act.94  全部


 雪の重みに堪えかねて樹木の枝が大きく揺れた。
 降り続ける雪は大地を覆い、世界は刻々と純白に塗りつぶされていく。
「異常気象だな」
 ルーゼンベルグの王トゥエルは剣に手をかけてつぶやく。雪が降るのは地理的にもっと北部、仮にこの辺りで降るとしてももう少し遅い時期になるはずだった。白い息を吐き出しながら純白の大地を踏みしめた彼は、全身を包む悪寒と倦怠感をなんとかやり過ごし、視線を背後へと移動させた。
 見つめる先には巨大な壁が立ちふさがっていた。血を連想させるほど赤い壁は、礎の女神の心臓が沈められた世界の中心、赤泉のほど近くに迫っている。
「世界の終わりをこの目で見ることになるとは思いませんでした」
 使い込まれた剣を鞘から抜き、ジョゼッタが心痛な声を発する。この状況を目の前にすれば、それはごく当然の言葉のように思えた。しかし、トゥエルは動じることなく抜いた剣をかまえる。
「終わりなものか」
 国を守りたいがために望んだ神は、この世を滅ぼすための邪神となって世界を支える樹を破壊している。
「こんなことで、終わらせるものか」
 痛みで震えそうになる声をできるだけ抑え、剣の切っ先を森へと向ける。ざわざわと乱れる空気の内側に、低い威嚇のうなり声が混じりはじめた。異変を感じたレナがほろ付きの荷馬車から顔を出すのを見て、トゥエルは中にいろと鋭く命じた。
「でも」
 レナの視線が森に向かい、魔獣の姿を認めて恐怖におののくのが見えた。
「いざとなったら馬に鞭を打て。――子の首は据わっていない。できるだけ起伏の少ない道を行け」
「あ、あなたたちは」
 レナの隣から顔を出した彼女の夫は、レナ以上に青ざめた顔をトゥエルに向けた。
「これしきのことでくたばるか」
 王らしくなく荒々しい言葉で応えると、男は息を呑んで視線を山道に投げ、わかりましたと頷いた。二人の顔がほろの奥に消えたことを確認してからトゥエルは木々に隠れて様子をうかがう獣の群れに視線を走らせた。
「ジョゼッタ、ここを抜けたら奇獣に乗って馬車を先導しろ」
「トゥエル様!?」
「いかに優れた奇獣でも、この山道に荷物をかかえたまま二人を乗せるのは厳しい。山を下りるまでに力尽きては意味がない」
「荷を落とせば二人くらい乗れます」
「生きる糧を失ってどこに逃げる気だ」
「では、先導はトゥエル様が」
「山を無事に下りたとて、命の長さに変化などない」
 ベッドの上で陸から投げられた質問は、とても反論できないほど的を射ていた。刻々と悪化する体調は、彼の命がどれほど削り取られているかを彼自身に伝えてきた。オデオ神の放つ気にあてられた体はすでに限界を超えたに違いない。まだ立っていられるのは陸の手によるわずかばかりの延命≠フたまものなのだ。
「トゥエル様、しかし……!!」
「内紛でだいぶ暗殺られたが、遠縁で一人、王族の血を引く男がいる。それを次期王に据えよ」
「できません!」
「聞き分けろ。この体がどれほど蝕まれているか、お前なら気づいているだろう」
 淡々とした口調にジョゼッタは唇を噛んだ。喉を鳴らす獣が――魔を受けた獣たちが、じりじりと間合いを計りながら近づいてくる。トゥエルとジョゼッタは馬車を守るように絶えず視線を走らせ、剣先を森にひそむ敵へと向け続ける。
「いいな、これが最後の命だ。ルーゼンベルグはこの世界同様、まだ滅びるには早い。――新たな王は軍師の出でバカ正直な上にまっすぐな男だから、優秀な補佐がいる。国を頼む」
「トゥエル様……」
「最後の我が儘だ、聞いてくれ」
 トゥエルが足を止める。はっとしてジョゼッタが目を見開くと、彼は笑みを刻んだ唇で奇獣の名を呼んだ。
「巻き込んですまなかった。――行け」
 なにを、とジョゼッタが問いかけた瞬間、奇獣は器用に彼女の襟首をくわえ、驚くその体を易々と放り投げて己の背中に乗せ、ちらとトゥエルを見てから鋭いかぎ爪で雪を掴んだ。雪がけずれ黒々とした大地が顔を出して後方へ押しやられると、奇獣はさらにかぎ爪で大地を掴む。唐突な加速に、剣を取り落としたジョゼッタが驚きの悲鳴を上げてその首に掴まると、ポチ≠ニ呼ばれる純血種の馬も緩やかな歩調から一転し、大きく一ついなないて大地を力強く踏みしめた。
 ずいぶんと頭のいい馬らしい。トゥエルは笑みを深める。己の状況を的確に判断し、他者の行動に合わせて動くことができる――それはすでに、神獣と呼ばれた過去の生き物に属する生命に違いない。
 トゥエルは雪の上に転がったジョゼッタの剣を拾った。これで少しは時間稼ぎができる。魔獣に囲まれたときから、誰かがおとりになり、そして引きつけなければ全員がここで命を落とすことになるとわかっていた。
 適役は自分だけだ。
「死にゆく者が、何を躊躇う」
 馬車を見つめた魔獣たちは、すぐにトゥエルへと向き直った。しかし彼の瞳は、魔獣ではなくその後方の巨大な深紅の壁を睨み据えていた。
 笑みがいっそう深くなる。
「何を、恐れる必要がある? オレはまだ生きているんだ。要が言ったとおり、生きたまま英雄になってやろうじゃないか。世界がひれ伏すほどの」
 剣を大きく薙いで、彼はしっかりと柄を握る。燃えるような深紅の髪が風に揺れた。
「お前と世界を救うのはオレの役目だと思わないか? なあ、ラビアン」
 不敵な笑みを刻み込んだまま、死をかかえた男が足を踏み出した。


 一瞬の浮遊感の後、轟音と揺れが大地を襲った。荷馬車に古いほろを取り付けていたトムとジョニーは互いの顔を見つめてから空を見上げた。延々と雪を降らせる雲は晴れる兆しもなく相変わらず空を覆い、昼間だというのに辺りは薄暗くさえある。
「リスティ様、傷は痛みますか」
「いえ。平気です」
 トムの問いに、かび臭い荷馬車の中央に腰をおろしていたリスティは首を振って答える。だが、青ざめた横顔を見れば、精神面でも肉体面でも憔悴しきっているのは一目でわかった。身を挺して守るほど気にかけていたココロが消えたことは、リスティにとってたとえようもなく大きな衝撃だっただろう。不運にもこの一件に巻き込まれた従者二人も同じである。こんなに歯がゆい思いをしたことは過去に一度もなかった。
 しかし、このまま感傷に浸っているわけにはいかない。治癒されたかに見えるリスティの傷は完治にはほど遠く、かろうじて血が流れていない程度なのだ。ここに留まる理由がなくなってしまったのなら、安全で大きな町に移動して、養生させるのが先決だ。そしてニュードルに戻り、国王に報告する必要があった。
 この世界がたどろうとする未来を。
 トムは破壊神の姿を思い出し、身震いした。間に合わないかもしれない――漠然と、そんなことを考えてしまう。揺れ続ける大地は異常を知らせ、常にないほどの緊張を呼び寄せる。
 ニュードルの王にして小姑王子と名高いクラウスの父であるジル・ヴァルマーに出兵を直願じきがんするつもりではいるが、すべてが徒労に終わる可能性も高い。否、敵があのオデオ神であるなら、徒労に終わると覚悟したほうがいい。
「トム?」
 小声で呼ばれ、はっとしてジョニーを見ると、彼も思いつめた表情をしていた。不安は伝染するものなのだと思い出し、トムは無理に笑顔を作る。
「神様ってなぁ、スゲェもんだな」
 トムは家から荷を持ち出す親子を見て紐をきつく縛りながらつぶやいた。声が聞こえたらしいジョニーはきょとんとし、それから慌てて馬車を降りてトムの隣に並んで歩き出した。
「何もできないって言いながら、ひと一人、ちゃんと救えるんだからよ。オレたちだって、やれることはあるだろ」
「非力なりに?」
「ああ、非力なりにな」
「行けっかな」
「行くしかねーだろ」
 短く言葉を交わすうちに、互いの表情が明るくなる。親子の前につく頃には、いつもと同じ笑顔を浮かべていた。
「なあ、本当に来なくて大丈夫か?」
「ここに残ります。うちの人、出稼ぎに行ったままだから……誰かが待っててあげなきゃ」
 ジョニーの問いに、女は苦笑して答えた。いつ魔獣に襲われるとも限らない道を行くより、一箇所にとどまったほうが安全かもしれない。幸い納屋は半壊したものの家屋は無事なのだ。この寒さをしのぐために薪となる木材も多く運び入れてあり、食糧の備蓄もあるようだった。一番近い町ですらここから三日はかかるというのだから、幼い子を同伴する旅は不安を伴って当然だ。
 トムとジョニーは頷いた。これからの道のりが、無理に連れていけるほど安全でないことはわかっていた。
「それで、これを」
 大きな包みを二人に差し出し、女はひかえめに笑った。
「持っていってください。少ないですけど、食料と防寒具を」
「え」
「でも、あれだ。これからどうなるかわかんねーし、受け取れねぇよ」
「持っていってください。多くはありません。家の補修を手伝ってくれたお礼です」
「お礼って……馬ももらって、馬車だって!!」
 驚倒する二人に女は荷を押し付けた。
「その代わり、町に着いたらオルマの家族はまだ森にいると伝えてください」
 助けが来るとは限らないのに、女はそう頼んできた。ぎゅっと足にしがみつく娘の髪を愛しむようにやわらかく撫で、伏せがちにしていた瞳を上げる。
「よろしくお願いします」
 荷を受け取った二人は息を呑んでから深く頷いた。そしてすでに魔獣対策に窓を板で打ち付けてある家を見る。
「魔獣は変異が少ないほど喰える≠ンたいなんで、いざってときにゃ食糧になる」
「剣より槍を――絶対に、家の外に出ないように。あと、入れないように」
 言葉を選ぶ二人に女は笑顔を浮かべ、娘を抱き上げてた。
「夜はとくに気をつけて?」
「それだけわかってりゃ完璧だ」
「助け、絶対呼ぶからよ。それまで辛抱してるんだぞ」
 女の言葉にトムは肯定し、ジョニーは笑んでから抱き上げられた少女の頭を撫でた。
 そして、寒さに震えながら馬車に戻る。
 家に引き返した女と戻ってきた従者二人を見比べていたリスティは驚いた表情のまま口を開いた。
「いっしょには来ないのですか?」
「旦那さんを待つそうですよ」
「でも、こんな場所では……っ」
「どこに行っても魔獣が襲ってくるときは襲ってきます。硬い殻があるぶん、あっちの方が安全だ。そういう判断です」
 トムの言葉にリスティは不安げな表情を崩さずに一軒だけぽつんと建った家を見つめる。町や集落から離れた場所に家を建てるのは、さほど珍しいことではない。それでもこんな状況では、心細く思うだろう。
「仕方ねぇさ。どの判断が正しかったかなんて、最後にならなきゃわかんねぇんだ。あとは祈るしかない」
 独り言のように続けてトムが御者用の運転席へと乗り込むと、ジョニーは大人しく荷馬車の中に入っていった。適当な時間で交代する旨だけ伝えて馬の手綱を引く。トムは馬のいななきが妙に硬いことに気づいて瞠目した。
「こりゃ、ますますやばいな」
 動物は人間よりはるかに敏感だ。この異常事態を察知しないほど鈍くはないだろう。それでも、もともと農耕馬として飼育されていたわりに、その馬は御者によくしたがって走った。
 しばらく行くと背後のほろが開き、白い腕が伸びてきた。
「寒いでしょう?」
 子供服を作り変えたらしいもので首を包まれると、急にこわばっていた肩から力が抜けた。首をひねるとリスティの神妙な顔があった。
 しばらく見ない間にずいぶんと「女」らしくなった相手に、トムは苦笑を返す。
「このくらい慣れてますよ。オレはクラウス様の従者ですからね。あの方は、気が向くままにどこにでも行くお方だから」
 苦労話を口にすると緊張したリスティの表情がわずかに緩む。冗談を交えながら話している途中、ふっと胸の奥で何かが身じろぎ、トムはぎょっとして口を閉じた。とっさに振り向いてジョニーを見ると、彼も真っ青になって目を見開いていた。
「どうかしたんですか?」
 リスティの問いには答えずトムは馬車を停める。その直後、いつになく大きく大地が揺れ、葉擦れ音に木々が上げる悲鳴が重なり、馬がいなないた。興奮する馬につながれた馬車は大地以上に揺れ、三人は手近にあるものに必死で掴まって、揺れをやり過ごした。
 そして、数分後。
 間断なくつづいていた揺れが完全に収まったのを確認し、トムとジョニーは青ざめたまま馬車から降りる。馬は相変わらず興奮し続けて荒々しく足を踏み鳴らしているが、それは二人の耳には届いていなかった。
 彼らはただしんしんと降り続く雪の中、大地を凝視して唇を噛んでいた。
「なにがあったんですか」
「出ちゃだめだ、リスティ様」
 いつになく強い口調で止められ、リスティはジョニーを見た。理解できないとでも言いたげな顔を二人に向け、再び口を開く。
「いまの揺れは?」
「……最後の一本が枯れたんだ」
「……え?」
 ひととき、彼らの中には神と呼ばれるものの一部がいた。それは、過去の愚行に自戒の念を抱きながら礎の女神に力を貸すために世に降り立った、今は力もなく、ただもがくことしかできない神。
 すでに完全に「還した」はずのそれが、違和感とともに彼らに現状を伝えた。
「これか……っ」
 トムは雪を掌中におさめてうめいた。まだ、時間はあるはずだった。世界を支える古代樹には礎の女神の欠片があり、オデオ神はそれをひとつずつ破壊して回らねばならなかった。まだ多くの時間が必要であるはずだったのだ。
「野郎、世界中の水を集めて悪意を流し込みやがった」
 雲の中に巨大な水溜り作るさまは奇妙にしか見えなかったが、これなら合点がいく。膨大な貯水庫は世界を覆い、これより先、雪がやむことなどなくなるだろう。気温が下がったうえで世界が水没し、さらに雪が降り続けるのであれば生き残る生命がどれほど存在するのか。
「この雪、女神の血と破壊神の負の力がこめられてるのか」
 ジョニーは呆然とつぶやいた。
 これほど微量であれば健常者にはさしたる影響はない。けれど、絶大な影響を受けるものがある。トムとジョニーは同時に空を見上げた。
 古代樹は、女神の欠片を持ちその血を受けて存在し続ける世界の核となるなるもの。
 それを壊して満足げに笑うオデオ神の顔が、脳裏に蘇った。


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