act.91  自由


 異変は森を臨む場所にたどり着く以前に気付いた。うっすらとけぶる空に、明らかに不自然と思える朱色が混じっているのだ。どこまで続いているのかわからないほどそれは上空に――そして左右に、広がっていた。
「何が起こったんだ」
 魔獣の背からおり、クラウスは茫然と空を見つめた。この変異が正常でないことを彼の言葉から判断し、陸もポチの背からおりる。まるでこの世界に落ちてきたときに見た朝焼けのような色合いが空に広がっていたが、あれは透明で鮮やかで、そして美しかった。これほどの禍禍しさをもって広がるあかがなんであるのか、それを想像すると背筋に悪寒が走った。
 どこかに境界線があるかのように色彩が途切れている。じっとその様子を見つめ、陸はふたたびポチにまたがった。
「行こう。皆が心配だ」
 吹き付ける冷気に不快な気配を読み取りながらも陸は平素と変わらない表情でクラウスに声をかけた。それでも、分厚い手袋ごしに手綱を握る指先だけはいつも通りというわけにはいかない。ココロの体から破壊神が分離してからすでに六日が過ぎていた。肉体のない邪神は人の移動速度よりはるかに速く目的地にたどり着いているだろう。必死でねじ伏せてきた感情が胸の奥をかき乱し、瞬時に目の前が暗くなった。
「陸! ――おい、しっかりしろ」
 力強く腕を掴まれ、陸ははっとして虚空を睨んでいた視線をクラウスへと移す。魔獣の背に戻ったとばかり思っていた同伴者は、真剣な眼差しを陸に向けたままもう一度口を開いた。
「お前の中にアルバ神がいるんだ、弱気になるな。この先どんなことが起こっても、おそらくそれをとめられるのはお前だけだ。だから、前を向け」
「クラウス」
「すまんな、本来ならお前にはなんの関係もないことなのに」
 陸は驚いて自嘲気味に笑うクラウスを凝視した。
 ここまで足を踏み込んでしまったのだ。それが偶然にせよ必然にせよ、すでに無関係ではいられない。
「……偶然の方がいい、か」
 ここに落ちてきたころ、確か幼なじみである要がそう口にした。ただ元の場所に帰りたい一心で動き回ったあの時は、さほど気にもとめていない言葉だった。
「ごめん、大丈夫だ」
 なんとか笑顔を作ってそれをクラウスに向ける。じっと赤泉のある方角を見つめていたポチの手綱を軽く引くと、意外にも力強く否定され、拒絶の意がありありとわかる眼差しで振り返ってきた。
 行くのか、とただされている気がして陸は目を丸くする。どう答えたものかと押し黙ると、ポチは次にクラウスの魔獣へと視線を投げた。魔獣も異様な気配が漂う森を見つめたまま微動だにせず、クラウスを背に乗せるまではするが、手綱を引いても一向に動く気配がなかった。
 今までにない反応にクラウスは困惑する。人間よりはるかに敏感な生き物だけに、危険は直感で察知できるのかもしれない。逆に、魔獣と純血種という組み合わせだからこそ、異変が目視できる距離まで近づくことが可能だったのだろう。
 霊山に近づくたび、動物が確実にその数を減らしていたことを思い出し、陸は手を伸ばした。
「お前、たいした奴だな」
 感心して言うとポチが睨んできた。
「悪いけどもう一踏ん張りして赤泉まで行って欲しい。あそこに要と――たぶん、オデオ神がいる。そこまで連れてってくれたら、あとは自由にしていいから」
 帰りのことまで考えられないというのが本心だ。最悪の状況なんて想定したくもないが、ふっと何かの拍子に脳裏に血のイメージがあふれる。陸はその不吉なイメージを振り払うように頭を振ってポチの首筋を撫でた。行け、と言外に命じて軽く叩くと、ポチは大きくいなないて前足を踏み出す。
「陸、そっちは違わないか!?」
 ぎょっとしたクラウスの声が背後から聞こえる。
「ポチ! ポチ、そっちじゃねぇ!! って、こら、止まれ!!」
 猛然と駆け出したポチの進行方向は明らかに赤泉からずれている。焦って手綱をきつく引いたが疾走する速度はまったく衰えず、背後から追ってくるクラウスの声すら着々と遠ざかっていく。
 反抗的な態度の馬≠ナはあったが、いままで一度もこんな無茶な行動をとったことはなかった。陸は冷や汗をかきながら何度も手綱をひき、その度に命令に反してポチが加速するのを自覚して青ざめた。主人を振り落としかねないほどの速度と荒々しさで密集する木々の間をすり抜け、ポチは森の中を前進していく。痛いほどの冷気が肌に刺さり、風圧と衝撃に堪えかねて陸は身を低くしてポチの背にしがみついた。気を抜けば落馬は免れず、そうなれば大怪我どころの騒ぎではすまされないだろう。
「ポチ……!!」
 体が大きく跳ね上がったとき、陸はとっさに馬の名を呼んだ。すると、さんざん暴れていたポチがぴたりと動きをとめ、陸の体は馬の背にべったりと貼り付いた。
「お、お前は、本当にオレを殺す気か……」
 毒づいて顔をあげ、それから霧の中からぼんやりと浮かび上がった影を見つけて上体を起こす。目を瞬くと、わずかに赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「え? まさかここって……」
 ぐるりと見渡して、見覚えのある巨木に驚きの声を上げた。
「これ、レナさんの家? お前、よく覚えてたなあ」
 感心してポチを見ると、得意げに胸を反らせている。乱暴な案内に呆れながら陸はポチからおり、肩をすくめてから首をひねって、ほど近い霧の中から大地が軋むような地響きが聞こえてきていることを確認した。赤ん坊の声が聞こえるということは、レナたちはまだ山小屋にいるのだろう。すぐにでも退避させなければ危険だった。こんな土壇場でそんな事まで気遣っていたのか、振り返った陸の目に、早く行けというように顎をしゃくるポチの姿が映る。
「……馬じゃないな。あれは絶対、馬じゃない」
 再三繰り返した言葉をもう一度繰り返し、陸は小屋へと駆け出した。レナが気に入ったんだろうなという結論に達し、陸はクラウスが付いてきているか心配しながらも小屋のドアを叩いた。
 ドアはすぐに開き、奥から暖かな空気とともに蒼白としたレナが顔を出した。
「あなたは……」
「レナさん、ここ危険だから荷物まとめて霊山から離れてください」
「駄目です」
「駄目って、外、かなりまずいことになって……」
「駄目なんです。病人がいて、動けません」
 彼女の言葉に、うなり声が重なった。苦しげなそれは男のもの――とっさに彼女の夫が怪我を負ったのかと中を覗いたが、すぐに元気そうな姿が視界に飛び込んできた。彼は水の入った容器を抱え、不安げな表情で陸を見つめている。
「病人?」
「はい。お医者様を呼ぼうにも、村はもぬけのカラで……ま、魔獣に、襲われたようで、村には遺体が」
 青ざめて震える女に陸は息をのむ。病人を抱え、魔獣が跋扈する中を歩き回るなど自殺行為にも等しく、動きたくても動けない状況だとレナは続けた。
「ここもいつ襲われるかわかりません」
 ざわりと背筋から悪寒がはい出す。そんな中に、要たちはいたのだ。そして破壊神がやってきた。
「中にいるのって、……要?」
「いいえ、トゥエルさんとジョゼッタさんです」
「――あとの二人は?」
「二人?」
「要と、ラビアン」
 レナは目を見張ってからゆっくりと首をふった。陸は立ちつくすレナを押しのけて室内に入り、一瞬だけ立ち止まって低いうめき声が聞こえてくるドアへと手を伸ばした。
 ――犠牲が多すぎる。
 あまりに唐突に、あっけなく、己の非力さを呪う間もなくすべてが奪われていく。このまま手をこまねいていたら、何もかも失いかねない。ココロも、要も、この世界の人間すべてが。
「教えてくれ。いったい何があったんだ」
 小さな部屋にはベッドが一台、その前には憔悴しきった女の後ろ姿があった。体のいたるところに包帯を巻いた女はゆるりと動き、陸を認めるなり顔をゆがめた。
「どうすることもできなかったんです。私は戦うためにここに来たというのに……トゥエル様を抱えてここまで退避するのが精一杯で」
「ジョゼッタ、……トゥエルは?」
「わかりません。あれが……オデオ神が現れ様子がおかしくなって以降、ほとんど昏睡状態です」
 きつく眉根をよせたままの男は、壁に上半身を預けるようにしてベッドにいた。それを痛々しげに見つめるジョゼッタは、堪えられないとでもいうように視線を床へと落とす。
「……悪性の……」
 陸は思わず呻いてから慌てて口を押さえた。以前から何となくわかってはいたが、アルバ神の能力を完全な形で受け継いでようやく、トゥエルの身に起こっていた変化を理解できた。彼がもう、死を待つだけのせいを生きていたということを。
「オデオ神がここに来たのはいつ?」
「三日前です」
「……わかった。ごめん、ちょっと外に出てて」
 短く告げると、ジョゼッタは驚いたように陸を見た。
「神様は万能じゃないんだ。だから、焼け石に水だけど」
「――いいえ。お願いします」
 なんとかそれだけを口にしてジョゼッタは足早に部屋を出て行った。ドアが閉まる音を聞きながら、陸は小さく息を吐き出す。
「オデオ神の置きみやげか」
 苦々しく口にして手を伸ばすと、不意に熱い指先が腕に絡まってきた。思わず動きをとめた陸を、血走った目がまっすぐ捉えてひび割れた唇がゆっくりと開く。
「オレのことはいい」
 かすれた声はそう言った。もう助からない、だから余計なことをするな――と。こんなときでさえ獰猛な光を宿したまま、王都の王は皮肉な笑みを浮かべていた。
「破壊神が要の肉体に入って、ラビアンをさらって赤泉に沈んだ。これは、その毒にあてられて進行した症状。すでに手遅れだ」
「ラビアンをさらった?」
「食料だとぬかした、あの悪食あくじきめ」
 ふっと瞳から光が消える。しかしそれは一瞬のことで、すぐにトゥエルは陸を睨み付けた。
「行くぞ。こんなところで寝ていられるか」
 陸の腕を握った手に力がこもった。どこにこれほどの――そう思うほど力強い手を陸はしばらく見つめ、そしてトゥエルに視線を戻す。
「礎の女神の気配がない」
 まっすぐに問うとトゥエルは目をすがめた。わずかな困惑の色を見逃さず、陸は押し黙る。取り込まれたなら片鱗くらいあってもおかしくない女神の気配が、この土地から一切感じることができない。ならば、女神の本体は敵の手に堕ちたがその魂はまだ無事であるということか、あるいは、依代を得た破壊神が完全に彼女を取り込んだか、いずれかだろう。
「わかった、とりあえず治療」
 頷いて自由な手を伸ばし、トゥエルの頭部に触れた。
「必要ないと言ってるだろう!」
「症状は? 頭痛、めまい、吐き気、眠気、体はちゃんと動く? どこまで感覚がある? けいれん発作の頻度は? わかってるみたいだから隠さないけど、本当なら絶対安静だ。――この土地から離れろ。オデオ神の毒は健常者にも有害だ」
「では誰がアレをとめるんだ!?」
「オレが行く」
「馬鹿を言うな! アレを呼び出したのはオレだ。オレが責任を……」
「被害は少ない方がいい」
「陸!」
「レナさんたちがここから出られないんだ。動けるなら、護衛を頼む。大丈夫、オレってわりと悪運なんだ。ちゃんとラビアンも連れて帰ってくるから」
 オデオ神は正真正銘の悪食だ。人を好んで食べる。それを思うと一刻の猶予もないことがわかった。オデオ神がここへ来て三日なら、すでに最悪の状況も考えられる。
 だから。
「オレが一人で行く」
「それは許可できん。せめて二人にしろ」
 凜とした声が響き、ドアが開いた。肩越しに振り返った陸はドアを押し開けて不機嫌そうに仁王立ちするニュードルの小姑王子を見て苦笑する。
「病人は寝ていろ。――悪かったな、狂王と呼んで」
 ちらとトゥエルを見て、クラウスは陸に向き直る。
「オレも同行する。異存は?」
 生きて帰るつもりなのだろうクラウスは爛々と燃える瞳を陸に向けてひるみなく言い放つ。陸は苦笑を引っ込めて静かに頷いてみせた。
「ありません」


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