act.98  軽い


 地上にいるあらゆる生き物はその瞬間、体勢を崩して立ち止まった。いまだかつてないほどの規模で起きた直下型の揺れは、多くの命をなんの躊躇いもなく奪っていった。
「くそ」
 剣を深々と大地に突きたて揺れをしのいだクラウスとトゥエルは、一瞬だけ視線を交わし、揺れが治まったと同時に剣を握りなおした。体勢を崩したのはなにも人間ばかりではない。巨体の下敷きになった魔獣の中には絶命した物も多く、二人は倒れこむ魔獣、あるいは立ち上がろうとする魔獣を次々と剣でなぎ倒していった。
 大物を何匹か倒すとさすがに形勢不利を悟ったのか、魔獣たちが次々と赤泉から離れ森の中へ逃げていく。残った魔獣を一掃するのは意外に簡単で、接戦を強いられると覚悟していた二人は拍子抜けしたほどだった。
 立ち尽くす彼らは地中から伝わる地響きに息を呑んだ。
「地震か?」
「フロリアム大陸はもっとも安定した大地だ。地震など――いや、あれか」
 トゥエルの言葉にクラウスは深く頷く。巨大な水柱が立ち上がったと同時に雪がみぞれへと変わった。地鳴りを耳にした二人は互いの顔を見合わせて首をひねり赤泉を見る。
 轟音に別の音が混じり、大地が激しく揺れた。雪が完全に雨に取って代わると、戦闘で温まっていたはずの体が瞬時に凍えていく。
「寒中水泳など狂気の沙汰だな」
「高波に巻き込まれるか泉に入るかの違いだろう」
「高波とは、また洒落た名を知ってるな」
「子供のころに海で見た」
「そうか、王都は海から近かったな。オレもいろいろ旅はしたんだが、幸いそんな場面に遭遇することもなく言葉を使う機会すらなかった」
 クラウスは溜息を漏らした。
 背後に轟音を聞きながら、クラウスとトゥエルは呑気に言葉を交わし血で濡れた剣を鞘へと戻して体を反転させる。赤く染まった水は激しく波打ち、その震動が異様であることを伝えようとするかのごとく不自然な波紋がいくつもできあがっていく。
 中は危険だ。しかし、外にいることも危険に変わりない。続けざまにいくつも立つ水柱が世界の異変を報せ、森に住むであろう動物たちを混乱させる様は不吉な予想を裏付けるには充分だった。
「トゥエル」
「……なんだ」
「短剣は持っているか」
「ああ、一番斬れるのをな」
 旅人の多くは剣を持つ。それは便利がいいからに他ならないが、主に戦うために用いられる長剣とは違い、短剣はさまざまな意味を持つ。それは武器であり生活の糧であり、そして。
「そう心配するな。オデオ神の影響で痛みはさほどないし、手元が狂うことも考えられん。いざとなったら自分の始末くらい自分でなんとかする」
 なんでもないことのように告げるトゥエルをクラウスはひととき見つめ、何を言っても無駄とあきらめるなり短く息をついて足を踏み出した。そして、荒れる水面みなも》の直前で足を止め、互いに深く息を吸うなりほぼ同時にそこへ身を沈める。
 彼らは外気とは裏腹にあたたかい水に全身を包まれひどく混乱した。雪が降るほどの気温なら心臓にかかる負担は相当なはずだがそれもなく、さらに水を含んで重くなるであろう衣類すら平時のままなのだ。
「どうなってるんだ」
「これは……?」
 苦もなく呼吸できることを知ったクラウスがトゥエルに視線をやると、彼も釈然としない顔で首をひねっていた。
「無事か?」
「……たぶんな。さすがに痛みはひどいが」
 こめかみを押さえたトゥエルはきつく眉根を寄せて答える。先刻よりさらに土気色になった横顔はとても無事とは思えなかったが、クラウスは止めることがいかに無駄であるかを悟って辺りを見渡した。地上から見たときは赤く濁って見通しが悪かった水中は、思いのほか見通しがきき、間近にいるトゥエルの表情もよくわかる。
 さてどうしたものかと考えていると、足下から揺らめきながら気泡が上がってきて二人の間を通り過ぎていった。
 その時になって彼らはようやく外の轟音が途切れていることに気づく。あれほどの混乱があるにもかかわらず、まるで無音なのだ。外では今も水柱が上がり、冷え切った水が大地を覆うために流れているだろうに、見上げれば水面は相変わらず波打っているばかりだ。
「……下、だな」
「ああ、行くぞ」
 外の異常など感じさせないほどの静寂に二人は一瞬だけ躊躇い、意を決して足元を睨んだ。


 陸はただ呆然と目の前の光景を見つめていた。毒を取り出そうともがくモノは瞬く間に肥大して原型を失って崩れ、深紅に染まる水をいっそう赤く染めていく。
「……駄目だ」
 依代が――幼なじみの、要の体がみるみる崩れていく。これは夢だ、いやきっと悪夢に違いない。今まで一度として聞いたことのない咆哮が要の口から漏れ、それを見つめた陸は指一本動かすことができなかった。
 毒を抜けば助かるのかを問われたら、答えは「否」だ。この状態で助かったとして、その後、どうすればいいというのだろう。予想をはるかに超える速度で崩れ腐敗する体が赤泉の影響を強く受けていると気づいたときにはもう手遅れだった。
「要……!!」
 そこにはまだオデオ神がいると理解しながら、うねる臓器の床をのたうち回る幼なじみに手を伸ばすと、唐突に陸の体は何かに絡め取られたかのように動かなくなった。己の意志とは関係のない場所で何かがうごめくのを感じ、張りつめた神経を逆撫でする。
「邪魔するな、アルバ」
 悲鳴に近い訴えに、否、と返事が来る。これが最良の道だと、陸の体内に宿る神は冷淡に告げた。
「どこが最良だ! このままじゃ要が……」
 失敗する可能性は確かに高かったが、こんな風に何もできずに終わるなど考えもしなかった。ラビアンがつむぐ歌声に絶叫が混じるのを聞き、陸は決死の思いで腕を持ち上げる。だがやはり、体が思うように動かない。やがてうめき声が途切れ途切れになったころ、視界に異質なものが映り込んでとっさに視線を上げた。
「ココロ!」
 そうだ、彼女がいた――安堵とともにそう思った陸は、腐肉の間から血走った目でじっと状況を見守るその姿にひどい違和感を覚えて言葉を呑み込んだ。あれほどまでにまっすぐに澄んだ瞳は、どこか冷徹な光を宿したままオデオ神に憑かれ苦しむ要を観察している。
 感情が読めない。それが胸騒ぎを呼んだ。
「どう……?」
 問うた直後、別の気配が動く。視線だけを向けると地上に残してきたはずのクラウスの姿が、さらに安全な場所にのが》れたはずのトゥエルの姿まであった。赤泉の水は有毒だ。人が触れればそれが健常者であろうと必ずどこかに異常が現われる。たとえ見た目には変化がなくとも、その内部は確実に毒に蝕まれていくだろう。平然としているのは、神経が一時的に麻痺しているからだ。いずれ感覚が戻れば、苦痛は際限なく生まれるに違いない。
 アルバ神に守られようやく均衡を保つ体を持っていた陸は、焦燥感にさいなまれてうめいていた。
 神には多様な力がある。だがそれはあまりに不安定な力で、うまく使いこなすことすらできなかった。
「ラビアン」
 怒号が響いたのはトゥエルの視線が少女を捉えた瞬間だった。降下した彼は、水底を埋める臓器がラビアンの下腹部からあふれ出していることに気づいて悲痛に顔を歪めた。生きていられる状況ではないはずなのに、少女は無心に子守唄を歌っている。
 トゥエルは愕然としてラビアンを抱きしめた。
「なんだこれは!?」
 悲鳴に少女の表情が動く。ふっとトゥエルを見上げ、彼女はわずかに口を動かす。
「遅かったじゃないか。待ちくたびれた」
 焦点の合わない瞳で、それでも彼女は彼を見て微笑んでいる。白銀の髪が深紅の水に流れてゆらりと揺れた。力なく文句を言ったあと安心するかのようにゆっくりと閉じていく真紅の瞳を見て、トゥエルは唇を切れるほど噛みしめ短剣を手にし、その剣先を彼女の胸に向けて角度を確認した。
「何をする気だ!? お前はこの娘を救うために来たのだろう!」
「止めるな。これで生かせば、地獄だ」
 あまりの光景に放心していたクラウスが顔色を変えて手を伸ばすと、トゥエルはその手を邪険に振り払い、しっかりとラビアンを抱きしめて額に口づけた。
「別に寂しくないだろう? オレもともに逝く」
 何も答えず笑みだけを浮かべる少女の額に自分のものをあて、彼はクラウスが止めるのも聞かず、ゆっくりと短剣を白い肢体へと沈め、引き下ろす。
 ああ、やっぱり悪夢かと、陸は納得した。動かない体、原型をなくし崩れる友人、腐肉と化したキメラの少女、死を望む男女、そしてそれを止めることすらできずに見守る男――これを悪夢と呼ばずしてなんと言うのか。
 濃い赤の中から何かがこぼれ落ち、臓物の床に落ちる。脈打つそれが礎の女神の心臓だとわかった瞬間、呪を体内から抜き出そうと床を転げ回っていたオデオ神が身を起こし、懸命に手を伸ばした。だが、崩れた体は彼の意には従わず、心臓には届かない。要の体であったものの一部がずるりと盛り上がり、腕の途中からさらに腕が伸び、顔らしき球体ができると肩が現われ、さらに腕が伸びた。
――まだあがくか、オデオよ。
 淡々とした声は陸の頭蓋で響いた。生に固執するその姿に恐怖すら覚えた陸とは反対に、アルバ神は苛立って足を踏み出す。
 今度こそとどめを刺す気なのだと感じ取った陸は必死で抵抗したが、アルバ神の支配下にある体は陸の意志をくみ取ることなく動いている。
「この時を待っていました」
 焦り錯乱する陸の耳にこの場の空気に似つかわしくない柔らかな声音が届いた直後、少し離れた位置にあった腐肉が不快な音をたてながら割れ、瞬時にいびつな翼を形作った。翼がひとつ羽ばたくと、その体は礎の女神の心臓を手にしたオデオ神へと到達し、その腕ごと神≠もぎ取ってもがくそれを翼で包み込む。
「アルバ、ここに。――古代樹が目覚めました」
 優しげな言葉とともに開かれた血みどろの翼の内側に、すでにオデオ神の姿はなかった。ただ不自然な形で心臓だけが表皮に貼り付き鼓動している。
――セラフィ。礎の女神、いったい何を考えている。
「四神が四肢へ、キメラが母体へ。心臓がそのすべてを繋げます」
――四神?
いにしえ》の神、破壊神、礎の女神、そして、あなたが」
 奇妙な言葉を並べる腐肉に、陸は――陸の体にいるアルバ神は何かを思い当たったのか納得し、意外なほどあっさりと陸の体から離れていった。途端に息苦しさを感じたものの、陸は転がるように駆けだして要の元まで行き、崩れる体を抱き起こして強く揺さぶった。
「要! おい、わかるか!? 要……っ」
 どこに触れても体がぬめる。痛みを訴えてこないのは、要にはすでに意識がないこと、あるいはそれを伝えられる状況でないことの現われだ。だが、アルバ神の力がなくては要の体から毒を抜くことができない。毒を抜いても、これほど崩れた体を再生させることなど今のアルバ神にできるはずがない。
「要」
 かすかに聞こえる呼吸音は苦しげだった。気道がうまく確保できないのではないかと思ったが、どうしてやることもできなかった。
「ごめん」
 こんなはずじゃなかった。もっと何もかもうまくいくと、愚かにも考えてしまったのだ。失われた体の一部から吹き出した赤黒い血は水に混じって広がっていく。陸は両手で傷口を押さえてなんとか止血しようとしたが、もぎ取られた肉の量が多すぎ思うようにいかない。服を脱いで傷口を押さえても、水が邪魔をして止血ができなかった。
「要、しっかりしろ。……頼む、こんなのは嫌だ」
 すがりついて奥歯を噛みしめ顔を伏せると、なんの前触れもなくふと体が軽くなった。
「これより先は」
 耳底に響く声とともに体が透明な球体に包まれて浮き上がる。不安定に傾いた体を慌てて起こした陸は、要の姿がないことに気づいて血相を変え、自分ばかりが球体に取り込まれたわけでないと知る。
 赤泉の中には球体が五つ――中には、陸、クラウス、トゥエル、ラビアン、そして要の姿があった。
「止血、しないと……要!!」
 強く叩いたが球体が壊れる様子はない。状況を把握したクラウスとトゥエルがそれぞれ剣を球体に振り下ろしたが、まるで歯が立たなかった。それどころか、出ようと懸命になっていた彼らもやがて球体の中でぐったりとしていった。
「クラウス、どうしたんだ!? 起きろ! 頼むから、もう」
 わけがわからなかった。絶叫しても声が相手に届いているという気がしなかった。ただがむしゃらに球体を叩いていた陸は、前触れなく全身の力が抜けていく感覚に身震いし、原因をさぐろうと視線をめぐらせた。
 アルバ神を受け入れた腐肉が閉じ、再びゆっくりとその翼を開いていくのが見える。
「これより先は神の領域――最後の創世を」

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