act.89  今日の仕事


 馬――のような生き物と、見た目立派な恐竜≠駆って、陸とクラウスは日の暮れはじめた山道を突き進んでいた。息すら凍りつきそうなほどの冷気が鋭く肌を刺し、手綱を握る指さえ感覚を失っていくが、二人はただ前方だけを睨みすえて先を急ぐ。
「陸」
 不意にクラウスが怒鳴り、視線をやった陸に顎をしゃくってみせた。
「民家だ。宿を借りるぞ」
「まだ――」
「もう日が暮れる」
「けど」
「オレたちに野営の準備はない。体を休める場所がなければ凍死する」
 刻々と気温が下がっていくのは気のせいなどではなく、吐き出す息は確実に白さを増していっていた。
「それに、馬も休めなければ、……昼から走りづめだ」
 何度か短い休憩を挟んでいるが、クラウスが危惧するように馬≠スちはそれぞれに疲労の色が濃い。陸はぐっと手綱を握りしめてから息を吐き出した。
「わかった」
 闇雲に進んで足を失えば、逆に多くの時間が必要になる状況も考えられる。こうして彼らを背に乗せ走っている馬たちも、彼らと同じく生きているのだ。腹が減り、疲れ、痛みを覚えることもあるし怪我だってする。
 どんな状況でも――いや、こんな時だからこそ、大切なパートナーをねぎらうことを忘れてはいけないのだろう。
 手綱を引き、馬のような生き物――ポチを誘導すると、クラウスも彼について恐竜もどきを器用に民家へと向けた。宿の交渉は、基本的にクラウスが担当する。陸の方が人懐こくて交渉向きなのだが、彼の容姿は――正確には、彼の髪型や雰囲気はこの辺りではひどく珍しいため、すぐに警戒されてしまうのだ。しばらく言葉を交わしていれば誤解を解く事もできるのだが、一般的な旅姿で固めても、なぜか陸は盗賊を連想させてしまうらしい。
 いつでも噛み付く準備を万端にしたポチを警戒しながら、陸が民家から少し離れた場所でクラウスの奇獣とポチの手綱を持って待機していると、すぐにクラウスが家人とともに戻ってきた。
「まあ、本当! 純血種なんて珍しいわ!」
 駆け寄ってきたうら若き娘がポチを見つめて大げさに手を打ち、そして奇獣を見上げて再び声をあげる。
「こちらも珍しい――キメラ? 魔獣?」
「一応は魔獣の類のようだが、借り物だから詳細はわからん」
「そうなの? でも凄いわ。一度に見たの、はじめてよ。魔獣はもともと聖獣であったという伝説があるの」
 少し警戒しながら娘は二頭に近づいていく。
「この子、きっと大切に世話をされていたのね」
 じっと見つめてから微笑んで両手を差し出すと、奇獣はフンフンとにおいをかぎ、女好きのポチは目尻をさげ、いつにない勢いで彼女にすり寄った。
「魔獣は生来、人には懐かない生き物なんです。きっと子供の頃から飼われてたんだわ――この子たち、納屋に案内しますね。ついてきてください」
「よく知ってるな」
 ポチに体ごとすり寄られてよろめいている娘にクラウスは感心して目を瞬いた。
「ええ。わたし、自称生物学者ですから。っていっても、絶滅に瀕する種を調べているので――本当、純血種って珍しい。この口とひづめに特徴があって」
 傾きながら歩いているのに娘の顔には迷惑そうな色はなく、逆に興奮するように紅潮していた。馬に興味のない陸は生返事をし、クラウスは熱心に話に耳を傾け、三人は納屋に入って二頭を柵の中に入れ、たっぷりの飼葉と水を用意してその場を後にした。
「――それで、頭もよくて」
「……いい、のか」
 そうかこれがいいって言うのかと、すっかりご機嫌なポチを肩越しに見て陸は溜め息をつく。現金な馬は飼葉をみ、ちらりと娘に流し目まで贈っている。
「……お前、本当に本当は馬じゃないだろ……?」
 脱力した陸は、そのままクラウスに引っぱられて彼女の住む家に足を踏み入れた。
「えーっと、お父さんとかお母さんは?」
「ずいぶん前に」
「……あ、うーんと、ご兄弟は?」
「一人っ子で」
「……オレ、盗賊じゃないです」
 陸はひとまずそう断ってみた。服装が盗賊っぽくて間違われるならまだしも、雰囲気が野蛮でそれと誤解されるのはさすがに辛い。だが、否定したからといって納得できるものではないことは彼もよく知っていた。
 確実に厳しさを増す寒さの中に放り出されてはかなわないとひかえめに訴えると、娘は小さく笑い声をあげる。
「わかりますよ。森には家が一軒、人はときどき前触れなく訪れます。よくない人だってたくさん来ますから」
 テーブルを囲んだ丸椅子に腰掛けるよう指示され、陸とクラウスは大人しくそれに従った。彼女は色とりどりのカップの中から青いものと白いものを取り出し、暖炉の火で煮立っていたスープを取り分けて二人に差し出した。
「あ、どうも」
「すまない」
 簡単な礼とともに、空腹を覚えていた二人は素直にそれを受け取って口元に運んだ。
「赤いカップには、毒が」
 二人がスープを飲み込んだのを確認し、娘がにっこりと笑う。
「緑のカップには痺れ薬、黄色いカップには眠り薬――ここには、いろんな人が来ますから」
「あ、あの、青いのは」
「それは普通のお客様用です」
 硬直しながら問いかけると、笑顔でそんな答えが返ってきた。なるほど逞しい――と、納得しながら陸は少し酸味のきいたスープを喉の奥に流し込む。香辛料がきいているのかもしれない。胃の奥からじわじわと熱が押し寄せてきた。
「あの純血種の持ち主は?」
「オレだけど」
「ここから北に行った牧草地帯に純血種を保護する地区があるんですが、よければ一度立ち寄ってみてはいかがです? あれだけ血を濃く残す馬はそういません」
「……って、言われてもな。オレたち先を急ぐんで」
「そうですか……」
 しゅんと肩を落とされ、後ろめたい気持ちになった。しかし、いくら相性が悪くてもたった一つの足を手放しては目的地に到着することさえできなくなる。一宿一飯の恩義には報いたいが、これだけの強行軍を強いてたえられる馬が早々手に入るとは思えなかった。
 ――あの凶事から、二日目。
 剣を抜くのを躊躇ったばかりに人が死に、救おうとした少女には更なる苦痛を与える結果となった。
 聞こえたのは頭蓋を砕く音と、リスティの悲鳴――。あの極限の状態で陸は動くことすらできずに立ち尽くし、ココロに剣を振り上げるクラウスと、とっさにココロを守ろうとしたリスティを愕然と見つめていた。
 渾身の力で振り下ろされた剣を受ければリスティの命はなかっただろう。誰も彼もが混乱の渦中にあったにもかかわらず、クラウスはかろうじて剣先の軌道を変えた。
「……お前がいてくれて助かった」
 夕食の支度をはじめた娘――セシルの後ろ姿を見つめながらクラウスは低くつぶやいた。
「アルバ神の力がなければ、リスティは死んでいただろう」
 剣先は逸れただけで、はずれてはいなかった。リスティはかろうじて即死をまぬがれたという状況だった。
 確かにアルバ神の能力でリスティは一命を取り留めたといえる。だが同時に、陸がいたからこそ失った命もあるのだ。
「……あんたの呪いも、今なら何とかなると思う」
 キリキリと胸の奥が痛むのを感じながらカップに視線を落とし告げると、陸の隣でクラウスは苦笑いした。
「まだいい」
「時限式の毒だ。取るなら早い方が」
「……いいんだ、今は」
 ぽつりと返してクラウスは沈黙する。オデオ神にかけられた呪詛は確実に彼の体を蝕んでいるだろう。原形をわずかにとどめたまま崩れ、融合し、確実に肥大していくココロの姿を思い出し、陸はぐっと歯を噛みしめた。
 ココロはキメラだ。寄せ集めの肉体は奇跡と偶然が魔力によって固定された結果で、あの姿はオデオ神が憑依しなくてもいずれ訪れたものであったのかもしれない。
 だが。
 嘲笑が耳の奥にこびりついて離れない。
 陸はきつく拳を握り締めた。オデオ神は、クラウスの従者にアルバ神の力の一部が宿っていたことを知らなかった。だが、それが神の本体≠持っている陸に還っても焦るそぶりも見せずに気配を消した。
 取るに足らない力だと判断したのだ。
 アルバ神の力は万能ではない。そもそも神の力というもの自体が万能≠ネどではないのだ。とくに死と生をつかさどると言われるアルバ神は、元あるものに力を加えて活性化を促すような能力が主で、それを逆に応用して死を招くこともできると言うだけで――本当に、大した力を持っているわけではない。
 オデオ神の力の一部を封じたのも、それが本当の理由だったのだろう。
 いくら双子の神と言っても、アルバ神の力ではオデオ神を止めることができない。彼の持つ力は、死にゆこうとするキメラすら救うことができないほどちっぽけなものだった。
「……オレ、なにやってるんだろうな」
 ちいさくもらすと、それを耳にしたクラウスが陸に視線を向ける。
「オレの力じゃココロを救えないんだ」
「……アルバ神は死と再生をつかさどる神なのだろう。細胞を活性化させるかそれを遅らせるかの能力があるのなら」
「うん。ココロの細胞の増殖と破壊を、遅らせることができる。――遅らせてやることしか、できないんだ」
 オデオ神が見放した以上、もうこれ以上ココロがこの戦いに巻き込まれることはない。だが、それは喜ぶべき状況とはならなかった。
「オレの従者をつけた。……あいつらは馬鹿じゃない。自分たちがやるべき事はちゃんとわかってる」
「……従者?」
 ああ、あのギャグ系のコンビかと、少しだけ笑った。
「あの魔獣と交換したんだ」
「交換?」
「旅の途中で知り合った男とオレの従者と魔獣をな。まさかオデオ神の従者をしているとは思わなかったが」
 どんな経緯なのかはわからないが、なかなかハードな旅をしてきたのだろう。頼りないように見えるが、一国の王子が信用をおくのだからきっと骨のある男たちに違いない。
 胸の奥で不安がとぐろを巻いているのを感じながらも、陸は慰めるように言葉を探すクラウスに頷いて見せた。古代樹を探して彷徨ってきた十日分の距離をできるだけ最短距離で移動し、そしてすべてにけりをつけることができたなら、今度は、ココロを救うための旅をするのだ。
 要はきっと怒るだろうが、――いや、心底呆れるかもしれない。
 それでも、たとえ一分いちぶの望みさえなかったとしても、どうしてもあきらめることができないのだ。
 楽しそうに嬉しそうに微笑むその姿が、今も鮮明に脳裏に浮かぶ。
 食事を終えて空き部屋に案内された二人は、木の箱を並べただけというベッド≠ノ横になって目をつぶった。しかし眠気は訪れず、陸は防寒具片手に静かに起き上がって部屋を出た。
 足音をしのばせ着衣しながら廊下を渡り、外へと続くドアを開けて一瞬だけ身をすくめて納屋へと歩いていく。
 隣接した森から木々のざわめきが聞こえてきた。強い風が吹くたびに悲鳴のように木々が鳴き、確実に地表から温度を奪っていく。雨が降れば確実に雪に変わるだろう、そんな底冷えするような寒さだった。
 陸が納屋のドアを開けると、まるでそれを待っていたかのようにポチが長い首を大きく動かす。
「よーお。……お疲れ様」
 いつものような覇気はなく、陸の声は外に広がる暗闇のように暗く沈んでいた。
 柵に近づくと、ポチはいかにも怪訝そうな顔で陸を見て、つづいてすっかり寝入っている奇獣へと視線をやり、もう一度陸へと視線を戻した。
「お前、ここのお姉さん好きか?」
 柵の前に腰をおろしながら問いかけると、ポチは大きく目を見開いてからまるで肯定するように首を縦にふる。ああやっぱりコイツ馬じゃねーやと内心苦笑しながら、
「どうせ女なら誰でもいいんだろ?」
 と、辛辣に問いかけた。呆れたことにこれにも肯定が返ってきた。
「どうやらお前、特別な馬らしい。純血種って……言われてもなぁ。オレには馬ヅラの変態にしか見えないんだけど」
 溜め息をこぼして不満げなポチに苦笑を向け、陸は言葉をつづけた。
「全部終わったらお前はここに戻ってこい。仲間がいるらしい。だから、――もし、オレになんかあったとしても、お前は自力でここに戻れ。わかったな?」
 荒い鼻息を少しだけおさめ、ポチはまじまじと陸の顔を見る。形は若干おかしくとも、きっと優秀な馬なのだろう。何か言いたげなその目をまっすぐ見つめながら、陸は微かに笑ってみせた。
「そーいえばさ」
 柵にもたれかかって瞳を閉じる。冷気に少しだけ身をすくめると、どかりと盛大な音を立てながらポチが柵越しに陸の隣に座り込んでいた。
 ふっと熱気が流れてきて、それを感じた陸が再び笑う。
「お前、王様があの魔獣に近づいたときそばにいただろ」
 浅黒い肌に赤毛という、なんとも派手な容姿のルーゼンベルグの王・トゥエルは、魔獣を見たときひどく驚いた顔をしていた。
 そのときの光景をなんとなく思い出しながらつぶやくと、ポチはふいと顔を背けた。
 魔獣というのは本来ひどく珍しい生き物で、人の前にあまり姿を現したりしない。それなのに、トゥエルは恐竜を髣髴とさせる生き物に平然と歩み寄っていた。
 近くにいたのはポチだけだったと陸は記憶している。そのポチは、実に興味深そうに――馬のクセに―― 一人と一匹のやり取りを眺めていたのだ。
 奇妙な光景の詳細を聞きたくて視線をやったが、ポチは大仰に体を動かして不貞寝でもするようにそっぽを向いてしまった。
 おまけに溜め息のように大きく息までつく始末だ。
「まあ……いいけどさ」
 陸もそのまま目を閉じる。
 眼裏を彩るのは雪のように舞い落ちる純白の羽、耳に残るのは楽しげな笑い声。すでに消えうせた過去は、あまりにも遠い記憶のようだった。
 目尻にじんだ涙を隠すように、彼はそのまま顔を伏せた。


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