act.93  煉瓦


 大地が跳ねるような揺れはそれから幾度も襲ってきた。そのたびに立ち止まり、作業の手を止めあたりを警戒し、落ち着くと崩れた納屋から使えそうなものを家へと運ぶ。
「なんだろうな、この揺れ」
 ジョニーが身震いして雪で白く染まりはじめた柱に手をかけた。
「お、それ切って家ん中運べそうだな。薪にちょうどいい。……おおかたオデオ神が古代樹を破壊してるんだろうよ。この寒さで大地が水没したら、人間なんてあっという間に凍死しちまう」
 ジョニーに手を貸しながら、トムが淡々と告げる。大地を支える大樹が破壊されれば、世界は水中に沈む――破壊神と呼ばれるものは、身勝手な欲求のためだけに世界を無に帰そうとしている。説得しようにも、彼にはそれ以外の目的も、願いも、何ひとつなかった。いびつな欲望はあまりにまっすぐで、介在の余地すらない。これでは話し合うことすら無意味だろう。
「オレたち、どうなるのかな」
「さあな。今まで生きてこられただけでも奇跡みたいなもんだからよ? これからも運がよければ生き残れるさ」
 楽観的な相棒をジョニーはちらと見る。
「ココロ、行っちまったな」
 つぶやくとトムは動きをとめた。ジョニーが気を失っていても眼裏に焼きつくような光を覚えているのと同じように、トムもあのときの光景を鮮明に記憶していた。強烈な光でありながら網膜を焼くことのない奇妙な光源は、人の形をとって、すでに人としての形を保てないココロの前にいた。
「ココロな、陸のところに行ったんだ」
 ジョニーはちいさくそう告げる。命と引き替えに、彼女は最後の願いを口にした。それはあまりにもささやかな、本来なら失笑してしまうほど取るに足りない願いだった。
 それでも彼女にとって、それは本当に唯一無二の望みであったに違いない。
「オレたちゃ無力だな」
 どれほどもがこうとも、何一つ思い通りにはならなかった。あまりに非力で、それゆえに生かされ続ける命がここにある。
「これからどうする?」
 瓦礫の中から乾いた木片を拾い上げ、ジョニーはトムを見た。彼は深い息をひとつ吐き出し、重くのしかかるように世界を覆う雲を仰ぎ見た。
「戻るわけにはいかねーだろ。リスティ様を安全な場所に届けるまでは」
「安全な場所なんてどこにも」
「だとしても、だ」
「けど、ココロは」
「ジョニー、オレたちゃ自分が思ってるよりずっと非力なんだよ。引き返せば犠牲が増えるだけだ。だったら、いま、自分ができることをするしかねぇだろ」
「自分ができること?」
「ニュードルに戻る。国王陛下に全部報告して、あとは、それからだ」
「トム」
「オレたちは非力なんだ。だったら、非力なりに動いてやる。神様なんてクソ喰らえだ」


 直下型の揺れは、世界中のいたるところでほぼ同時に発生した。
「震源地どこ!?」
 近くにある大木にしがみつき、陸は悲鳴をあげる。本能的にその揺れが通常の地震とは別種であると判断し、クラウスを見た。
「こーゆうの、よくある?」
「いや、ないな。数年に一度か……そもそも、地震という言葉自体、久しく聞かない」
 最近頻発している揺れは、横揺れでなく縦揺れなのだ。それはそのままそこが震源地に近いことを知らせるものなのだが、どこに移動してもその兆候があり、嫌でもひとつの結論を導き出す。
「古代樹の破壊活動が進んでるってことか……。レナさん、大丈夫?」
 生まれて間もない赤ん坊を抱え、この極寒の中を地震と魔獣におびえながら逃げるのは過酷としか言いようがない。山小屋にいればいずれ本当に身動きが取れなくなるだろうが、移動も命懸けなのだ。
「ええ、大丈夫です」
 レナはわが子をしっかりと抱きしめて緊張した面持ちでうなずいた。
「じゃ、ポチ、よろしくな」
 ポチと奇獣の体にはそれぞれ大量の荷物がくくりつけられている。危険な赤泉に連れて行くより、レナたちについて下山した方が役に立つだろうし犠牲も少なくてすむ――これにはクラウスも賛成で、彼の奇獣も荷物運びに一役買っている。いざとなればどちらの馬≠焉A人を二人乗せて走るくらい造作もないほど頑丈な体のつくりをしているのだ。
「トゥエル、辛かったら背中乗っけてもらって」
 陸が奇獣を指差すと、トゥエルは心持ち眉を上げた。平気だといいたいに違いない。奇獣はふんふんと鼻を鳴らし、トゥエルの腕に額をこすりつけていた。
「……なあクラウス、なんかあの奇獣ってトゥエルに懐いてるっぽい?」
「ああ、あの男が元の持ち主だからだろ」
「持ち主って、奇獣の?」
 そこまで言って、陸はぽんと手を打った。王都がキメラを作ること、そしてその一部である奇獣の元の持ち主が鎧を失敬した男であったこと、さらにその鎧には王都の紋章があり、目の前の男は王都の王――確かに、巡り巡ってみれば、トゥエルが奇獣の主ということになるのだろう。
「なるほど」
 世間は狭いなと苦笑し、陸は腰に下げた剣を確認して赤泉のある方角を見た。
「行くか」
「ああ、行こう」
 背を押すようにかけられる言葉に安堵して、陸は足を踏み出した。背中に、どうか気をつけてとレナの檄が飛ぶ。多くの視線を感じながら陸は新雪で真っ白に染まった山道を歩き出した。
 ぴりぴりと緊張が増していく。繰り返される揺れに何度も足を止めながら、身を切るほどの冷気の中を一歩ずつ確実に進んだ。もう後戻りなどできない。この世界の命運を決する戦いは目の前にあった。
「こんな頼りないヤツが行ってもいいのかって感じだけど」
 寒さに身をすくめ、口元を布で覆い隠して陸は我知らずうめいていた。雪が深いもやにまみれていくのがひどく不自然に思えた。すでにこの世界の気象は完全に狂っているのだろう。確認しながら見渡していた陸は、木の陰で何かが動いているのを目にして足を止めた。
「クラウス、あれ」
「……ああ」
 雪の中でいくつも黒い塊が動いている。耳をすまし、軽い足音が数を増していくのに気づいて目を凝らすと、機をうかがうように樹木の陰に身を隠して息をひそめる多くの魔獣の姿が飛び込んできた。
 陸はクラウスと視線を合わせ、剣を手にして辺りに視線を走らせた。
「……囲まれてるな」
 クラウスが舌打ちする。背筋に冷たいものを感じながら、陸はクラウスの声に思わず肩越しに振り返った。トゥエルたちは大丈夫だろうか。病人がひとり、赤ん坊がひとり、そして戦う術を持たない男女がいるのだ。あの中で、動けるのは女剣士であるジョゼッタだけというのは、あまりに不利だ。
「陸、気を散らすな。オレたちまでやられるぞ」
 クラウスの叱責にはっとする。だが次の瞬間、陸は赤泉に続く道が不自然なほど拓けていることに気づいて息を呑んだ。
「――後退すれば、襲ってくる」
 そんな言葉が口から漏れると、退路を断つようにするりと魔獣が現れる。
「なんだと?」
「こいつら行かせたいんだ。オレたちを、赤泉に」
 ざわざわと神経を逆撫でるような不快な気配が前方から押し寄せてきた。赤く広がる雲は巨大な氷の壁に溶け込んで、まるで血を溶かしたかのような朱色へと転じている。
「赤泉に……?」
「そうだ。こいつらは結界には近づけない。だから、オレたちを行かせたいんだ」
「……獣の分際で、人を使うか」
 陸の言葉に険しい表情でクラウスは吐き捨てた。過去に神獣と呼ばれた獣たちは、今は魔獣と成り果てて人々に恐れられながらこの世界に住みついている。彼らが欲するのは、世界を支えるために存在する古代樹をはぐくむ女神の心臓だ。
 陸は前方を睨み付けた。
 巨大な氷の壁は赤泉にかかり、その部分は気味が悪いほど赤く染まっていた。ここを離れる前は確かに澄んでいたはずの水は、毒々しいまでの赤で満たされ、粘着質な音を生み出しながらゆるりと波打っていた。
「血か?」
 クラウスが呻いた直後、それに呼応するかのようにきつい血臭が押し寄せてきた。
「……要……?」
 何かが揺れている。泉の奥底、人が踏み入れてはならない領域で、ゆらゆらとそれ≠ェ踊るように蠢いている。目を凝らしてもけっして見えるはずのない光景が脳髄にたたき込まれた直後、陸の全身から血の気が引いた。
 生きているのか。
 ――それとも。
 ごぼりと、真っ赤な水が気味の悪い音をたてた。


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