act.95  さあいこう


 風が肌を突き刺すようだった。異形の翼を羽ばたかせるたびに加速する体は、世界を瞬時に背後に押しやりながら冷気の塊へと近づいてゆく。
 腕を曲げた。わずかに指先を振ると冷気と風圧は去り、すがめていた目を見開くことさえできるようになった。
――古代樹が。
 脳裏で女の声が悲痛に響いた。
「世界を支える樹」
 ココロは破壊神から得た知識を掘り起こし、声に応じてつぶやいた。女神の欠片を取り込んでその意志によって世界を守るための巨大な樹木――それは現在、幼木として世界各国に根付いている。
 ココロは視線を己の手に落とした。醜く肥大し溶け崩れるそれは、幸い女神の加護で痛みを感じないでいる。甲に付着した雪が体温で水滴となり肌を滑るのを目にとめ、彼女は小さく声を上げた。
 何かが皮膚をすり抜けて体の中に入ってきたのがわかった。次の瞬間にはその感覚が全身に広がり、不快感となってココロの中に刻み込まれる。彼女はわずかに生え残った頭髪に付着する雪の欠片をとっさに振り払っていた。
「気持ち悪い」
――これは、オデオ神の悪意の形。
 礎の女神の悲痛な声にココロは現状を把握して言葉を失った。オデオ神は過去に世界を水中に沈めるため、ココロの体を使い古代樹を一本一本枯らしていた。地道とも思えるその作業は、多くの時間と労力を費やすと同時に人々を生きながらえさせるための時を稼いでいたのだ。
――私の血に悪意を混ぜて、世界中にばらまいている。古代樹が枯れてしまうわ。
 セラフィの言葉が終わらぬうちに体に鋭い痛みが走った。悲鳴が唇を割り、飛翔を続けた体が一瞬にして降下する。すぐにココロの意識は白濁と化し、かわりに奇妙な浮遊感が全身を包んだ。
――もう少しよ。
 硬い声は、ココロの痛みをセラフィが受け止めている証なのだろう。オデオ神に毒された体は彼の意志の混じる液体に触れ、さらに一層崩れてゆく――すでに、礎の女神にすら止められぬ速度で。
 あと、どれくらい。
 胸の内でそっと問いかける。
 あとどれくらい、この世に存在し続けられるだろうか、と。
 再び加速する体はココロにとって、もっとも近づいてはならない場所へ向かっていた。


 全身が震えた。寒さのためか恐怖のためか、それとも、絶望のためか。
 赤く波打つ水面には絶え間なく波紋が広がり、血臭が濃度を増し続ける。次々と水面に落ちる雪はまたたく間に赤く染まって崩れ去った。
「要があの中に」
 陸が茫然とつぶやくとクラウスは息を呑んで赤泉を凝視し、剣の柄を握る手に力を込めた。陸も同様だ。眼前には女神の心臓が沈んだ赤泉、背後にはそれに近づく二人の人間――陸とクラウスを見守る魔獣が威嚇しながらうろついているのだ。気の抜ける状況ではない。
 それに、情報が間違いでないのなら赤泉には要とラビアンに加え、オデオ神がいるはずだ。
「生きてるのか?」
「嫌なこと訊くなよ。とりあえず、オデオ神が健在なのはわかった」
 クラウスの問いに陸は眉をしかめた。
 これほど近くに魔獣が来ることができるなら、すでに結界の類は働いていないと判断すべきだ。けれどすぐさま赤泉に踏み込まないのは、そこがいかに危険な場所であるかを魔獣たちが本能で感じ取っているためだろう。さすがに神話の時代に神獣と呼ばれただけはある。
「さっさと行って、心臓を取ってこいってことなんだろうな」
 魔獣たちはその数を増し、確実に間合いをつめてくる。陸は視線を走らせ舌打ちした。三十匹は堅いと思った矢先、森からさらに人型の獣が飛び出してきたのだ。全身が体毛でおおわれ前屈気味に歩く姿が猿を思わせるそれは、他の魔獣よりもはるかに体格がよくやけに目立っている。
「あれは何かなーあっちのは鹿のような。隣はリス……にしちゃ、でか過ぎか。あれは犬っぽいな。ケルベロスって頭三つあったっけ」
 長い尾で地面をえぐる魔獣を見て、陸はわずかに後退る。
「決着が付いたら一番おいしいところをかっさらう気か。神獣も堕ちたものだ」
 クラウスの言葉に陸は沈黙した。すでに異形と成り果てた体は神話とともに生きた女神の心臓を食らったぐらいでは元に戻ることはないだろうが、それでももがかずにはいられないのだ。
 過去があるからこそ、それにすがる。
 陸も同じようなものだ。当たり前のように隣にいた幼なじみが赤泉にいるから、ここまできたのだ。
「助けられなかったら、ごめん」
 剣を握りしめたまま陸は苦く口にする。幸いクラウスには聞こえていなかったようで、彼は迫ってくる魔獣を警戒して剣をかまえていた。陸は瞳を細めてからあいた片手を彼に向かって伸ばし、その肩を掴んだ。
 ふっと、クラウスの視線が魔獣からはずれる。
「陸……?」
 驚くその瞳に微笑みかけて指先に力を込めると、奇妙な感覚がゆっくりと手のひらに広がった。そして次に訪れたのは熱と痛み――クラウスが驚倒して手を振り払おうとするのを無視し、陸は霞みかけた瞳で彼を見た。
「陸! お前、何をしている!?」
「これ以上は本当に命取りだ。アルバ神の力は完全じゃないんだ」
「答えになってないぞ! 手を放せ!!」
 クラウスが上体をひねり、陸の手に掴まれた服がずれる。きっちりと締められた襟元がはだけたその奥は、目を背けたくなるほどの惨状だった。心臓付近に濃い紫色の痣が浮かび上がり、そこから網の目のような線があらゆる方向に広がっているのがわかった。
 それは体中に広がれば、またたく間に細胞を破壊する呪=Bあとわずかでクラウスの全身に行き渡るだろうオデオ神の毒だ。
 陸は服から手を放し、もっとも色濃く毒の集まる場所に触れた。目の前が一瞬、真っ白に染まった。
「陸!!」
 耳鳴りの奥から聞こえるクラウスの声に苦笑して、焼けるかと思うほど熱い手をわずかにひねって何か≠掴み出すように指先に力を込める。
「ここから先はオレ一人で行く。クラウス、後は頼む」
「この期におよんで何をいまさら――」
「勘違いするなよ。大事なこと頼んでるんだ」
 にっと口元を歪めた。
「必ず無事に帰ってくるから、それまで魔獣が赤泉に近づかないように援護よろしく。マジで死ぬほど大変かもしれないけど」
 赤泉に入れば毒は確実に全身に回り瞬時に肉体を破壊するに違いないが、逃げろと言って逃げてくれる男ではない。だから充分に言葉を選び、陸は剣の切っ先を魔獣に向けたままクラウスに告げる。彼の体から掴みだした毒を体内に引き入れてアルバ神の力でなんとか押さえ込み、大きくひとつ息を吸い込んでから視線をクラウスに戻した。
 紫が徐々に薄くなっていくのを確認し、陸は再び口を開く。
「全部やっつけとけなんて言わないからさ」
「……一人で行く気か」
 うなずこうとした直後、陸は何かに呼ばれたような気がして顔を上げた。魔獣を警戒しながら剣をかまえて答えを待つクラウスは、目を見開く陸に気づいて彼の視線をたどって空を見た。
 目を凝らすまでもないほどの距離に黒点があり、それは見る間に近づいてその形を克明にする。巨大な翼を広げたそれを見て胸にわき起こったのは、歓喜であり絶望であった。
「一人じゃない」
 漏れた声は、きっと情けないほど震えていただろう。すさまじい羽音、渦を巻く風、そして血臭に混じる腐臭――かつての面影など欠片もない、悪夢のような生き物がうなり声を発して陸たちと魔獣の間に降り立った。
「あれは……」
「――ココロ」
 絶句するクラウスに陸はささやきかける。異形の生き物に恐れをなしたのか、迫ってきた魔獣たちがいっせいに後退をはじめている。
「馬鹿な。なぜ、あれほどの状態で動ける!? 生きていられるはずが……っ」
 したたり落ちるのは腐敗した血肉だ。血走った双眼はとても正気とは思えないほど忙しなく辺りを見渡し、すぐに陸を認めてゆらりと歩き出した。
「陸、様子がおかしいぞ。逃げた方が……」
「大丈夫だ」
「どこかだ!? もともとあの娘はキメラだったんだ。知性も理性も、お前が思っているよりはるかに」
 言いかけたクラウスを遮って、陸は微笑した。
「ごめんな。オレのせいだ」
 キメラであるココロを連れて歩いたばかりに、依代としてオデオ神の目にとまったのだ。不完全であった体は、破壊神の力には耐えきれなかった。
「一人じゃ寂しいな。……早く終わらせような」
 静かな陸の声にクラウスは茫然とし、ココロであったものはわずかに瞳を細めた。
「クラウス、あとを頼む」
 言葉を発すると腐敗した腕が陸に向かって伸ばされ、同時に声を荒げながら剣を振り上げるクラウスが網膜に飛び込んできた。陸が混乱する彼を制した刹那、強烈な悪臭に包まれた体が大きく揺れた。世界が反転し、それが深紅に染まる――全身が心地よい、あるいは不快と知れる熱に包まれた後、陸の意識は音をたてて切れた。
 こもった水音が耳朶を打つ。
 そこはすでに、赤泉の中であった。


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