、もう以前の姿など想像できないほどに崩れていた。
「こんな状態で」
 怒鳴った陸を静かに見つめ、腐肉は翼を大きく広げると自らの体を包み込んだ。
「古代樹が成すのは大地の再生、神が成すのは世界の創造、――人の、再構築。それは決して許されることのない大罪」
「セラフィ!!」
「帰りなさい。この世界に、キメラなど存在しなかったのですよ」
「待て、どういう意味だ!? セラフィ……!!」
 耳の奥で雑音がする。ひどい頭痛にこめかみを押さえた陸は、一瞬伏せた顔を慌てて上げた。
 浮遊する球体の一つが淡く輝いている。それが要のいたものだと判断した直後、目の前が暗転した。

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