act.97  鍵


 鈍くどこかで音がした。慌てて馬車に乗り込んだトムとジョニーは真っ青になって馬を走らせ、リスティはそんな二人を不思議そうな瞳で見つめる。
「どうする!? どうすればいい――!?」
 馬車から静まりかえる世界を見渡し、ジョニーは悲鳴をあげる。異常だ。古代樹の最後の一本が枯れたにもかかわらず、世界はこれほど静まりかえっている。
「なんで騒がないんだよ!? 大地が死ぬんじゃねーのかよ!?」
「おかしいな」
 唐突にわめきだしたジョニーを見てトムは低くうめいた。古代樹の最後の一本が枯れたなら、敏感な動物たちがもっと反応してもよさそうなものだ。しかし、変化があるのは確実に降り積もっていく雪ばかり――それはオデオ神の意志をみ、世界へまき散らされた毒のようなもの。
「……礎の女神か」
 思い当たったトムがうめくと、ほろ付きの馬車から顔を出したリスティは目を瞬いた。
「なんの話ですか?」
「よく、わかんないんですけどね。この状況ってのは、予想された中で最悪のもののはずだ。なのに、何も変化がないんですよ。これから世界が死に絶えるってのに」
 馬に鞭を当て、トムは手綱をきつく握ってリスティに返した。その目は少しでも高い場所、安全な場所を探して彷徨う。
「本当なら、一番に動物に異常を報せて安全な場所へ誘導し、同時に人にも異変を報せるはずなんだ。だけど、これは」
「礎の女神が誤魔化してるとしか思えねえよ。こんな状況で水没したら、どれだけの人間が生き残れるか」
 トムが口ごもるとジョニーが続け、青ざめる二人の顔を見たリスティの顔からも血の気が引いていく。この寒気の中、大地が水没すればどれだけの被害があるかなど想像にかたくない。それにもかかわらず、世界は不自然なほどの静寂に包まれていた。
「ジョニー、荷をまとめろ。防水用に油塗った布があったはずだ」
「あ、ああ」
「リスティ様は傷の保護を。あと、できるだけ濡れないように注意してください」
 狭く険しい山道へ馬車を走らせ、トムは正面に顔をむけたまま怒鳴った。響き渡る荒々しいひづめの音と鼻息は、木霊することなく森の奥へと吸い込まれていく。しばらく馬車を走らせてから前触れなく手綱を引き締めたトムは、そのまま大慌てで馬車を降りて駆け出し、すぐに大樹へとたどり着いて足を止めた。
「トム、どうしたんだ?」
 馬車のホロから顔を出したジョニーは、異質な樹木に素っ頓狂な声を発し、リスティに出ないよう頼んでからトムに続いて大樹の前に立った。
「古代樹だ」
 見上げた巨木は空を覆いつくさんと左右に大きく石化した枝を広げている。何度見でも奇妙な光景に、トムとジョニーは口をぽかんと開けて上空を見上げ、恐る恐る手を伸ばしてその幹に触れた。寒さにかじかむ指先から伝わってくるのは石の冷たさではなく、ましてや植物独特の冷たさでもなく――もっと別の、体の芯から冷えていくような不快なものだった。
「枯れてるな」
 トムがうめくと、ジョニーも手を伸ばしてそっと幹に触れ身震いした。
「幼木のまま枯れたのか? じゃあ大地は」
「支えがなくなる。畜生、荷造り急げ。沈むぞ」
 踵を返したトムはナイフを手にして馬車と馬を繋いでいた金具をはずし、馬の体に巻き付けられていた革のベルトを切ってその尻を軽く叩いた。ひとついなないた馬は真っ白な息を吐き出して白く染まりはじめた山の中を駆け、木々をすり抜け見る間に小さくなった。
 トムは振り返り、馬車から顔を出してぎょっとするリスティに苦笑を向け、くくりつけられていたロープをほどいて強度を確認し、近くに転がっている石を拾い上げてきつく縛った。上空を見て、一番太い枝めがけて腕を振り回すと、一瞬、大地が沈むかのような大きな揺れが来た。
「トム!!」
「落ち着け、用意はできたか?」
「ま、まだだ。服と、食料と」
「水もな。食いもんはできるだけ保存のきく栄養価の高いものを――ジョニー」
「ん?」
「リスティ様が最優先だ。オレたちのものはいい」
「ああ、もともと入れてねぇよ」
 声をひそめて告げると、当然と言わんばかりに返答が来た。心配するほどのことはなかったかと苦笑して、トムはもう一度上空を睨んで腕を大きく振り回す。戦闘要員にはほど遠いが、雑用ならお手の物だ。たいした知識はなくとも、生き残る術は旅の中で充分にたたき込まれていた。
 力強く投げた石は垂直に飛んでわずかに角度を変え、化石の枝をまたいで急降下する。しっかりとロープを握ったトムはにっと笑みを浮かべ、感心してその光景を見つめていたリスティに向き直った。
「そのシーツをかぶってこちらへ。おいジョニー用意できたか?」
「ああ、一陣はこれ」
 わずか一抱ひとかかえの袋の中には、防寒具と乾物、水が入っている。一応用心のためなのか、ナイフと火打ち石、怪我用の軟膏も詰め込んである辺り、意外にも気が利いていてトムは思わず微苦笑した。
 トムは自分のベルトをはずすとリスティにつけさせ、そこにロープを縛り付けてほどけないことを確認し、ジョニーの作った荷を持たせる。息を呑むリスティに頷いて、トムは枝を見た。
「まずリスティ様を先に上に送ります」
「でも」
 唐突に襲った縦揺れに、リスティは小さく悲鳴をあげて手にした袋を抱きしめた。
「順番っすよ。上、足場が悪いかもしれないから気ぃつけてください。ジョニー、やるぞ」
「おお」
 トムの呼びかけにジョニーはぐっとロープを握って頷く。
「きつくても我慢してください」
「はい」
 ちらと上を見たリスティはしっかりと頷いて深呼吸する。その姿を見た後、トムはかたわらのジョニーと視線を交わしてロープを引きはじめる。見た目が華奢なリスティは見た目通りに軽く、荷をかかえたままでもさほど苦労することなくロープを引くことができた。途中、何度か切れないかと焦ったが、表面がすべらかな古代樹はロープを傷つけることなくリスティを太い枝まで運んだ。慎重に力を加減してリスティを枝に上げたときには、従者はこの寒空の下、汗だくになって座り込んでしまった。
 ロープはトムのベルトごと下りてきた。
「ジョニー、ロープをベルトに縛り付けろ」
「トムは?」
「オレはあとでいい。それが二つ目の荷物か?」
「駄目だ!」
「いいから持て」
「トム、そう言ってまさか」
「勘違いするんじゃねーぞ。オレのほうが腕力がある。順当に考えればここはお前が行くべきだろう」
「そんなこと言っても騙されないぞ」
「……わーったよ」
 ちっと舌打ちしてベルトをつけると、それでひとまず満足したらしいジョニーが深く頷く。その横顔を見ながらトムが口を開いた。
「まずお前が先に行くんだ」
「でもよ」
「ずべこべ言ってねーで早くしろ」
 顎をしゃくると同時に大地が揺れる。揺れる間合いが短くなっているのに気づき、そろそろだな、と、トムは心の中でうそぶいた。
 そろそろ、大地が沈む。どこまで水位があがるかは賭けのようなものだ。まだ上に登る必要があるなら、さらに上の枝へと移る必要がある。しかし、古代樹は一見すれば石でできた木なのだ。ナイフを利用して登ることはできないし、素手で登るのも不可能に近い。
「絶体絶命ってヤツか」
 口の中で不吉な言葉を転がして、ジョニーがベルトにロープを縛り付け荷を抱いたのを確認してからそれを引いた。がくんとジョニーの体が大きく動き驚きの声を発しながら登っていく。いくらジョニーの方が軽いといっても、大の男一人なのだ。そう簡単に持ち上がるはずがない。トムは伸び上がってロープを掴むと体重をかけて引き寄せ、その単調な動作を何度も繰り返した。
 振動が短い。大地が轟音を立てて揺れ始め、ようやく森から動物たちの鳴き声が聞こえてきた。
「マジで全滅させる気か、礎の女神は」
 この大地は、今まで礎の女神の砕かれた四肢と古代樹によって水没を免れてきたのだ。大切な役割を担ってきた女神が大地を放棄したなら、いよいよ窮地に立たされる。たとえ古代樹によって生きながらえたとしても、オデオ神の望みどおり大地のすべてが水没して氷が張れば、この生は未来へ繋がるものではないだろう。
 ぞっとした。
「へ。そんときゃそんときだな」
 苦く笑ってロープを引く速度を緩める。上空を見上げると火を焚いたのか枝の周りがほの明るくなっていた。暖が取れるなら、生き残る確率はさらに高くなる。長くはもたないが食糧もある。そして何より、上には長年ともに行動してきたジョニーがいた。
「引っぱるぞ」
 器用に枝に登ったジョニーはすぐに顔を覗かせてロープを引き上げはじめる。トムは曖昧に返事をしながらナイフの位置を確認した。靴底から振動が伝わり、それは時間をおうごとに大きくなる。ぐっと体を持ち上げられたとき、揺れは地響きとともに辺りの木々を激しく襲った。
「そろそろだな」
 ここでロープを切れば、ジョニーが馬鹿な真似をしかねない。トムは慎重に機を狙い、着々と大きくなる音に耳を澄ませながら辺りを見渡した。粉雪に混じって黒点がいくつも泣き叫びながら浮遊している。群がる鳥に違和感を覚えて注視すると、右手の奥の森に白煙が上がり、巨大な水柱が五本生まれうる。そのさらに奥にはいっそう大きな水柱が数本――なるほど大地も沈むはずだなと、トムは不思議なほど冷静にその光景を眺めた。
 ふと足元を見るとすでに水が雪を浸食し始めていた。長く待つまでもなく足元の雪は水にとって変わり、着々と水量が増す。水に浮かぶ枯れ葉の動きを目で追っていたトムは、引き上げられる速度と水量の変化を確認し、枝にたどり着けないことを悟った。
 空を舞う粉雪を見つめ、ちいさく笑う。
「まあ、なかなか悪くねえ人生だったじゃねえか」
 冷水にぐっと足が引かれ、つられて下を見たトムは急激な水位の変化に目をすがめた。もはや木々が揺れるのが地震のためなのか濁流によるものかの判断もできない。濡れて感覚を失っていく足を曲げると、流れかけた体が垂直になってさらに水が近くなった。
 潮時だな、とぼんやり思う。水流のきつい川に流される人間を助けるなどそう簡単なことではなく、ましてや足場が悪い枝の上ならなおさらだ。このままロープにしがみついていればジョニーが馬鹿な同情心を起こし、ともに流されかねない。それだけは避けなければと、動きの止まったロープを見て思う。
 水がふたたび足に触れた。自力でロープを登ることも考えてはみたが、下手に揺らせばジョニーが転がり落ちるとも限らず、トムは無意識にベルトに挟んだナイフを抜きロープにあてていた。
 力を込めた瞬間、止まっていたロープが引かれる。
 驚いて枝を見上げると、ジョニーのとは別の影が見えた。
「り、リスティ様!?」
 ぎょっとしたのも束の間だ。
「ジョニー、ロープを固定してください」
「はい」
 中性的というより限りなく女性寄りな容姿のままリスティは首をひねって背後に命じ、すぐに下を覗き込んで微笑んだ。
「すぐに引き上げます。――奥、ちょっと凄いですよ」
 唖然としたトムは慌ててナイフを仕舞い、いまナイフをあてていたロープの少し上を握って何度も頷いた。一時的に動きを止めたロープは戻ってきたジョニーとリスティの二人の力で引き上げられ、トムの体は数分後には枝の上へと到達していた。
「リスティ様、怪我は!?」
「はい、痛いです」
「……ですね」
 いくらアルバ神の力で一命を取り留めたといっても、完治していない傷なのだ。トムがうっすら血のにじんだ服を凝視すると、リスティは微苦笑してそこをそっと押さえ、辺りを見渡した。
 いたるところにできた水柱は少しずつだが勢いが衰えはじめている。多くの木は水没してその頂上がわずかに見えるのみで、澄んだ水には枯れ葉や流木に混じって動物の死骸が流されていった。深い位置で人の影を見つけ、トムは慌ててリスティの手を引いた。
 これほど水の勢いが強ければ人などひとたまりもないだろう。これからどんどん遺体が流れ着いてくるに違いない。それをリスティに見せるのはあまりに酷だ。
「傷の治療を」
「いいえ、その前に確認することが」
「確認?」
 しっかりとした口調で返され、トムは怪訝な顔をしてリスティの見つめる先へと視線を向け、そしてまた唖然とした。
 冷水につかったままのロープの一部が古代樹の幹へと伸びている。どこに縛る場所があるんだと不思議に思ってたトムは、その先の光景を見て目を見開き足を止めた。
「んだ、こりゃ」
 太い枝と幹が重なるその部分にひと一人が悠々と通れるほどの穴が開いている。ロープはその中へ伸び、巨大な幹と同じ大きさの巨大な空洞に立つ背の低い柱のひとつにくくりつけられていた。本来なら暗いはずの内部はほのかに明るく、まるで幹の内側が発光しているかのような状態だ。
「中に入ったら明かりがついて」
「あ、明かりって」
「壁が明るいでしょう。上に行けるようです」
 続く言葉が思い当たらないほど驚くトムにリスティは笑みを浮かべて頷く。ジョニーは雪まみれになった荷物から雪を払い落とし、柱にくくりつけてあるロープをほどいて一まとめに縛り、トムのベルトに縛ってあったその先端をほどいて手に握ってから上を指さした。
「上に何かあるみたいなんだ。ほら、光ってる」
 ジョニーの言葉にあらためて見上げたトムは、幹の内部に螺旋状に続く等間隔の凹凸をゆっくり目でたどってうめく。確かに何かある。上部が不自然なほど明るいのを見て、それが自然光でないことだけを理解して眉をしかめた。
「行くしかないか」
 少しずつではあるが水位が増しているのなら、ここもいずれ水没する可能性がある。外を行くよりはるかに安全という思いとわずかな好奇心に誘われ、三人は視線を交わして頷きあい歩き出す。
「ジョニー、ロープオレが持つか?」
「大丈夫だ……トム」
「あん?」
「ナイフ、今度使ったらオレが刺すからな」
「……おお」
 ぼそぼそとジョニーに言われ、トムは肩をすくめた。ロープを切れば被害が一人ですむのなら迷いなど微塵もなかった。あの選択自体は間違ってはいない――けれど、こうして見咎められてしまうとさすがに気が引ける。助かるのも考えもんだなと胸中でこぼしながら、トムは先頭を歩かされる意味にもう一度肩をすくめていた。
 螺旋階段を思わせる樹木の突起はまさに岩の感触だった。二三歩慎重に進んでから大きく息をついて振り返る。
「じゃ、お先に」
 落ちたら落ちたときだなと楽観的に考え、濡れた服がいつの間にか乾いていることに首をひねりながらもトムは階段をのぼりはじめた。巨大な空洞の内部は外とは違い不思議とあたたかく、流動していないとは思えないほどすんでいる。黙々とのぼっていると、ジョニーが螺旋階段の途中で立ち止まって荷を引き上げている姿が目に止まった。
「変わるか?」
「大丈夫だ。ここら辺に固定しとくか」
「……そうだな。手間だが上が安全なら取りに戻った方がいい」
 何があるかわからない以上、とっさに反応できるように身軽である必要がある。まだ床に水が溜まっていないのを確認し、取りに戻るのに充分な時間があると判断したトムが頷くと、ジョニーは荷をその場に縛ってまた歩き出した。
「リスティ様、歩けますか」
「ええ、平気です。……慣れているんですね」
「まあそれなりに」
 主に逃げるのが専門だが、生き残る為の術も身につけている。あまり褒められたものじゃないとは思いながら曖昧に笑い、トムは残りの階段を緊張したまま登った。
 ふっと光が瞬く。
 確実に狭まっていく樹木の内側、その最奥には、孤島のように突き出た足場があった。
「なんだ……?」
 ひときわ強い光が漏れるのはそそり立った台座の上にあるいびつな球体からだ。ようやく頂上まで登り詰めたリスティとジョニーもトムと同じものを見つめて息を呑んでいる。
「種でしょうか?」
「……古代樹に種?」
 リスティの言葉をジョニーが反芻する。ここで眺めていても埒があかないと判断し、トムは恐る恐る突き出た足場を進んだ。人をささえるほど強靱にはできていないように見えたその足場は、意外にもびくともしない。軽く跳びはね強度を測り、トムはそこが安全だとわかると二人を呼んでそのまま奇妙な光を宿す物体に近づく。
 台座の上に浮いているいびつな球体は、地響きにつられるように小さく震えていた。
「種かな?」
「いや、種じゃねーだろ。これ、幼木だしよ」
「……じゃあこれなんだ?」
 子供の拳ほどの大きさのそれは、古代樹と同じ質感を持っている。互いに首をひねりながら台座を取り囲んで眺めているとひときわ大きく足下が揺れ、三人は慌てて台座にしがみついた。
 浮いていた球体がゆっくりと降下する。
 三対の目が見守る中、球体の一部が台座に触れ――次の瞬間、蔦のようなものが台座から現われ球体を包み込んでさらに増殖する。
「今度はなんだ!?」
「トム、これ、種じゃねえよ!」
「わかってるよ! 種じゃねえ!! 種じゃなかったら――」
 台座から伸びる蔦は太さを増し、頭上へと向かう。みしりと手元で音がしたときには、台座に無数のひびが入っていた。
「ヤベェ。リスティ様、早く壁に」
 言い終わらぬうちに台座のひびは足場にまで広がり、伸ばした手は何も掴むことができずに空をかいた。
 最終段階だ。
 ふと胸の奥で言葉が生まれる。
 古代樹が目覚める。礎の女神は敵の目どころか味方の目すらあざむき、古代樹を守ったのだ。
「冗談じゃねーぞ。古代樹が目覚めたら生物が死滅する。破壊神が望む未来と同じ道をたどらせる気か!?」
 ぐんっと、体が降下した。はるか頭上で蔦が石化した幹を突き破り左右に伸びていくのが見えた。世界中に根を張った化石の木から同じ現象が現われたなら、それはどれほどの規模になるのか。凄まじい勢いで太さを増し、上空と地上の双方に向かって伸びる蔦を見つめたトムは、自分たちの力ではどうしようもない状況が目の前にあることだけを理解した。
 石の床が間近に迫る。
「後悔だらけじゃねえか」
 気絶もできないなんて運がない、そう愚痴をこぼして彼は床に激突する寸前で双眸を閉じた。

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