act.92  ひとつとや


 ゆるり、ゆるりと体が揺れた。
 どこか遠く――あるいは間近で、柔らかな声が聞こえた。ときおり耳に届くのは、ひどく切なげな声だ。しかし、内容がよくわからない。しばらく考え、水が湧きおこるようなこもった音が絶えず響いているせいで声≠ェ聞きづらいことに気づいた。
 目を開ける。
「ココロ……!! 痛くないですか? なにか、欲しいものは?」
 驚いたように目を見張ってから優しげに微笑み、ずっと聞こえてきたのと同じ声で目の前のヒトがそんな質問をしてきた。誰なのかわからない――見たことがあるような気がしたが、よく思い出せない。けれど、敵でないことを本能的にさとり、わずかに首をふって見せると、そのヒトは落胆して顔を伏せた。
「そうですか」
「お? 気づいたか? おい、ジョニー!! ココロが目ぇ開けたぞ!」
「だ、大丈夫か――!?」
「大丈夫なわけないだろ。なんか薬湯もらってくるか。まずくても飲めよ、ココロ。ちょっと待ってろ」
 少し遠くで何かが動く気配。続いて、誰かが顔をのぞき込んできた。
「い、痛いか? 痛ぇよなぁ……。もう少し我慢するんだぞココロ。王都に行ったらよ、ちゃんと体、直してもらおうな。絶対いい魔術師見つけてやるから安心しろ」
 真っ赤な目を優しく細め、痩せた男が励ますように声をかける。どうして気遣ってくれるのかもわからず、視線をめぐらせる。天窓が白く染まり、がたがたと音をたて揺れていた。
「ああ、雪が降ってるんだ。ココロははじめて見るよな?」
「寒くないですか? もっと服を借りられるといいんですけど」
 綺麗なヒトはそこまで言うと口ごもってしまった。それから、包帯を替えますと言って離れていく。ふわりと異臭が揺れた。
 何か言わなければと口を開けたが、喉の奥からは不快な音とうめき声が出るだけだった。軋み続ける肉体はすでに痛覚が麻痺し、痛みを和らげるかわりに動きを封じてその体から確実に自由というものを奪っていく。
 動かなければ――唐突に、そう思った。
 動いて、あの人のもとに行かなければ。もう時間がない。ずくずくと崩れていく体は命をすり減らし、体力をそぎ落とし、確実に無へと近づいてゆく。
「ココロ、じっとしてろ!!」
「動いてはいけません」
 悲鳴がふたつ、重なった。
 何を言っているのかよくわからない。だが、制止しようと手を伸ばしたことはわかる。ずるりと音をたてて何かが床に落ち、腐臭がきつくなった。視線を動かすと気味の悪いこぶをいくつもつけ、羽が残っていなければ翼であったことさえわからないほど変形したものが転がっていた。
 どろりとした液体がしたたり落ちる。どす黒いそれがなんであるのか、よくわからなかった。
「陸は必ず帰ってきます。だからお願いです。もう……!!」
 悲痛な声が遠くで聞こえる。泣いているようだった。どうしてだろう――これで、体が少し軽くなったというのに、何をそんなに悲しんでいるのだろう。
 ゆるりと首をひねり目を凝らが、唐突にすべてが白く濁って、もやの中に何かが動いているとしか判断できなくなった。誰かが何かを言っている。それは雑音のようであり、嘆きのようであり、祈りのようであった。
 わからない、聞こえないと返そうと思ったが、言葉のかわりにうなり声が漏れた。
 ふっと足下が崩れた。
「ココロ!!」
 視界が大きく揺れた。
「リスティ様、こっちに!!」
「ジョニー、リスティ様を連れて納屋から出ろ! 大きいぞ……!!」
「早く!」
「だめです、ココロが……!!」
 いくつもの声が交錯すると、もう一度視界が大きく揺れた。鋭い音がどこからともなく聞こえ体ごと世界が揺れる。頭上から何かが落ちてきて次々と床で跳ねた。悲鳴が耳底に響き、炸裂音が幾度か繰り返され、白く濁る世界がさらにいっそう白くなる。
 ココロはとっさに手を伸ばし、間近にある柔らかな肉の塊をふたつ引き寄せて肥大した体の下に押し込んだ。建物の軋む音と陶器が割れる鋭い音が同時に聞こえ、丸めた背に重く激痛がのしかかってきた。さっきまで感じることのなかった苦痛が瞬時に全身を覆い、開いた口から生臭いうめきが漏れる。
 両手で体を支えると、不快な音をたてて間接がずれるのがわかった。痛い、と泣き叫んだつもりだったが、喉の奥から漏れたのは相変わらず低いうめき声だけだった。
――見つけた。
 永遠に続くのではないかと思った苦痛が去ったのは、そんな声を耳にした直後だ。
――見つけた、最後の依代。
 粉塵が舞う世界は、ココロの目にはいっそう白く見えた。その中で、異様な光を放つものが着々と近づいてくる。顔をあげると、光はくるりと回転してからその場に浮遊した。光のまとう気配が何かに似ていると思った直後、オデオ神の姿がひらめき、ココロはとっさに腕の中のものを深く抱きくるんだ。
――何を守っているのです? ああ、……お前は、優しい子ですね。
 光はそうささやいて、そっとココロに触れた。瞬時に世界が明確な色を持ち、視界が拓けた。驚くココロの目の前で、光の塊は女の顔を形作って優しげな笑みを浮かべた。ココロは目を瞬き、それから軋む首を動かして腕の中を確認した。太く隆起の目立つ腕の中には、溶けて腐った肉に埋もれたリスティとジョニーの姿があった。
 生きていると知って、ココロの口からは安堵の息が漏れた。
――その体はいくばくもなく、時を待たずして崩れていくでしょう。
 静かな声に引き寄せられるようにもう一度顔をあげると、光に包まれた女はココロをまっすぐ見つめたまま言葉を続けた。
――長くはもちません。
 唐突に現れたモノは残酷にそんな言葉を言いはなった。
 ココロはとっさに首をふる。そんなことはないと、そう返したかったが生憎と言葉が出なかった。だから首を振り続けた。ぬめりを帯びた肉の塊が顔から剥がれ落ち、崩れた木材の上に弾けるのが見えた。
――力を貸してください。オデオ神が赤泉に沈んだ。アルバ神もじきに向かうでしょう。私には体が必要なのです。
「……アルバ、神」
 喉の奥が嫌な音をたてた。
 アルバ神は、陸に宿った神の名だと記憶している。それがオデオ神のもとへ向かっているのなら、――もし、自分と同じように陸の体にオデオ神が入り込んでしまったら、どれほどの負担になるか。
「りく、が」
 腕の中にいるリスティとジョニーを慎重に横たえ、重い体を必死で起こし、ココロは前より少しだけ軽くなった体で立ち上がる。遠くで怒鳴り声が聞こえたが、かまわず足を踏み出した。
――願いをひとつ叶えましょう、依代の子よ。
 ふっと、光がそうささやいた。
――お前の命を代償に、願いをひとつ叶えましょう。
 残酷な言葉に目を見開き、ずるいと言おうとして言葉を呑み込む。光に縁取られた顔が苦しげに歪み、ちいさく揺れていた。こんな言葉を言いたかったのではないのかもしれない。その表情は、気を失っている二人が見せるものにひどく似ている。ココロは苦悩に歪む顔をぼんやりと見つめてそう思った。
「ココロ、離れろ!! なんだその光……!!」
 遠くから聞こえる声が明瞭になる。
「ジョニー、リスティ様!!」
 髭面の小男は顔色を変えて二人の名を呼び、棒きれ片手に瓦礫の中を苦労しながら向かってくる。さらに遠く、崩れかけた家から子供の泣き声と、あやすような女の声が聞こえてきた。柔らかな声は歌をつむいでいる。どこかで聞いたような気がする、優しい子守歌だった。
 がたりと大きな音がして、小男が一瞬だけ視界から消えた。
「ちくしょう、なんだってんだ!!」
 真っ白い息を吐き出しながら、寒さでかじかんでいるだろう手を懸命に動かし、彼は助け≠ノ来てくれるつもりなのだろう。
 ここには、優しい人がたくさんいた。まがい物の命がもう助からないと感じていながらも、それでも決死で道を切り開こうとする、優しい人たちがいた。
 けれどいつか、否応なく現実が突きつけられるだろう。そうなれば、優しい人たちがいままでよりさらに苦しむことになる。少しずつ大きくなった悲しみが絶望に成長するのは簡単で、そうして優しい人たちが今以上に悲しむことなど火を見るよりも明らかだった。
 ココロは変形した手に視線を落とした。時間をおうごとに変化する体は、たとえ無事に王都へたどり着けたとしても治せるものではないのだ。
 崩れる体は、すでに死に向かって転がりはじめている。命を代償に願いを叶えてくれるなら、いっそすべてをもとに戻して欲しい――そう頼もうとしたが、ちいさな光にそれができるとは思えなかった。
 ココロはちいさく息をついた。
 願いはある。たったひとつ、おそらくそれが目の前の光が望む言葉なのだろう。
 もう一度、今度は忘れないようにと皆の顔を順に見て、ココロは最後に光へと視線を向けた。
「りくに、会いたい」
 つぶれた声で訴える。ここにいれば、皆を悲しませるだけだから――だから、何もかもが無駄ならば、せめてこれ以上、ここにいる優しい人たちを傷つけずにすむようにと手を差し出した。
――叶えましょう。
 女神の名を持つ光は、苦しげにそうささやいた。


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