act.88 冬に


 寒さが厳しくなると、村はいつも活気を失ってうらぶれていく。雪が降りはじめると村は外界から完全に遮断されてしまうため、村の男たちは天候をうかがいながら出稼ぎの準備におわれていた。
「本当に大丈夫なのか?」
 男は幼い娘を撫でながら低い声で女に問いた。視線は寒々と揺れる枯れ草の中にぽつりと建つ小屋にそそがれていた。そこは納屋として農具を収納するために使われていたが、今は別の目的で利用されている。
「大丈夫よ。悪い人たちじゃないわ」
 女はそう言って笑い、男の襟元を正してから軽く胸を押した。
「いってらっしゃい。今年はやけに冷えるから、風邪には気をつけてね」
 男はその顔に少しだけ戸惑いの色を浮かべたが、明るい笑顔に頷いて片手をあげた。
「じゃあ行ってくる。……母さんのいうこと、ちゃんと聞くんだぞ」
 娘の髪をかき混ぜるように撫で、彼は名残惜しそうに家を見渡してから背を向けた。後はなにも語ることなく、男は木枯らしの吹き荒れる大地を目的の町まで突き進んでいくだろう。
 女は無事を祈りながらドアに向かって深々と頭をさげた。神を信仰することのない彼女は、神に祈る言葉すら持っていない。ゆえに、その祈りは直情的でありながら純粋であった。
「お母さん」
 娘は彼女のスカートを引っぱり不安げな顔で見上げる。最近、いたるところに魔獣が出没するという。胸の奥をざわつかせるような不安は、彼女の娘が抱いているものと同じに違いない。
「大丈夫よ」
 それでも彼女は微笑んで娘を抱きしめた。あたたかくなるまで彼女の夫は帰ってこないのだ。これからしばらく家を守るのは彼女の役目だ。
 決心するように頷くと、不意にドアが大きな音をたてた。
「すみませんー」
 間延びした声ともに、もう一度ドアが激しく揺れて声が続いた。
「何か、布をいただけませんか? すみません、連れの調子がよくないようで……」
 夫には大丈夫と伝えたが、実際に見ず知らずの男を納屋にかくまうのはやはり心細い。一瞬だけ身をこわばらせたが、再度ドアをノックされ、彼女は慌てて不要な生地をかき集めて玄関に向かった。
 そして、緊張しながらドアを開く。
「ああ、申し訳ない。ほらジョニー、奥さんから布受け取れ。お、嬢ちゃん、これどうだ?」
 髭面の小男が会釈してから女にしがみ付く少女に風車を差し出してきた。きっと納屋にあったものを使って作ってものだろう。乾いた風に音をたてながら回る風車を、娘は警戒しながらも興味深そうに見つめていた。
「……もらいなさい、シャンティ」
 声をかけると娘は驚いて顔をあげ、それからおずおずと手をのばして風車を受け取った。
「じゃ、ありがとうございました」
 男たちがニカッと気のいい笑顔を見せると、女はほっと息をついてからドアを閉めた。やはり悪い人間には見えない――ただ、二人がここへ持ってきたものは、どこか真っ当とは思えなかったが。
 女がそう考えているちょうどその頃、ドアを背にしたトムとジョニーは緊張をといてぐったりとしていた。
「なあトム、怖がられてねーか、オレたち」
「そりゃ怖いだろ。旦那さんさっき出かけちまったみたいだし、母一人子一人じゃ不安で仕方ねぇに違いない。お前みたいな奴を、納屋とはいえ泊めてるんだからよ?」
「いや、あれはどう見てもトムの顔見て怯えてた」
「馬鹿言え、お前の顔だ」
「いーや、お前の」
「お前だって」
 わめきながら歩いていると、納屋にはすぐに到着してしまった。二人は顔を見合わせてから大きく息を吸い込んで、覚悟を決めるように頷いてから納屋のドアを押し開いた。
 納屋の中には左右に窓と明り取りの天窓があるのだが、窓はガラスが入っておらず、この寒さで開け放つのはさすがに堪えしめ切ってあった。にごった天窓から差し込んだ光だけが薄暗く納屋の内部を照らしている。
 納屋の奥から不快な音が響いていた。ただよってくる臭気は腐臭と呼ばれる種類のもの――。
 ちいさなうめき声は、ときおり途切れながらもつづいていた。
「痛いか、ココロ」
 近づきながら声をかけたが、すでに彼女には言葉は聞こえていなかった。肥大した翼は肉体の一部と同化し、更なる変化を繰り返している。人でもキメラでもない、それは狂気とさえ思える変容だった。
「ちくしょう……なんでこんな事になったんだ……いい子なのに。……こんなにも、まっすぐで」
 一途に、ただ大好きな人を求めて――たとえそれが死ぬためだったとしても、純粋に一心に探し続けて――そして得た答えがこれならば、世界はなんと残酷なことか。
 あの一瞬、リスティに向かってオデオ神が歩き出した時、主人を守るために身を盾にしたのはレイラだった。ココロが悲鳴をあげる中、オデオ神は彼女の体を使ってレイラの頭部を体内へと吸収した。
 最高にタチの悪い悪夢だった。
 リスティは身動きできずに立ちすくみ、クラウスは激昂してオデオ神を――否、レイラの遺体を抱きしめて口元をゆがめるココロを斬りつけた。
「もうムチャクチャだよな……」
 トムがうめいた。他にどう言っていいのかもわからない。オデオ神はレイラの脳から情報を入手し、すでに崩れゆくココロの体を捨てて、今度は礎の女神セラフィの依代をのっとるために姿を消した。
 その場にいる人間すべてに嘲笑をおくりながら。
 アルバ神を宿した少年陸≠ノ言わせると、依代のない状態は力がかなり制限され、オデオ神の行動も抑制されるという事だった。しかし、それで安心していい内容ではない。
 礎の女神がいる場所はすなわち、女神の心臓がある場所なのだ。それがオデオ神の手に渡ったら、更なる悲劇を呼び寄せる可能性もある。
 彼らは早急に礎の女神を宿したもう一人の依代のもとまで戻らなければならなかった。
「トム、ジョニー……」
 薄闇の中でもぞもぞと動く人影があった。二人は慌てて駆け寄り、先刻受け取った布を広げる。
「リスティ様、痛みますか?」
 久々に会うカルバトス公の一人息子は、放蕩王子にくっついて歩いている間にすっかり女らしくなっており、二人を大いに混乱させた。実は女なんだとクラウスに言われた時には、そんな馬鹿なと思う反面、十七歳でこんな可憐な男がいたら怪奇現象だとさえ思っていたので妙に納得もした。
 現在トムとジョニーの二人は、陸とクラウスとわかれて死の淵を彷徨うココロと怪我をおったリスティの面倒を任されている。
「すみません、私は……」
「いえ。……ココロを庇ってくれてありがとうございます」
 ココロからオデオ神が離れたのも知らず、彼女を殺すつもりで振り上げられたクラウスの剣を受けたのはリスティ自身だった。こうしてココロが生きているのは、リスティのお蔭なのだ。
「……私は」
 細い声が途切れながら、言葉をつむぐ。
「間違っていたのでしょうか。ココロを助けたいと思いました。けれど、手を出さず口を挟まず、……そうしていれば、こんな事には……!」
 ボロボロと大粒の涙が零れ落ち、リスティの手の甲にあたって弾ける。ココロを生かすのがどんな苦痛を呼んでどんなに残酷なのかは間近にいれば嫌でも知ることになる。それならばいっそ、楽に死なせた方が彼女のためなのかもしれない。
「私さえいなければ、レイラだって死なずにすんだのに!」
「……レイラは死ぬことを覚悟して、リスティ様を守ったんですよ」
「オレもそう思う。この旅に同行した時から、覚悟は決めてたんじゃないかって」
「え……?」
「オレたちがそうだからな?」
「ああ、クラウス様について歩くときゃいつも命懸けさ。運がよけりゃ生きて帰れる」
「オレたちゃ今まで運がよかっただけさ」
「でもな」
「そうそう、でもな」
「もしクラウス様に何かあったら、オレたちが盾になる。それが従者だからな」
「そのクラウス様にリスティ様を任されたんだ。次は、オレたちがレイラの代わりに盾になる」
「だ――駄目です! そんなことは!!」
 青ざめたリスティに二人は苦笑した。こんな状況だが逃げ出す機会は幾度もあった。それでも立ち止まらず迷うことなく前に進んできたのは、大国であるニュードルの第四王子付き従者という誇りからだった。
「逃げることはできません」
「どうして!?」
「胸を張って国に帰りたいから。なあジョニー、酒は美味いほうがいいよな?」
「ああまったくだぜ、トム」
 信じられないといわんばかりに目を見張るリスティに苦笑を返す。リスティとココロをつれて安全な場所に身を隠せというのは、実際には受け入れがたい要望だった。しかし、クラウスの志をくんで、二人はその任を受けた。
 あの王子もこの旅を経てひとまわり大きくなっている。きっと笑顔で帰ってきてくれるに違いない。
 そして、陸と呼ばれた少年も。
「ココロ、頑張れ。全部終わったら、王都へ行こう」
 の地にはいまだ魔術師が多く存在するという。その力で、崩れていく体をなんとか元に戻せるかもしれない。
 多くの犠牲を得て生きつづけた体を抱えているのだから、元に戻ったからといっても単純に幸せになることは難しいだろう。それでも、願わずにはいられないのだ。
 刻々と崩れる体で、それでも大好きな人のもとへ懸命に向かおうとする彼女のために。


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