act.87  ハネ


 ゆらゆらとたゆとう景色は、まるで水中を揺らめくかのごとく。
「ふむ。翼をつけようか」
 低くしゃがれた感情のない声がつぶやいた――それが、一番はじめに耳にした言葉。
 水泡のように生まれては消える音たちは、ただ無意味に鼓膜を揺らし、世界というものの存在を密やかに彼女に伝えてきた。
「駄目だ、失敗作だ」
 そう語ったとき、ようやく声に感情らしきものが加わった。
 落胆とあきらめと、すこしばかりの苛立ちの波動。それはすぐに消え、声の主の興味は彼女から逸れて別のものへと注がれていく。
 開かれるはずの世界は暗転し、次に彼女はゴミ溜めの中で目を覚ました。
「これは……キメラか」
 若い男がいくぶん驚きを含む声を発する。ようやくの思いで巨大な男と腐敗した大地を確認していると、男は強い力で細い彼女の腕を掴み、無理やり彼女をその場に立たせた。しかし、いままでまったくといっていいほど体を動かさなかった彼女がうまく立てるはずもなく、彼女はすぐにその場に座り込んでしまった。
 男はちいさく溜め息をつき、品定めをするように冷徹な目で彼女を見おろした。
「まだ売るには小さいか……まあいい。暇つぶしくらいになる。頭に見つからないようにしないとな」
 不穏な声、不穏な笑い。そして彼女は、人の形をしながらも、まるで家畜のようにあつかわれ、海賊船の船底で仲間≠フ死を横目になんとか命を繋ぎとめてきた。恐慌状態がつづくと不思議なもので、心の様々な場所が現実を否定して麻痺していく。
 最後に残ったキメラの処分に困った男たちが彼女を外に連れ出したときも、これといって恐怖を感じることなく従った。
 船からおりて森の奥深くに連れ出され、そしてようやく、彼女は身の危険を察知した。
 逃げることもかなわずにただ丸くなって身を守り、何事かを口にし笑いながら単調な行為を繰り返す男たちの暴行からひたすら耐えた。とっさに頭部と腹部を守ったことが幸いし、主要部分を保護することには成功した。しかし、それは苦痛が長引くだけの結果となる。
 彼女の口からは悲鳴が漏れていた。
 鬱蒼と木々が生い茂るこんな森の中で助けてくれる人などいないとわかっていても、それでも痛みを散らすために叫ばずにはいられなかった。
「おい!!」
 不意に鋭い声が聞こえ、怪訝な顔をして男たちが動きを止めると声は不可解な言葉を告げた。
 うっすらと目を開けると、そこには見た事もない服装の少年が一人、どこかふてぶてしい好戦的な笑みで立っていた。まるでかかって来いとでも言うように人差し指をくいくい曲げると、それを見た男たちは怒声とともにいっせいに剣を抜いた。
 戦いというものをはじめて見る彼女は、その迫力に圧倒されて逃げる事もできずにもう一度丸くなった。どこに逃げようとも、次は自分の番なのだと確信を持っていたのだ。
 けれど少年は男たちを大地に沈めるとどこか人懐っこい笑顔を向けた。
 彼女は驚いて立ち上がり、そのまま近くにある木陰に隠れた。もう痛いことは嫌だと少年を警戒し、探るように彼を見つめた。
 そして目に映ったのは、困ったような彼の笑顔。
「――陸」
 ついて行っても大丈夫だと、彼女はそのとき直感した。
「陸」
 この人ならきっと自分を自由にしてくれるに違いないと――そう、思えた。そう、そのときは確かにそう思った。
 そして今も、そう思っている。
 はるか遠くの眼下に、彼は剣を手に立っていた。優しいけれど悲しげな目をしてまっすぐに彼女を見つめ微笑んでいる。深い眠りに落ちている彼女の意識は、いつになく鮮明な視界に喜びと同じぶんだけ嘆きながら、ただ忠実に足元に広がる巨大な湖を見る。
「アルバ神……よもや、邪魔立てしようとは」
 怒りを内包させた声音でささやくのは、彼女の――ココロの体を侵食したオデオ神だった。大きく羽を動かすたびに、骨がきしむ音と激痛が全身を駆け抜けていった。黒翼から骨が覗き、変形して増殖する。すでにそれは、翼とは言いがたい変容をとげ、負荷がかけられさらに形を崩してゆく。
 本来なら痛みで身動きひとつ取れないところだ。しかし、オデオ神はその痛みすべてをココロに背負わせ、何食わぬ顔で微笑んでいる。
「ココロ。そこ、苦しい?」
 優しい声音で地上にいる少年が問いかけてくる。精神を蝕むような苦痛にあえぐココロはその質問に頷きたかったが、結局それもできず、彼女はオデオ神の意識を通してただ彼を見おろしていた。
 視界に古代樹の幼木が映る。水面から生える化石の樹は、すでに女神の血を得て澄んだ音を奏でながら伸びやかに枝を広げていた。
 一歩およばなかったのだと、オデオ神が胸中で呪詛を吐く。
 多くの樹木を枯らし、世界の均衡を崩し続けた努力がようやく実を結んで逃れた運命を正しくたどり始めたというのに、古代樹が一本助かったことによりほんのわずかだがオデオ神の望む未来が遠のいたのだ。彼はまるで子供のようにこの状況に苛立っていた。
 そして、アルバ神を宿した陸に狙いをさだめる。
 アルバとオデオは双神といっても決して和解しあった間柄ではなかった。ただ同時にこの世に生れ落ちたという、たったそれだけの関係である。だが皮肉なことに持ち合わせる異質な能力は似通い、否が応でも互いの存在というものを認識せざるを得なかった。
 近すぎるがゆえに生じた摩擦は、何百年、何千年と蓄積され、そして――。
「どこまでも邪魔をするか」
 殺意という明瞭な形で露呈する。
 原形さえとどめない黒翼で大きく大気を凪ぐと、肌を刺すような冷気が巨大なうねりを作り上げる。逆巻く風の中心に剣を手にして立ち尽くす陸がいることを確認し、オデオ神は肥大した黒翼をたたんですさまじい勢いで降下した。
 アルバ神を宿した少年は、所詮はただの人間だ。基盤はもろい。降下の速度を利用して大地に叩きつければ臓腑ははじけ、一瞬で葬ることができる。そう確信し、オデオ神は顔をゆがめて嗤い――そして、息を呑む。
 大きく翼が大気をかくと、降下する速度がさらに上がる。彼は慌てて腕をのばそうと力を込めたが、いつもすんなりと動いていた体が今日はやけに重くてぴくりともしなかった。それなのに降下の速度は増していく。異常事態に気づいていったん体勢を立て直そうと考えたが、意に反して翼は動く兆しすらない。
 恐ろしいほどの速度で大地が近づいてくる。
 ――落下する。このままでは、大地に。肉体が。
 粉砕、される。
 すでに呼吸さえままならないほどの強風を浴び、オデオ神はようやく肉体の変調を知る。いつもは思い通りに動く体が、指一本まともに動かすことができない状況におちいっていた。これは一体どういうことだと自問自答している最中、その視界すら瞼によってふさがれて彼はさらに狼狽した。
 受肉すれば、使える能力は格段に上がる。だが、当然だがいいことばかりではない。この世の生き物は一様に短命で脆いくせに、恐ろしく貪欲で、まるで独りで死ぬのは恐ろしいと言わんばかりに同化した魂を取り込んでそのまま消滅するのだ。
 いくら神の力が強大でも、命の根源である魂にまで影響があるはずもなく、もっとも無防備な状態で打撃を受ければ存続さえ危ぶまれる。せっかく手に入れた依代だが、すがりついてもろとも死ぬわけにはいかない。
 それにもとより、この肉体が長く使えないことはわかっていた。
 生き物を寄せ集めた体はあまりに不安定で、存在さえ許されないとでも言うように些細な衝撃で均衡を崩し、瞬く間に破壊されるのだ。さすがに依代の体がここまで崩れてしまっていては、新たな器を探す必要がある。
 目の前の、あの肉は使えるだろうか。
 幸いにして、今感じるアルバ神の能力は彼よりはるかに劣っている。ならば無理に追い出す必要はなく、肉体ごと吸収してしまえば能力の増強にもなり都合がよかった。
 彼は瞬時にそう判断し、重い瞼を何とか開く。
 死に行くこの肉の器を捨て、新たな依代へと移れば同時に敵を減らすことも可能だ。笑いがこみ上げて口元が自然と歪んだ。
「陸」
 不意に彼の意に反し、唇がそう動いた。
 目を見開いた彼は、眼界の光景に息を呑む。想像を超えるほど巨大な湖のほとりには剣をかまえた敵が三人、そして、彼に仕えてきたおかしな従者が二人――。
「クラウス様!?」
「トム! ジョニー!? 無事だったか!?」
「ええなんとか。今はオデオ神の従者兼、ココロの御守り役で」
 髭面の小男は笑うなり、陸の肩を掴んだ。
「アルバ神の本体、こんな所にいたのか。お陰でオレたち大変だったじゃねーか。ま、とりあえず神様は還してやるけどよ」
 恨みがましい言葉とは裏腹に男の顔には安堵が広がり、言葉通りに不可思議な気配が男から少年へ移動した。それを見た瞬間、殺意が首をもたげる。まずあの従者二人を殺してやろうと目星をつける――しかし、唐突に奇妙な気配が膨れ上がり、彼は再び狼狽した。
 よく知る気配は、地上から立ちのぼってくる。
 身の危険を感じたオデオ神はとっさに依代から離れようと意識を切り替えたが、彼の焦りをあざ笑うかのようにそれすらうまくいかなかった。翼を動かそうにもピクリとも反応しない。
「ココロ」
 アルバ神を宿した少年が小さくその名を口にすると、唇が勝手に笑みを結んだ。これほどの精神力が矮小な生き物に備わっていたことに驚きながら、オデオ神は剣をかまえた者たちに向かってまっすぐに降下していく。
 剣を受けずとも、このまま地上に衝突すれば命を落とす。
「なあトム」
「ああジョニー。……ヤバいぞ。なんかおかしい――逃げろ!!」
 さすがに行動をともにしてきただけあって二人の判断は的確だった。叫ぶなり間近の人間の手をとり、すぐさま駆け出す。オデオ神は舌打ちして神経を集中し、肥大した翼に力を込めた。
 まだ、すべてを成し終えていない。未完成であった世界をほふる事こそが、この世に残された彼の使命であった。
小賢こざかしい」
 それを、たかがキメラ一匹に邪魔されようとは予想だにしなかった。
 彼は渾身の力で軋む翼を動かす。巻き起こった旋風は大地を舐め、降下した体にわずかな浮力を与えた。しかし、完全に持ち直すには遅すぎた。彼があやつる華奢な体は強風を受けて完全にバランスを崩し、強く大地へと叩きつけられていた。
 骨が軋み、臓腑がつぶれる感覚がした。鋭い痛みは体中のいたるところから脳髄を揺さぶるほど強烈に突き抜けていく。
「陸……最後に……」
 またもや彼の意思に反して唇が動く。悲鳴をあげる体を起こし、彼とはまったく別の意思がアルバ神を宿した少年を見た。少年は言葉を失って立ち尽くし、手にした剣をきつく握って体を小さく震わせた。
「これで楽になれる。だから、陸」
 ゆるりと動かした手から鮮血が滴った。草を染め大地を濡らし、命の雫は確実に失われていく。しかし、すでにそれすら気にとめていないように、その唇には淡い笑みが浮かんでいた。
「陸! とどめをさせ。もとより助からん」
「駄目です! 何か方法があるはずです!」
 風圧に膝を折った男が少年に命じると、森から飛びだした可憐な娘が真っ青になって悲鳴をあげる。男は牽制しながらも彼女を睨んだ。
「リスティ、惑わせるな!」
「でもクラウス様! これではあまりに悲しすぎます。セラフィなら何か方法を――」
 セラフィ。
 大地を守りし礎の女神。神々の意思にそむいて滅びるはずだった世界を救った裏切り者。
 オデオ神の胸中に閃いた感情は憎悪だった。人と接したのであれば、あの忌々しい女神も器を得たのだろう。器を得たのであれば――。
「その居場所、知っておるか?」
 二つの意思が入り乱れる体は破損が大きく、すでに均衡さえ保てずにいた。より強い意志が表面化し、その肉体を支配する。
 そして。
「やめろ……!!」
 少年の絶叫を背に受けながら、オデオ神は少女に向かって足を踏み出した。問いかけても答えが返ってこないのであれば肉体に直に訊けばいい。情報の多くは人の脳から直接取得し、彼の知識として蓄積されていった。
「リスティ様!!」
 オデオ神ののばした手に肉が触れる。交差するのは悲鳴と怒号。
 かまわずオデオ神は掴んだ肉の塊を引き寄せた。
 あたたかく甘美な感触とともに、頭蓋の砕ける音があたりに響いた。


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