act.96 フレーズ


「言ってくれる」
 赤泉の外、緑深い森の中で大きく拓けた場所に立ち、クラウスは手にした剣を握りしめて喉の奥で低く唸った。陸とココロであったモノがともに赤く染まる泉に落ちた瞬間、魔獣たちの気配が変わる。狙いは水中にあるはずの礎の女神の心臓――自分ではないとわかっているが、血走った目を見る限り、理性の欠片も存在しない彼らが対峙する非力な人間に情をかけ見逃すとは思えなかった。
 もっとも、ここで逃げるほど堕ちてはいない。
 女神の心臓があるからではない。ここには、一時ではあるが苦楽をともにした仲間がいるのだ。
「全部やれとは言わんだと?」
 冗談めかした陸の言葉を思い出し、クラウスは口元をゆがめた。赤泉がいかに有害な場所であるかなど、オデオ神の毒にあたった体をかかえたクラウスには手に取るようにわかった。赤泉の水は濃度が濃い。触れれば呪をからめた毒は瞬時に全身を覆い、肉体は崩れる――そう、あのキメラの少女と同じく原形さえとどめないほど生きながらに溶け、ゆっくりと死んでいくに違いなかった。
 あれは、毒を抜かなければ確実に訪れただろうクラウスの未来だった。
「いいさ、全部やってやる。赤泉には誰も近づけさせん」
 剣の柄をきつく握って笑み、じりじりと間合いをつめる魔獣たちに向き合う。易々と命を捨てる気など毛頭ないが、楽に生きながらえようという想いもなかった。
 いま、自分にはできることがある。
 ちまたでは小姑王子だの小うるさいだけの放蕩息子だのとさんざん言われ、実際にその通りなので否定もせず聞き流していたが、そんな彼にも誇れるものがあった。
 くだらない理由をつけて繰り返した長旅で、彼はそれに付き合った気のいい従者たちを守りながら戦うことを覚えた。ここで退けば傷を負うのは自分だけではない、そう知っていたからこそ一度として膝を折ることなくここまできた。
 預けられた背は、必ず守る。
 たとえここで朽ちる運命だとしても、一匹でも多くの魔獣を道連れにしてやる。
 白い息を吐き出しながらクラウスは一歩踏み出す。いつの間にか降り出した霧雨は粉雪へと変わり、世界がゆっくりと霞んでいく。小刻みに揺れる腕に気づいたクラウスは、空いた手でそっと腕をつかんで深く息をついた。
 赤泉にかかるようにして血を連想させる真っ赤な壁がある。以前は氷壁だったそれは気温とは真逆に溶解し、しかし波打つ壁としてそこにあり続けていた。
「オデオ神の悪意で溶けたか」
 赤い壁は雲に混じり、雨となって世界を覆う。それが終焉を示すものだと感じ取った体はいっそう激しく震え、クラウスはそんな自身に舌打ちして大地を蹴った。
 あたりに響くのは獣の咆哮だ、もはやそれは神獣などという大それた生き物ではない。血に飢えた眼と鋭い犬歯をむき出しにして威嚇する獣たちに向かい、クラウスは大きく振り上げた腕をあらん限りの力で振り下ろした。
 剣を通して感じた弾力に眉根を寄せ、体重をかけ振り切る。断末魔の叫びをあげながら一角の獣が倒れたのを確認するより早く、彼は体を反転させその勢いで小物を二体斬りつけた。無駄な動きは体力を消耗する。しかし、未知の敵相手では急所の判断を誤りかねない。
 ならば、より深く突き貫くに限る。腕の力だけではなく、剣先により体重が乗るよう注意して、一刀一刀を確実に叩き込んだ。いかに敵が巨体であろうとも、隙を突けば活路は生まれる。ぬかるんだ大地に何度か足を取られ、そのたびに傷を増やしながらも彼は敵のただなかで剣を閃かせた。
 不意に背後で音がしてクラウスはとっさに振り返る。かまえ損ねた剣に舌打ちし、下方から突き上げた。だが、剣が意外な位置で止まった。
「魔獣の分際で……!!」
 血で濡れた剣先は魔獣の腹で止まり、刃の中央は毛深い手に握られている。びっしりと毛の生えそろった巨大な顔が、動揺するクラウスを見て笑みに崩れるのがわかる。
 動物とは違い、なまじ知識があるからよけに性質が悪い。目の前の魔獣は次にクラウスがどう反応するかを楽しげに観察したまま、喉の奥で低く唸りながらも動く気配がなかった。
 剣を放せば自由になる。だが、剣を手放せば戦う術が奪われる。興味深げに見つめてくるいくつもの視線に気づいたクラウスは、この状況にはじめて戦慄した。斬りつけられ地に伏す魔獣を踏みつける彼らには仲間意識がなく、情の欠片もないのだ。
 足を持ち上げ、体をひねって魔獣の脇腹を蹴った。けれど伝わってきたのは布の固まりを蹴るような感触のみだ。
 歯噛みした――刹那。
「使え」
 鋭い声とともに何かが足元に落ちた。一瞬、光に目を見張ったクラウスは魔獣につかまれた剣を手放し、身をかがめて足元に刺さっている使い込まれた剣を手にし、唖然としているのだろう獣に向かって腕を大きく振り上げた。
 飛び散る血からも顔を逸らすことなく、クラウスは倒れる巨体を一瞥して魔獣につかまれていた剣を奪った。傷はわずかに心臓を逸れたようだが、何度か立ち上がろうとしたその体は見る見る力を失っていった。
 クラウスは周りを取り囲み驚倒する魔獣をそのまま数匹斬り倒し、肩で荒く息をつきながら視線を走らせ、そしてトゥエルの姿を見て瞠目した。
 彼は病の床に伏し、動ける状態ではないはずだ。誰の目から見てもわかる死相はすでに男の影のようにその体にこびりついている。
「死ぬ気か」
「オレが来なければ貴様が死んでいたな」
 トゥエルの血色の悪さに動揺して問うと、ひび割れた唇が笑みの形になる。振り上げた剣で襲いかかった魔獣を斬りつけ、彼は意外にもしっかりした足取りで近づいてきた。
「それはルーゼンベルグの騎士団長が愛用していた剣だ。斬れるぞ」
「……引き返せ、といっても聞かんのだろうな」
「手を伸ばせば届く位置にオレの女がいるんだ。なぜおめおめ逃げる必要がある」
 死相はさらに色濃くなり、もはや目を逸らすことなどできないほどはっきりと認められた。そんな中で、トゥエルは戦うと言うのだ。まったく相手にしない女に対し、それでも体を張るのだ。
「少し、羨ましいな」
 ぽつりと口にすると、魔獣を次々となぎ払いながら近づいてきたトゥエルが鼻で笑った。
「欲しいものなら奪え、相手を思うのであればえばいい。簡単な話だ」
「それが難しいんだ」
 あがりはじめた息の合間から毒づくとトゥエルはこんな状況にもかかわらず機嫌良く笑う。なるほどやはり狂王だなと納得し、クラウスも口元を歪めた。
 すべてが終わったら、話したいことがあった。
 大切な、大切な話しだ。
「ここで死ぬわけにはいかんな」
 赤泉に近づくトゥエルの姿を見て、クラウスは一瞬脳裏によぎった懐かしい顔を胸の奥にしまい込み、魔獣を避けながら素早く彼に近づいた。
「行くな」
 トゥエルの目的がラビアンなら赤泉に入るのが道理――だがこの状況で入れば、トゥエルの体がもつとは思えなかった。病に蝕まれた体は、瘴気でさらに悪化しているだろう。どこにこれほどの力が残っているのか不思議なほどやつれた男は、魔獣より獣じみた瞳でクラウスを見た。
「止めるな」
「入るなら、魔獣をすべて倒してからだ」
 時間を稼がねばならない。いまは陸に賭けるしかないのだ。運良くあの少年が破壊神を倒せば、トゥエルはここで悪戯に命を縮めずにすむのだ。
「魔獣を倒さす赤泉に入ればこいつらはなだれ込み、結果は同じになる。オレは帰り道を任されたんだ」
「任された? そういえば、陸とかいう男は」
 トゥエルの問いにクラウスはちらと視線を赤泉に流す。それですべてを理解したのか、トゥエルはわずかに肩を震わせた。
「そうか、赤泉には神がいるのか」
「中に沈んだのは二神だ」
「二神?」
「死と再生をつかさどるアルバ、破壊と創造をつかさどるオデオ。オレたちが出る幕じゃない」
「だが」
「――ああ、だが、ここが片付いたらオレも行く」
「いいだろう、一掃するぞ」
 にっとトゥエルが笑った。
 時間を稼がねばと思って口をついた言葉は、刻々と集まってくる魔獣を見ればあまりに無謀だと知れる。しかしトゥエルはそんな中にあってなお、まだ生き残り、そして恋人と呼ぶには一方的すぎる相手を救おうとしていた。
 クラウスは浅くなっていた息を意図して深く吸い込み、血で滑る剣の柄をあらためてきつく握り直した。


 こぽり、と水音が耳底に響く。目を開けると真っ赤な水の中を気泡がいくつも上っていくのが見えた。
「ココロ」
 開いた口から気泡は生まれず、かわりに意外なほどはっきりと言葉が出た。
 礎の女神の血と破壊神の意志が溶けた水の中で、刻々と形を変える少女の体は、面影はおろか原形すらとどめないほど崩れていく。痛みを訴えないのが、こんな状態で死ぬことすら許されないのがいっそ哀れなほどの姿――それは紛れもなく腐敗した肉の塊だった。赤く血走った目がそこに埋まり、せわしなくあたりを見渡している。
 陸が手を伸ばすと、腐敗した肉に埋まった目が嬉しそうに細まる。いびつに変形してしまった過去に翼だったものが小さく上下し、彼女の喜悦を伝えてきた。
「そこにいるのは、礎の女神?」
 わずかな気配に問うと、頷こうとしたのかココロの体は不自然に大きく揺れた。
 何か考えがあってのことだろう。だからココロを巻き込んでオデオ神の元までやって来たに違いない。いにしえの神々に逆らい自らの四肢を砕いて大地を支えるほど傾倒する世界がふたたび消えようとしているのだ。なんの理由もなく関係ない少女を道連れにしてまでここにやってくるとは思えなかった。
 陸は以前と変わらずまっすぐ見つめてくる瞳になんとか笑みを返し、ゆっくりと視線を逸らして足元を見た。
 気泡がひとつ、浮上してくる。
 赤く濁った視界の先で、白く何かが浮かび上がる。
 もぐるために体の向きを変えようと手を大きく動かした陸は、奇妙な感覚に眉をしかめた。感じてしかるべきはずの水の抵抗はなく、まるで空気を掻いているかのような手ごたえなのだ。何度か手を動かした陸は、そのままの体勢で降下をはじめたココロを見て、泉の内部がまともでないことを再確認した。
「こんな状況なのに視界も利くし、しゃべれるし……このくらい当然か」
 便利だが、宙に浮いているような感覚はどうにも心もとない。じっとしていれば違和感はないのだが、動き出すと途端に不安定になる。
 陸はココロに続いて慎重に降下し、そして物音に気づき、次第にはっきりするそれに息を呑んだ。
 音は、歌だ。途切れ途切れに流れる旋律は、ほんの少し前、小屋の中で耳にした子守唄と同じものだった。
 なぜと思って目を凝らした陸は、白い物体が輪郭を成し、やがてくっきりとした形を現した瞬間、悲鳴を漏らしていた。
「来たか、アルバ」
 幼なじみの顔をした破壊神が嘲笑とともにささやき、陸に向けていた視線をココロへと移してさらに笑みを濃くした。
「それにセラフィも。驚いたな、現存する神が合間見えるとは。だが、その体で何ができる? 喰われに来たか」
 楽しげな声を発し、要は間近にある白いものに手を這わせてその一部を引きちぎる。赤い水がいっそう赤く染まる。歌が途切れ、ごぼりと音をたてて気泡が生じた。
「いい眺めだろう。貴様の心臓を娘に移した。不死の身体は延々と肉を作り我がにえとなる」
「むごい真似を」
 呆然とその光景を見つめた陸の耳に、予想外に澄んだ女の声が届いた。だが、陸はそれから視線を逸らすことができなかった。光さえ届かないはずの赤く濁った赤泉の底にのたうつ臓器と、そこから生える少女の白い体――思考が焼き切れる。肉を失った体は瞬時に内側から盛り上がり、桃色の肉は肌と同化して白く変化した。
 傷が癒えると歌が再開する。途切れ途切れに、抑揚もなく。
「ラビアン」
 陸がようやく少女の名を呼ぶと、真紅の瞳がわずかに揺らぎ、けれど何も写すことなく虚空を見つめる。
「いい肉だ。穢れもなく上質、……洗礼も受けているか。世界が死に絶えるまでゆるりと愉しませてもらおう」
 引きちぎられた肉は何に影響されたのか、オデオ神の手の上でのたうちまわっている。彼はそれを楽しげに眺めて口元に運んだ。
 背筋が冷えた。
 幼なじみの――要の顔で、彼の体を借りて、オデオ神はこれほどの凶行をするのだ。
「やめろ……!!」
 緩やかに続く歌声に悲鳴が混じる。陸は踊りかかり、オデオ神から肉の塊を奪うとうねる臓物の床に投げ捨てた。律動する生暖かい感触に怖気おぞけあがりながら、陸はそのままオデオ神の胸倉を掴み上げた。
「終わらせてやる、こんなもの」
 泉に沈む前、ほんの少しだけ抱いていた迷いは瞬く間に消えうせた。迷うほどのことではないのだ。一番この状況に苛立っているのは、陸ではなく乗っ取られた要であるはずだ。
「出てこい」
 鋭い一喝にオデオ神が怪訝な表情をし、すぐに口元を引き上げた。
「同じ過ちなどするか。依代の意思はとうに砕き――」
 陸の手を振りほどこうと手を上げ、その途中でオデオ神が息を呑む。懐かしい顔を醜悪に歪め、彼はその手を額へあて唸り声を上げた。
「小賢しい」
「要、出てこい」
 陸の言葉にふっとオデオ神の顔から表情が消え、別のものが現れた。よろめく体を支えた陸は、腕の中で大きく息を吐き出して柳眉を寄せ「きつい」とつぶやく声を聞いて安堵する。
 神を取り込むだけならば、きっと体にかかる負荷は最小限にとどめられるのだろう。だが要は、過去のココロと同じく無理に取り憑かれているのだ。疲労の浮かぶ横顔を見て、残された時間がいかに短いかを痛感しながら視線を頭上へと向けた。
「セラフィ、これからオデオ神を引きずり出す。捕まえられるか?」
 質問に腐肉が頷くのが見えた。本来なら陸が行うべき役割を礎の女神が肩代わりしてくれるなら、望みはある。陸はすぐにその視線を要へと戻した。
 頭をもたげた不安を見破られたのか、幼なじみは不機嫌な顔でまっすぐ陸を見上げる。
「ギリギリだ。失敗、するなよ」
「ああ。でも、もし」
「言うな。別に怒らないから」
 揺らぐ視線にはまったく異なる二つの意識が見え隠れする。肉体本来の持ち主である要ですらこんなに短時間しかオデオ神を抑えていられないのだと思うとひどく動揺した。
 大きく息を吸い心の中で呼びかける。
 肉体のない神は力を充分に発揮できない。だからオデオ神を要の体から分離させるのが第一の目標だ。世界を支える古代樹に悪意が行き渡らないようにオデオ神を死滅させるのが第二の目標。それが不可能であれば、依代すべてを破壊し、神が降りることのできる体をこの世から消す必要がある。
「アルバ神、頼む」
 陸はささやき、手に力を込める。ついさっき回収した毒は、オデオ神自身のものだ。肉体に呪となって絡み、全身に行き渡ったと同時に肉体を破壊する。
 陸はその毒を手のひらに集め、要の首筋へ触れた。
 手の触れた位置から網目状に紫の痣が浮かび上がり、瞬く間に広がった。
「貴様……!!」
 穏やかな瞳には一瞬で狂気の色が浮かび、彼≠ヘ陸の手を振り払って首筋に触れた。
「それ、アルバ神の呪も混じってるよ。全身を結べばどうなるかわかってるよな? ――肉体ごと、死んどく?」
 毒を流した熱い手をきつく握り、陸は緩やかに微笑む。その毒がどれほど危険なものなのかは内に宿るアルバ神の状態から判断できた。前触れなく息苦しくなったのは、アルバ神の力が急激に弱まったせいなのだろう。
 神は、要の体ごと破壊神を消滅させようとしている。
 そうはさせるかと反発し、陸は呪をはがそうと暴れるオデオ神に近づいた。
「早く要の体から出ていかないと、本当にそこで死ぬよ」
 全身に巡った呪が繋がる。不快な音をたて、オデオ神の――要の腕が肥大する。
 もし、助けられなかったら、ごめん。
 ――でもそのときは、一人じゃないから。


←act.95  Top  act.97→