act.100  終わり


 純白のドレスをまとった女は、窓辺に置かれた椅子に腰かけ青く澄んだ空を見上げてほっと息をついた。
「晴れたな」
 かたわらにやってきた男が声をかけると、彼女はちらとその横顔を見つめて真剣な表情になる。
「昨日までよく降ってたのに」
「この時期は仕方ない。門出に晴れてよかったじゃないか。……不満なのか」
「いいえ、不満と言えば……クラウス様、本当に後悔はありませんか」
「なにが」
「……私と結婚することが、です」
「いまさらそれを訊くな。お前こそ、オレが王位継承権を捨ててカルバトス家に入るのに不満はないか」
「どうして私が」
「王妃になり損ねた」
「第四王子にそんなたいそうなものは求めてません」
「……お前はときどき遠慮がないな」
 渋い顔をしたクラウスを見て、リスティはちいさく笑う。そして純白のドレスの裾をそっとつまんで立ち上がった。
「そういえば、トムとジョニーは?」
「なんだ、聞いてないのか? ニュードルの使者として王都ルーゼンベルグに出向いてるぞ」
「……あの二人が、使者?」
「親善大使だ。従者が出世したものだな」
「どうして王都へ」
「婚礼の儀に、祝辞を述べに」
「ああ、ルーゼンベルグ王の成婚の……それは大役ですね」
 意外そうに口にして、それからリスティは破顔した。
 白塗りの建物は、二人の登場をいまやおそしと待ちうける人々で埋まっている。いくら王位継承権を破棄したとはいえ、クラウスが王族の血を引く者であることは間違いない。クラウスが隣の建物からさまざまな思惑で集まってきた者を一瞥して眉根を寄せると、それに気づかないリスティは柔らかな笑みを浮かべて彼を見上げた。
「でもきっと、あの二人なら大丈夫」
 慶事に素直な喜びを示すリスティを見て、クラウスもふと息をついて肩の力を抜いた。
「今日くらい、しがらみを捨てるか」
「そうなさってください」
 笑みを浮かべる彼女に彼は手を差し出した。


 絢爛豪華な部屋の中央で、絢爛豪華な椅子に腰かけ、絢爛豪華なカップを前に石のように固まった二人はぎこちなく顔を上げた。
「な、なあトム、オレってなんでここにいるんだ?」
「そりゃお前、親善大使様だからじゃねーか」
「なんで親善大使様なんだ」
「んなこたぁ、自分の胸に訊け」
 トムの返答にジョニーは青ざめたまま震える手を胸に当てて大げさに溜息をついた。
「だってよ、あれじゃねーか。オレたちゃ死んでなかったか」
「まああの高さから落ちりゃ死ぬわな」
「オレ、首の骨、折れてたんだけどさ」
「安心しろ、オレもだ」
「生きてたんだなー」
「いやお前、首の骨折ったならそこは大人しく死んどけや」
「でも生きてるしよ?」
「……さすがに神様はやることがでかいな」
 トムがうめくとジョニーはもう一度溜息をついた。
「なあ、どうなってるんだ? 大地が水没して古代樹が目覚めて、台座のあるところから落ちて?」
「……ジョニー、お前意外と覚えてるんだな」
「忘れるわけねぇだろ」
「覚えてるのは、オレたちだけだ」
 神妙な顔でトムが言うと、ジョニーは項垂れてまた溜息をつく。ときおり記憶が交錯する。それは、いままで平和に暮らしてきた記憶とはまったく別の、ひどく陰惨とした終焉の記憶だ。世界を守ろうとする神がいて、神獣になろうと目論む魔獣がいて、世界を滅ぼそうとする神がいた、誰に言っても一笑されるに違いない夢物語だ。
 クラウスの従者だった二人は、望まずしてその争いに巻き込まれていったはずだ。こんな穏やかな生活など望むことすらできなかった。
 だが平穏は目の前にある。トムは舌打ちして肩をすくめた。
「おおかた、世界を造りかえるついでに、人の記憶も造りかえたんだろうな」
「でもそんなこと」
「記憶があるか? 神は何人いた?」
「え……?」
「オデオ神は、いにしえの神を食ってたんだぜ」
「古の神って」
「リンゴ畑の老人」
「……え?」
「それに、アルバ神と礎の女神が加わった。合計四人。これがココロへ……依代へ降りれば最高の異端児の誕生だ。無茶しやがる」
 たたき込まれた別の記憶を口にして、トムは乱暴にカップを手にすると冷め切った茶を一息に飲み干した。
「だけどよお、もうココロはいねぇじゃねえか」
「ココロどころか、不要なものは全部片付けやがった。知ってるか? この世界のキメラに人の形をしたものはいねぇ。ココロははじめから存在しないって寸法だ」
「はじめから?」
「そうだ。いないと思わせる。金輪際、神を降ろすなんてバカなことを考えさせないように、存在自体消しやがった」
「そんなのひでぇじゃねぇか!?」
「次善の策だ。気にくわねえけどな」
 苦々しく口にするトムの横顔を見て、ジョニーは肩を落とした。ただ好きな相手に会いたいがために必死になった少女――まっさらで優しい無垢なる命は、世界を救うための犠牲になってしまったのだ。
「犠牲はそればかりじゃねぇ。あの争いで死んだヤツ、あの天災で命を落としたヤツもなんかの形で死んでる。オレたちゃ死にかけたところを運良く助けられたってだけの話だ」
「……そう、だな。でもよ、悪いことばっかじゃねえよな?」
「ん?」
「クラウス様とリスティ様」
「ああ。……あれも奇妙な星の巡り合わせだな」
 組み変わる記憶の先を見て、トムは複雑な表情になる。城一番の嫌われ者の小姑王子は、美しいものが大好きな変わり種と旅をして、とある秘密を知って一見少年≠セった相手と結婚を決意したというのだ。
「いやまさかああなるとは思わなかった」
 クラウスが王位継承権を捨てたのも意外だったが、見る見る女らしくなっていくリスティにも舌を巻いた。本日めでたく夫婦の契りを交わすというその晴れ舞台に立ち合えないのが心残りでならない。
「幸せならいいんだけどよ」
「しかし、なんでオレたちニュードルのクラウス様の元じゃなくて王都にいるんだろうな」
「だから親善大使に任命されて」
「それっておかしくないか? 大抜擢だって城中大騒ぎだったろ」
「……そういやそうだな。でもアレだ。王都の新国王の……なんだっけ」
「半裸のエリオット」
 妙なところに力を入れるジョニーに、トムは深く頷く。奇獣に乗った半裸男のエリオットが王族の血を引くと知ったときには本当に驚いたものだ。それがいまでは王位を継承して国王になり、さらに妻をめとって結婚するという。世の中わからないものだなと、トムは顎に手をやった。
「そうそう、半裸のエリオットをニュードルに連れてったのがオレたちで、末姫を紹介するツテができて……おいちょっと待て、これはあっちの記憶じゃねぇか?」
「そうなんだよ。こっちではオレたち面識ないはずなんだ」
「……って、まさか国王陛下も」
「……いやまさか」
「まさかな」
 顔を見合わせ乾いた笑いを繰り返しながら、巨万の富を誇るニュードル国王ジル・ヴァルマーの顔と意味深な笑みを思い出して頭を抱えた。あの記憶を持ちながらも平時と変わらぬ態度で過ごすのは、もはや人間業とは思えない。
「オレは一生国王陛下にお仕えする」
「お、オレも!」
 どうにも似合わない派手な衣装に眉をしかめながらトムが立ち上がると、ジョニーもその後に続いて立ち上がり、ドアに向かった。
 そろそろ婚礼の儀がはじまる時間だ。過去に一度も体験したことのない重責に足どころか声も震えそうだと思ったトムは、気を紛らわせるために自分以上に緊張してぎこちない動きをする相棒を見た。
「そういえば、王都の前国王はバルトにいるらしいぞ」
「バルト?」
「静養してるって話だ。……今度、会いにいってみたいな」
「そうだな」
 廊下の左右に整列する騎士団を恐縮しながら眺めて二人は頷きあう。美しく着飾った侍女が待ち受けるドアの前に立ち、大きく息を吸った。


 強い風に肩をすくめ、ラビアンは白銀の髪をかきあげる。
「いかん、意外と寒い」
 両手に毛布を抱えて緩やかな坂を登り切ると、そこには椅子が二脚置いてあり、褐色の肌の男がそのひとつに腰かけている。慌てて駆け寄ると、彼は体をひねってラビアンを見た。
 場所はバルト国首都、その全貌が一見できる小高い丘の上。
「走るな」
 トゥエルは駆け寄るラビアンに短く命じた。
「冷えるだろ」
「オレのことはいい」
「療養している男が体調を崩したら意味がない」
「今日はだいぶ体調がいいんだ」
 トゥエルの言葉にラビアンは笑む。毛布を広げて彼の体を包んだ彼女は彼が見つめる方角を指さして口を開いた。
「あっちだろ、王都があるのは」
 延々と続く樹林のはるか向こうには、過去に王都と呼ばれ栄えた国がある。ラビアンは無反応なトゥエルを見て言葉を続けた。
「今日が婚礼の儀とか。……お前、帰らなくてよかったのか?」
「疲れる」
「ひどい言いぐさだな」
「エリオットならいい国を作ってくれだろうし、王位を退いた者が首を突っ込んで引っかき回すのは本意ではない。祝辞だけを届けさせた」
「……伝えなくてよかったのか」
「なにを?」
「子供のこと」
 緊張に硬くなる声に、トゥエルは微苦笑して手を伸ばした。
「国はエリオットに任せたと言ってるんだ。あれも王家の血を継いでいる」
「しかし、正当な継承者はここに」
「それはバルトの王位継承者でもあるんだぞ。――オレはここで、お前とわが子とともにのんびり暮らすんだ」
「短い生涯だな」
 腹部に触れる手をそっと押さえながらラビアンがしみじみ言うのを聞いて、トゥエルは眉根を寄せて顔を上げた。
「おい、勝手に殺すな」
「いま死ぬ気で言ってなかったか」
「だからって短いと決めるな。今日は体調がいいと言ってるだろうが」
 毒づくトゥエルの顔を見てラビアンが笑う。それからふっと表情を消してどこか遠くを見つめるような表情で森を見渡した。
「ときどきな、嫌な夢を見ることがあるんだ」
「夢?」
「私がひどい怪我を負って、お前が泣く夢」
 不安に揺れる瞳で告げるラビアンに、トゥエルは引っ込めた手をもう一度伸ばした。
「夢だろ」
「……ああ、夢なんだけどな。……生々しくて、どれが現実なのか、わからなくなる」
「夢だ、忘れろ。キメラのことも、神のことも、創世のことも、あの悪夢も」
「トゥエル?」
「全部夢だ。お前の分も、オレが覚えておく」
 不安がる子供をあやすようにトゥエルがラビアンの体を抱きしめると、何か奇妙な感触があった。なんだと尋ねると、彼女は曖昧に返事をしながら小さな長方形の物体を取り出した。
「城に置いてあったんだ。……これは何かな」
 ぎょっとするトゥエルには気づかずラビアンがいじると、ぱっくりとそれ≠ェ二つに割れ開く。
「たくさん押す場所があるんだが、使い方がよくわからん」
「それは……っ」
「あ、明るくなった。おお、何か見えるぞ」
 心細げにしていたラビアンは手の中のものの変化に驚き、そしてあっという間にはしゃぎ出す。それ≠ヘ不思議なことに、目の前の光景を忠実に映し出しているのだ。トゥエルへ向けると彼が、空へ向けると空が、森へ向けると森が見える。最後にようやく完成したばかりのバルト城に向けてそれ≠かまえ何気なく彼女が指を動かすと、それ≠ゥら不可解な音がした。慌てた彼女が壊れたのかと叫びながらいじっている間にさらに妙な音が響く。
「あ、暗くなった」
 両手でしっかり握って確認したが、それ≠ヘもう何も映すことなく真っ黒になってしまった。振っても叩いてもひねってもそれ以上反応がなく、ラビアンはそれ≠陽の光にかざす。
「なんだ、もう終わりか」
 がっくりしてトゥエルを見ると、彼は何をしたかったのか片手を上げたままの姿で硬直していた。
「どうした?」
「あ……いや。まあ、いいんじゃなか」
「なんのことだ?」
「なんでもない」
 ラビアンの質問に困惑する彼はそれ以上なにも言おうとしなかった。少し不思議に思ったものの、ラビアンはあえて問い詰めずに彼の隣に腰を下ろす。
 伸びてきた手が彼女のそれを掴む。
 ラビアンもしっかりと握りかえし、瞳を閉じた。


 目を開けたとき、見慣れない天井が視界いっぱいに広がっていて、陸は状況を理解するのにしばらく時間が必要だった。
 視線をめぐらせ室内を確認し、なぜか安堵と同時に胸の奥をかき乱されるような違和感を覚えて息を呑む。
「起きたか?」
 聞き馴染んだ幼なじみの声に陸がはっとして隣を見ると、自分が寝ているベッドと同じ作りをしたそれの上に、要が体を横たえていた。
「あ、おはよう」
 間の抜けた言葉を口にすると、唐突に泣きたいような気持ちになった。陸は慌てて視線を逸らし、混乱したままもう一度天井を見た。
「ここ、どこだ?」
「市民病院」
「……なんでそんなとこに……オレたち、学校に行く途中で」
 言ったあと、陸は陸橋から落ちたことを思い出して首をひねった。
「落ちたよな?」
 思わず確認すると、だからこんな所にいるんじゃないのか、と要の不機嫌な声が返ってきた。確かにその通りだ。自転車に二人乗りしたまま高さが十メートルはゆうにある陸橋から落ちたなら、当然のごとく怪我をしているはずだ。だから病院に運ばれ、ベッドで寝ているのだろう。
 しかし、これといって痛みがなかった。
「……落ちたよなぁ……」
 体をさすりながら陸は同じ言葉を繰り返す。なにか釈然としない。不安に駆られてうなっていると、軽い電子音が室内に響いて陸は飛び上がるほど驚き、起き上がって使い込まれたサイドテーブルを見た。
 そこには携帯電話が一台、メールの着信を報せるランプをつけていた。
「あれ? 病院って携帯いいっけ?」
 思わず問いかけると、要が身を乗り出してそれを手にする。携帯を開いて眉をしかめ、陸の顔を盗み見てもう一度画面を見た。
「……お前のだ」
「オレの?」
「オレからメールが来てる」
「え? いや、要そこにいるじゃん。なんでお前からメールが来るんだ」
 陸と要はわりと趣味が似ていて、携帯電話も意図せず同じ機種を持っていた。しかも待ち受け画面も同じという状況で、友人からは気味悪がられることすらある。持ち主ですらときどき間違える携帯電話をまじまじと眺めていた要が奇妙な表情のままそれを突き出し、陸が受け取るためにベッドから身を乗り出すと、病室のドアが開いて荷物を抱えた陸の母、菜穂が姿を現わした。
「陸! あんた起きたの!? 要くんも!」
 どすどすと巨体を揺らして突入してきた母の剣幕に驚き、陸は要から携帯電話を受け取って背筋を伸ばした。
「お、おはよー?」
「おはようじゃないわよ! 三日も眠ったままで、このお馬鹿!!」
 振り上げられた肉厚の手に陸が顔を引きつらせると、その手を後ろからやんわり押さえるもう一人の女の姿があった。いかにも肝っ玉母ちゃん然とする菜穂とは打って変わって、上品な容姿と華やかな美貌を手にした花束でいっそう際だたせた女は、要の母親である祥子だ。
「菜穂、一応入院中よ、顔はまずいわ。やるならボディ」
「そうね、祥子!」
「ええええー!? そうなるの!? なんで!? 止めてくれないの!?」
 お隣の奥様と実母の相変わらずの会話を聞いて内心安堵しつつ、陸はメールを確認するのも忘れて悲壮に叫んだ。
「ウチの息子に怪我させたら責任とらせるって言ってなかったかしら?」
「き、聞きました」
 祥子は息子である要に甘い。いっしょにいようがいまいが、陸がどんな怪我を負っていようがいまいが、とにかく要に怪我の一つでも負わせようものなら烈火のごとく怒るのだ。鬼気迫るその姿が恐ろしいので、気づけば陸は、体をはって要を守るようになっていた。
 もっとも、進んで前に出たほうが自分自身も楽というのもある。
「母さん、オレ、別に怪我してないみたいだけど」
「そんなこと言ってねー自転車の運転誤って陸橋からダイブしたって言うじゃないの。下手したら死んでたのよ」
「……そんな状況?」
「奇跡的に大事には至らなかったけど、もうご近所中で大騒ぎ」
 祥子は手にした荷物を椅子の上に置き、花束だけをかかえて緊急連絡用のボタンを押した。すぐにスピーカーから聞こえてきた看護師の声に「三○五号室の大海陸と暮坂要、目覚めました」と告げる。
「様子はどうですか? 気分が悪いということは?」
「大丈夫みたいです」
「先生が回診中なので、終わり次第病室に行きます」
「お願いします」
 短いやりとりのあと通話が終わる。ふっと息をついた祥子が菜穂を見ると、彼女は窓辺にたたんであった新聞を手にしてそれを広げ、三面を陸たちに見せてその一部を指さした。
 紙面には、「奇跡の生還」と小さな見出しの記事がある。名こそ明かされていないが、高さ十五メートルの陸橋から少年二人が落ちたこと、自転車は大破したものの怪我一つなく助かったことが記されていた。
「記事には載ってないけどね、辺り一面、鳥の羽が散らばってたって。どっかでハトでも助けて恩返しされたのかって、無事を確認するなりからかわれて大変だったんだから」
 菜穂は苦笑して告げる。胸の奥が小さく痛み、陸は違和感に驚いてそこを押さえながら紙面を凝視した。
「羽って、白い……?」
 無意識に問いかけると、菜穂が鞄をさぐって真っ白な羽を取り出し新聞の上に乗せた。
「記念にひとつもらっといた。家に帰ったらたっぷり説教するから覚悟しなさい」
 羽を見つめたまま大きく肩を震わせる陸に気づかず彼の母は祥子へ向き直る。
「お花、花瓶に生けましょ」
「そうね、喉か湧いたから何か買ってこようかしら。あ、あんたたちは先生の許可がおりてからね。それから要、携帯電話どうしたの?」
「携帯?」
「所持物確認のとき、鞄の中になかったのよ。家にもなかったし」
「……制服のポケットに……」
「じゃあ陸橋から落ちたときになくしたのかしら。一応警察に連絡しとかなきゃ。あ、この部屋携帯使えるらしいから、急用があったら電話して。それじゃ」
 てきぱきと指示をだした祥子は、そのまま菜穂といっしょに病室を出て行った。
「……携帯、なくした? 違うだろ、あれは……あれは、あいつらに」
 言った直後、要は閃く記憶に混乱し、体を起こして口を押さえた。
「そうだ、あれは、トゥエルたちが持って……陸!!」
「キメラは、もうあの世界にいない。創世が終わったんだ。全部、何もかも都合よく白紙に戻して、だから、――でも」
 純白の羽は、過去に一度、陸が手にしたものにひどくよく似ていた。
「ココロ」
 どうしてこんなになってまで助けてくれるのだろう。過去に礎の女神は、不安定な大地をささえる古代樹を安定させるために自らの四肢を砕いたのだ。世界が造りかえられたなら、神々を降ろす器に使われたココロの肉体も同じ末路をたどったのに違いない。
 その直前で、彼女は異界の人間を送り届けてくれたのだ。怪我のないよう細心の注意を払い、こうして無事に。
「陸……」
「なんでお前ばっかり、こんな」
 あの役は、ココロが背負う必要のないものだった。陸も同じ依代としてあの場にいたのだから、身代わりにして逃げることもできたはずだ。それなのに彼女は最後の最後まで、陸を守ったのだ。
 そうして残されたのが羽一本だなんて、あまりにも悲しすぎる。
 陸は羽を両手で包み、声もなく項垂れる。感謝も謝罪の言葉もいまは何も出てこなかった。ただ後悔ばかりが胸を占める。
「陸」
 ベッドから降りた要はそっと陸の背に手を乗せ、そして、息を呑んだ。
「陸、おいあれ」
 強く背を押す手に顔を上げた陸は、要がベッドに置かれたままの携帯電話を凝視しているのに気づいて手を伸ばした。受信をしらせるメッセージが表示された画面は一瞬白くなり、次の瞬間、深緑の中に沈む城の写真を表示した。
「バルト城だ。――完成、してる」
 過去に二人が見た類を見ない規模の石造りの建造物は、その一部が大きくえぐれ、周りに切り抜いて整えられただけの石が転がっているような状況だった。いくら技術が優れていたと仮定しても、建物自体は大きな石を慎重に組み合わせて造っていくものなのだから、寝込んでいる三日で完工できるとは思えない。
「時間の流れが違うのかもしれない」
 力ない陸の声に、要は押し黙る。一人の力ではどうにもならなくても、それが四人集まれば、そして意に沿う体が手に入れば状況は変わってくるだろう。どんなに信憑性がなくてもその片鱗を目の当たりにしていた二人は、強く否定もできずに同時に深く息をついた。
「要、これって待ち受け画面に似てないか」
 ふと思い立った陸が画面を切り替えると、すぐに同じ光景が映し出される。添付された画像ほど鮮明ではないが、確かに待ち受け画面としてダウンロードしたものはひどくよく似ていた。
「本当だ。加工してないんだ、この画像。じゃあ、あれを加工したのは? ――写真撮ったの誰だ?」
「あの世界の、誰か」
 記憶にしかないの地のできごとが、こうしてこの世界に繋がってくる。携帯電話に純白の羽をそえ、陸は瞳を伏せた。
「要、パソコン使えるよな?」
「ああ」
「じゃあ帰ったらこの画像、待ち受けに加工しよう。ダウンロードしたヤツと同じように。それで」
「同じサイトに登録する?」
「……バカなヤツだと思ってるだろ」
「いいんじゃないのか」
「きっかけになるかもしれない」
「過去のオレたちが使うとでも?」
「可能性はゼロじゃない。これが本当に元の写真なら、過去にオレたちが見たのはいまここにあるものってことになる。この世界のどこかがあっちに繋がってたら、時間だって」
「――次は死ぬかもしれない」
 抑揚なく告げる要の声に赤泉でのことを思い出し、陸はとっさに顔を上げた。何か一つでも欠けてしまったら、要はあのまま死んでいたかもしれない。繰り返される過去が同じだという保証がないことに気づいた陸が青ざめると、要は手を広げてその顔面を掴んだ。
「本気にするな、ばか」
「だ、だけど!!」
「オレたち以外が行くよりいい」
 指の隙間から見た要の顔には、感心するくらい迷いのない表情がある。浮きかけた腰をすとんと落とし、陸は嘆息した。離れていく手を見つめ、それからもう一度携帯電話を見た。
「データどうやってパソコンに移動させるんだ?」
「メール添付」
「あ、そっか。……なんか悔しいな。過去の自分に記憶がないってのも」
「バカなこと考えるなよ」
「わかってるよ」
 ベッドに腰かけた要を見て、陸はぶっきらぼうに答える。画像にメッセージを隠すことは可能だろうが、それで過去が狂えば、現在いまがどう変化するかわからない。これ以上の犠牲を出すことはできないと、陸自身も痛いほどわかっていた。
「わかってるけど、やっぱり悔しい」
 携帯電話をベッドに置き、陸は羽を両手に包み込んでつぶやいた。
 それから丸一日は検査に費やされ、二人が自宅に帰ったのは翌日の昼近くになっていた。帰宅途中で母親二人と食事をとった陸は、その日も学校を休んで要の家に上がり込み、メールアドレスを聞いてバルト城の写真を添付してパソコンへ送った。
「加工できるんだー」
「……そのつもりだったんだろうが」
「うん、そのつもりだったけど本当にできるとは思わなかった。すげーな。このソフトどうしたの?」
「スキャナー買ったらついてきた」
「ふーん。使える?」
「適当」
「……ふーん」
 鮮やかな画面を眺め、陸は携帯電話を開く。要の電話は異世界に置いてきてしまったので、彼のものは後日購入するという話になっていた。
 慣れないソフトというのは、当然のことながら簡単に操作できるものではない。何度も画像を加工しては修正し、新しく開き直して編集し、消したり貼ったりしているうちに面倒くさくなってくる。途中から完全に携帯電話の画像そっちのけで編集しはじめた要の姿を見て、やっぱり同じ画像はできないんじゃないかと不安になってくる。
「オレがやろうか?」
「お前に触らせたら壊れる」
「……否定はしないけど」
「あ、こんな感じじゃないか? 全体的にもう少し暗くして」
 マウスを操作していた要がパソコン画面を指さすと、確かに待ち受け画面と似た色彩になった。
「いま拡大してるからちょっと待て。……ほら、こんな感じ」
 粗い画像が縮小され改めて表示されるのを見て陸の口から感嘆の声が漏れる。慌てて携帯電話をパソコンに並べ、彼は息を呑んだ。
 大深緑の中に沈む城は輪郭をわずかに崩しながら風景に溶け込み、全体的にどこか排他的な雰囲気をただよわせている。それに合わせて彩度を落とした空が全体をまとめる様子は、真似して似せることができるレベルをはるかに超えていた。
 しかし、手にした携帯電話とパソコンの画面はまるで同じだ。
「ビンゴだな。ちょっと半信半疑だったけど、たぶん送れると思う」
「半信半疑って?」
「待ち受け画像をそのままパソコンに送ろうかって考えたりもしたんだ。でも、作れるかもって、思ったから。作れたら、たぶん、繋がる」
 そのままインターネットのブラウザを開き、要は隣からパソコンをのぞき込んでいる陸の顔を見た。そして少し考えてからキーワードを打ち込み、出てきたサイトの中でふと目についたものにカーソルを合わせる。
「これ? ケータイでもアクセスできるサイト」
「……どこでダウンロードしたか覚えてない」
「でも、ここだよな」
「うん、そこだと思う」
 短いやりとりですべてを決め、要は登録画面を開くと指示に従って文字を入力する。画像を選択して送信ボタンまでカーソルを持っていき、それからようやく一息ついた。
「やめるなら今だぞ」
「やめるなら、な。でもオレたちは何があってもあの世界へ行くんだ」
 要は陸の言葉を聞き、苦笑してから送信ボタンを押した。認証されたらしい音とともに画面が切り替わったその直後、締め切っていたはずの室内にあたたかな風が吹き、目の前が真っ白に焼けて二人は同時に目をつぶっていた。
――ありがとう、いまようやくひとつの輪ができあがりました。これであの世界が救われます。
 聞き覚えのある女の声は、頭の中に直接響いてくる奇妙なもの。本来なら不快に感じるだろうその現象に、陸は慌てて目を開き、そして部屋中に舞う純白の羽を見つめて息を呑んだ。
 柔らかく舞う羽の中に、淡く輝く女の姿がある。輪郭が崩れはっきりと確認できないにもかかわらず、不思議なほどその表情がよくわかる。
「せ……セラフィ!?」
 陸の声にふわりと微笑んだ女は、そっと胸元で手を合わせて瞳を閉じた。
――大切なものを届けにきました。これ≠ヘ、肉を寄せ集めただけの偽りの体を持つ者。魂も命も、人の手によって作りだされた現存しないもの――それでも。
 ゆるやかに手を開く。
――いいえ、だからこそ、その思いだけは一番会いたいと願った、あなたの元へ。
 白い手の内側に、丸くなって眠る少女の姿がある。礎の女神と同じく輪郭を崩す姿を陸が茫然と見つめると、彼女がもぞもぞと動いて体を起こし、眠そうに目をこすって辺りを見渡した。
「ココロ……?」
 声に反応し、光をまとう少女は首をひねる。そして、出会ったころそのままに小さな翼をばたつかせ、両手を伸ばして飛びついてきた。
――確かに届けましたよ。
 笑顔でそう告げ礎の女神が消えると、室内を舞っていた羽がゆったりと降りてきた。なかば茫然とそれを見上げ、陸はようやく視線を落とす。腕の中には空気に溶け、実態らしい実態もないココロが大きな目をまん丸くして陸を見つめている。
「……これって幽霊?」
「どうするんだ、それ」
「ど……どうするって」
 椅子に腰かけたまま無言で成り行きを見守っていた要が口を開くと、陸は途方に暮れて情けない表情のまま実に機嫌のいいココロを見た。確かに彼女の肉体は人工的に寄せ集めて作られたもので、今は大地をささえるために利用されている――とはいえ、これはあんまりな状況だ。
「どうしよう、要」
 なんとなく温もりを感じるものの実感できない陸が要に助けを求めると、彼は溜息をついて立ち上がった。
「依代になら降りられるんだろ? 少しくらい貸してやってもいい」
 要が告げると、ココロは意味がわからないのか陸と要の顔を交互に見て、頷かれてからようやく陸から離れて要に向かった。戸惑って立ち止まった少女の頭に要が手を乗せると彼女の体は霧散し、直後に彼が伏せがちにしていた顔を上げた。
「りく!」
 弾む声は確かに要のものだが明らかに声のトーンが違う。聞き慣れない口調にぎょっとした陸は、勢いよく飛びつかれて上体を崩し、ベッドに足を取られてそのままそこへ倒れ込んだ。
「りく、りくー!!」
「聞こえてる聞こえてる」
「りく――!!」
「よ、よしよーし?」
 抱きつく彼女≠フ髪を撫でながら、ああ、なんだこの光景は、と陸は胸中で溜息をついた。中身は小さくて可愛らしいキメラの少女なのに、見た目は幼なじみそのままなのだ。くそう、微妙に嬉しくないじゃないかと脱力したが、嫌悪感はまったく感じないのだから複雑なのである。
「いやでもこれ絶対おかしいだろ? ココロ、とりあえず離せ、な?」
 懇願したが、腕の力が緩む兆しはなかった。彼女がどんな状態にあったのか正確に知ることのできなかった陸は、その体が小刻みに揺れているのに気づいて息をつき、ひとまず引きはがすことをあきらめる。
 それからもう一度その頭を撫でた。
 しかし、奇妙な状況だ。いっそ自分の体に降ろしたほうが手っ取り早いのではないかと考えたが、自分一人で勝手に盛り上がる姿というのもなかなか洒落にならない。相手がいればいいというものでは断じてないが、不気味に身もだえるだろう姿が安易に想像できるだけに悩んでしまう。
「まいったなー」
 思わず口にすると、要のこめかみに青筋が立っているのが見えた。肉体を一時的にココロに明け渡している状態とはいえ、要の精神はそこにあり、しかもどうやらしっかりと意識もあるらしい。いつまでもベタベタさせているとあとで要をなだめるのが大変だと悟った陸は慌ててココロの肩を掴んだが、しがみつく体は思うように離れてくれなかった。
「腹減ってないか? 喉渇いてないか? なんか持ってくるから……ココロ、聞いてるか?」
 気を逸らし、その体を剥がそうともう一度肩に手をかけたとき、軽いノックと同時にドアが開いた。
 上半身を起こした陸はそこに要の母である祥子の姿を見つけてほっとした。どうやらわざわざおやつを持ってきてくれたらしく、彼女が手にしたおぼんにはカップとケーキが乗っている。
「ちょっと、なあに、この羽」
 あれで釣れば離れるかもしれないと安堵した陸は、視線を床に落として目を丸くする祥子に向かって口を開いた。
「剥がすの手伝って、祥子さん。ココロ……じゃなくて、か、要が……いや、あれ? こういう場合どっち?」
 要はわりと細身だが、遠慮なく体重をかけられていてはバランスもとりにくく、言っているうちに上体が倒れていく。なんとか首だけ傾けて祥子を見た陸は、見る見る引きつっていく美貌に目を見開いた。
「え、あの、祥子さん?」
 勢いよくおぼんを投げ捨てた祥子を見て、十七年間つちかわれてきた勘が「やばい」と告げ陸は顔を引きつらせた。
「陸!! あんたウチの要に何してるのよ!?」
「オレが悪いの――!?」
「問答無用!」
「って、待って、祥子さん!!」
 なぜかごみ箱を持ち上げた祥子を見て、要の姿を借りたココロに抱きつかれたまま陸がベッドの上をずるずると移動する。
 また日常がはじまる。
 あれで殴られたら痛そうだなと思いながら、陸はしっかりへばりつくキメラの少女の肩をあやすように軽くたたいて微苦笑した。

=了=

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