act.90  あとすこし


 呼吸が知らずに荒くなる。
 和らいだはずの冷気はふたたび厳しさを増し、体の芯まで冷えるような風となって大地を鋭く撫でていく。そして、上空に蓄積された水は確実に体積を増やし、時おり雲の間から光をまき散らしながら自己主張した。
 異様な光景はこればかりではない。
 霊山の一部を占めていた氷の壁が着々と大きくなって、さらに魔獣も増えているのだ。幸い群れで襲ってくることはないのだが、一体一体が大きく機敏なため、倒すのにかなり手間取るのが実状だ。昼夜を問わず襲ってくるためゆっくりと体を休めることさえできない。
「ラビアンは安全な所に避難したほうがいいと思うんだけど」
 嫌な予感が胸の奥で広がっている要は、銀髪に真紅の瞳を持ち、なぜが少年の格好をした妙な王女を見ながら素直な意見を口にした。
 多少は剣を使えるが、ラビアン自身、戦闘要員と言うにはあまりにお粗末なのだ。小柄だから俊敏ではあるが体力も腕力もない。それに、もし何かあったら彼女にご執心なトゥエルが黙っているとは思えず、要は余計なことにまで気を配らねばならない状況にやや辟易していた。
「乗りかかった船だ。最後まで付き合う」
 要の危惧をよそにラビアンは少し不機嫌そうに返す。そして、隣に座って剣の手入れをしていたトゥエルを見た。
「おい、守れよ」
「当然だ」
 ぞんざいな姫君に王は鷹揚に頷く。これはこれで面白い組み合わせであるが、相手が神と魔獣となると、要にはどうにも分が悪いような気がしてならない。極限状態では他人はおろか自分の身すら守ることが難しいのだ。現に要は、戦いの最中はいつも周りに気を配るゆとりがなかった。
 はじめのころよりは幾分と余裕がでてきてはいるが、人を守りながら戦うにはほど遠い。下手をするなら、戦闘要員として数に入れられている要自身も足手まといになることも考えられた。
 魔獣が増えれば、戦いはさらに過酷になっていくだろう。休む間もないほど攻め込まれれば、体力がないラビアンがまず一番に犠牲になるのではないか――それを確実に回避したいなら、この場に留まらせるべきではない。逃げるなら魔獣が少ない今がチャンスだった。
 どう説得しようかと悩んでいると、
「無事に国に帰ったら結婚してやってもいいぞ」
 いきなりラビアンはそんな言葉を口にして、にやりと笑ってトゥエルを見た。明らかに挑発するような口調に要はぎょっとしたが、トゥエルは怒るそぶりもなく剣を握りなおした。
「本当か?」
「ああ、いいだろう。ただし貴様が国を捨てろ」
「……」
「できないなら、私のことはあきらめるんだな」
 ラビアンが一人娘なら、トゥエルは王家の血を色濃く継ぐたった一人の男だった。国を捨てろということは、今まで守ってきた国民を見捨てろという事だ。
「トゥエル様」
 じっとラビアンの顔を凝視していたトゥエルに、彼の近辺警護を任されているジョゼッタが焦ったような声をあげた。
 国の内情など興味のない要だが、さすがにそれは無茶な条件だとわかった。冗談めかした軽い調子で言われた内容は、小さな集会の委員をおりるというレベルではなく――要は唸り声をあげる。一国の王が日本規模なら誰が該当するのかと考えたら、天皇陛下か総理大臣しか思い当たらず、要はちらと困惑するジョゼッタを見て痛み出した頭を押さえた。
 あきらめさせるために言ったのか、ただからかっているだけなのか――難しい顔で考え込むトゥエルの様子を、ラビアンが楽しげに見つめている。そうか、これは意外と悪女系なのかと、要はどこか疲れたように納得した。
 ――そして、ふと。
「要? どうしたんだ」
 ラビアンの言葉に顔をあげると、胸の奥がきりきりと痛んだ。なにか得体の知れないものが喉の奥からせり上げてくると同時、目頭が熱くなって要は息をのむ。過去に何度か経験したこの変化は、要本人の感情によるものではなく、幼なじみである陸に影響されておこったもの。
「あのバカ……!!」
 顔を伏せると、涙がこぼれ落ちた。胸をえぐるような痛みは過去に一度も感じたことがないほど強烈で、呼吸さえ困難なほど彼を苦しめる。胸の内に広がる陰鬱な感覚は、例えようもなく不快で重苦しかった。陸の状況などわからないが、直面した感情なら手に取るようにわかる。
 これは、絶望というヤツだ。
 数日前から奇妙な感覚が続いていたが、これでようやくはっきりとした。こんな感情を抱えたまま陸は破壊神と呼ばれるものと対峙しているのだ。
「何やってるんだ」
 苛立ちが唇を割る。判断を誤った――そのとき、要はようやくそう思った。古代樹に女神の血を与える行為は、その樹を破壊しているオデオ神との接触を誘発する。オデオ神はキメラに宿り、そのキメラを、陸は――。
「助けられないなんて思うな。お前があきらめてどうするんだ」
 けれど絶望は底なしで、じんじんと響いてくるのは嘆きの波動ばかり。陸、とどんなに呼びかけても、闇の中に沈みゆく感情には届かなかった。
「要、何が起こってるんだ?」
 ラビアンの声に要は濡れた瞳をあげた。なんでもないとそう返したが、情けなくもその声は震えていた。ここまで感情が乱されるとは思っていなかった要は、きゅっと唇を噛みしめて目を閉じた。
 それからもう一度、違和感を覚えて瞳を開ける。
 顔をあげ、要は辺りを見渡した。
「おい、いったい何なんだ」
 さすがにトゥエルも口を開いた。
「なにか――」
 要は皆の視線を受け止めながらも森へ鋭い視線を向ける。なにか、近づいてくる。恐ろしいスピードで、まっすぐに、迷うことなく、何かが。
「なんだ……? あれは」
 うめいた直後、緊張が全身を包んだ。とっさに剣を抜き、要は森を睨み据えた。
 来る、と胸中で言葉を吐いた。
 それが自分の言葉だったのか礎の女神のものだったのか、そのときの要にはよくわからなかった。
 ただ、確信があった。
 森の向こうに、破壊神がいる。


←act.89  Top  act.91→