act.86  蝋燭


 剣を振り切り要は荒く肩で息をついた。一時的に減った魔獣は、時間をおうごとに確実にその数を増している。彼らの目的は今も赤泉に沈んでいる女神の心臓なのだろう。要は額に浮いた汗をぬぐい、乱暴に剣に付着した血もはらって鞘に戻す。
「おい、ちゃんと手入れしろ。脂で斬れなくなるぞ」
 この世界に多く出回っているのは日本刀のように斬ることを重視した剣ではないが、腕力がさほどない要にはできるだけ切れ味のよい物が手渡されている。もう少しうまく体重を乗せて腕を振り切ることができれば多少は手入れがサボれる剣を使えるのだが、希望にそうような持ち重みのする長剣を要はまだうまく使いこなせない。
 よって、よく斬れるが手入れの面倒な剣を使うハメになる。
 要は溜め息をついてもう一度剣を引き抜いた。ラビアンの忠告どおり、剣にはべったりと脂が付着し払いきれなかった血が斑に残っていた。眉をしかめながら布で脂をぬぐい、水で清めて木の実から取れる特製の油分を塗り、これで一通りの手入れが完了する。
 単調だが毎度のこととなると意外に手間な作業だった。
「……魔獣の数は?」
「昨日より確実に増えてるぞ。しかし、十日目ともなるとへっぴり腰な剣士も様になってそこそこの戦力になるな」
 揶揄するように笑ってラビアンは石を一つ積み上げる。女神の能力なのだろうか、慣れない剣を握る両手には痛々しいまでのマメができ、そのほとんどがその日のうちに強烈な痛みをともなって潰れたのだが、次の日には綺麗さっぱり治っていた。そんなことを数日続けているうちに、まるで身を守るように手の皮は厚くなり、剣を持つのに適した状態になった。
 自分の物とは思えない手の平を見つめ、要は溜め息を返す。
 赤泉を守るため魔獣と戦うようになって十日――幼なじみである陸とわかれて、十日。あれから確実に状況が悪化しているのを考えれば、古代樹捜索が難航しているのだと予想できる。
 もともと確かな情報もないのに行かせたのだからあまり期待はしていなかった。
 していなかったが、しかし、まったく成果がないというのはどういうことなのか。
「いい加減にしろよー陸ー? オレはこんな人外魔境チックな世界にどっぷり馴染む気はないんだからな!」
 いったん鞘に戻した剣を、要はしっかりと握りしめる。間近にひかえる背の低い木々がざわめく瞬間、彼は剣を薙ぎ払っていた。
「おお。本当に見違えるぞ!」
 拍手までしてラビアンが驚いている。これが本来のオレだと豪語したい所だが、明らかに別の要素が働いていた。
 わずかに折った膝を戻すと、背後で肉塊が重々しく大地に伏した。要は事切れた魔獣を見るついでに赤泉へと視線を走らせる。血を得た心臓にどれほどの能力があるのかは未確認だが、その女神を宿した要には絶大な恩恵があるらしい。
 軽くなる体は治癒力を高め、恐怖は麻痺して敵を容易に察知することができるほど神経が鋭くなる。それは驚くべき変化であった。
 静かすぎる水面を眺めて考察していると、不意に小波が広がった。それが、はるか昔に命を落としたはずの女の心臓が刻む鼓動の現れなのではないのかと思った瞬間、奇妙な胸騒ぎを覚えて息をのんだ。
 いくら神でも、五体を裂き、細切れの状態で生きつづける事ができるのだろうか。双神と呼ばれるアルバとオデオは、すでに肉体を失って他者を依代として使わなければ存続さえも危ぶまれるというのに、なぜ彼女だけが肉体を持ち、世界をささえる礎として現在まで生き続けていられるのか。
 それは何という執着であるのか――。
「……誰が化け物なのかわからないくらいだな」
「要?」
「神様ってさ、全知全能でもっと寛容で、……争いが嫌いで慈愛に満ちてるって、なんとなくそんなイメージだったんだけどな」
「バカだな。神様だって生きてるんだ。世界に触れれば多少はおかしくなるさ」
 あっさりとラビアンは返す。
「あんまり期待するなよ? 神だって王だってお前と同じ生き物だ。地位があるからややこしい」
「……まあね」
 なるほど、そう言われるとわかりやすいなと要は苦笑する。恩恵にあやかろうと過剰に期待しすぎるから裏切られたと思い、勝手に失望してしまうのだ。実際、神様は気紛れで残酷だし王様は傲慢だし、目の前の王女様だって充分に自分勝手だ。それを思い返せば、期待がどれだけ無駄なのかもよくわかる。
「そういえば嫌な面子ばっかりそろってるな……」
 ぽつりとごちて、要はふたたび剣の手入れをして少しはなれた場所に掘ってあった穴に魔獣の遺体を放り投げた。そろそろ腐ってきてもいい頃だが、気温の低下のせいか臭いらしいものもなく、そこには立派な山が出来上がっている。
「トゥエルは?」
「ジョゼッタといっしょに武器調達。お前が使えるから助かったと言ってたな」
「そりゃどうも」
 ひとまず、女神様の助けがあるとはいえ彼らが納得できるだけの腕前になったという事らしい。ラビアンを口説き落とそうと躍起になるトゥエルは、本当なら彼女を連れて行きたかったのだろうが、さすがに視界の悪い森をうろつかせるのは危険だと判断したに違いない。彼は彼で、意外と気を遣っているようだった。
「それにしても冷えるな。大丈夫なのか、お前の幼なじみは?」
「どうかな」
「どうかなって……」
「わかるのは古代樹を見つけてないって事くらいで……本当、どんどん冷気が強くなって、氷の壁が――」
 語っている途中で要はあんぐりと口を開いた。不貞腐れたような顔すら不自然に歪み、それを嘲笑うかのようにどこからともなく不気味な音が響いてくる。
「なんだ?」
 怪訝な顔をしながら要の視線を追ったラビアンも同じように口をあんぐり開く。大地を揺るがすような地響きは刻々と大きくなり、それにともなって後退していたはずの氷の壁が確実に近づいてきている。そればかりか、世界の一部をつつんだ氷の壁の奥から、どす黒い塊が着々と二人のもとに近づいてきている。
「中はどうなってるんだよ!? 氷だろ!? どうやったら走れるんだ!?」
 慌てて剣を握りしめ、要はしゃがみ込んだラビアンをおいて駆け出した。女神の心臓を魔獣が欲しているのはわかる。そして、もし彼らに渡れば、それはおそらく原形さえとどめず引きちぎられ咀嚼し、彼らの胃へと納められるだろうこともわかっている。
 そうなれば、大地をささえる古代樹はオデオ神が手を下さなくてもいずれ自然と朽ち果てていくだろう。支えを失った大地が辿る道を考えた時には、恐怖など吹き飛んでいた。
 足を一歩、大きく前に踏み出す。
 確実に成長している氷の壁はひどく不快な音を繰り返しながら迫ってきている。その一部に亀裂が走り、どす黒い塊がぬるりと滑り落ちた。
 形が違う。
 要は一瞬、躊躇うように動きをとめた。以前のような獣の姿ではなく、それは植物の蔓のように奇妙な動きをしながら要に近づいている。
「おい、離れろ!!」
 鋭い声とともに腕を引かれ、要の体は大きくよろめいた。
「な、なに……!?」
「魔除けだ!!」
 びしりとラビアンが断言して腕を突き出すと、見覚えのある蝋燭がその手に握られていた。
「どうだ!?」
 嬉々とした表情で彼女は火のともった蝋燭を氷の壁から抜け出そうと悪戦苦闘する魔獣に向けている。効果があると確信しているのがその横顔からも知れる――しかし、魔獣はそんな彼女にはいっこうに気をはらう様子もなく、ひたすら体をうねらせている。
「ラビアン、それは?」
「魔除けと書いてある蝋燭」
「……確証は?」
「ここに書いてある」
 ぴっとさされた場所には見覚えのある字が刻んである。あのバカヤロウ、余計なことをするんじゃないと胸中で怒声を発し、要は気を取り直して魔獣に向き直った。
「それ、効果ないから」
「あるだろう! 魔除けだぞ!」
「ないって。それより、安全な場所に……」
 逃げろという前に、魔獣が一箇所に固まって奇妙な動きをとり始める。まるでバネだと考えた要は、自分の両手がラビアンを突き飛ばしていることに気づく。わけもわからず謝罪しようとしたら、今度は自分の体が別の方へ飛んでいた。
 手に持っていた剣が空を斬る。要が状況を理解した頃には、その剣は鋭くのばされた触手のような物を切り落としていた。
 第二弾が来るだろうと予期して構えたが、切り離された触手は暴れるだけで攻撃の気配がない。ほっと安堵して要はラビアンの方を見て、大丈夫かと声をかけようとした彼は、次の瞬間には我が目を疑った。
 触手の攻撃をかわすために要は彼女の体を押しやった。よろけた彼女は、どうやら蝋燭を握りしめたまま草むらに突っ込んでいたらしかった。寒さは厳しいものの、ここ数日は晴天続きで空気はよく乾いている。当然のことながら、乾燥した草はよく燃える。
「ラビアン!?」
「火が……っ」
 起き上がったラビアンは火を踏み消そうと奮闘するが、どうにも要領を得ない。加勢して火を消しに向かった要は、壁の一部が炎にあおられてえぐれているのに気づいた。氷の表面からしたたった水滴は滑り落ちるかと思った矢先に動きをとめ、壁から離れてちいさな玉になる。思わず手をのばした要は、指先からすり抜けてゆらりと移動する水滴を目で追った。
 ちいさな玉はそのまま要の頭上を超え、なおも上昇していく。茫然と眺めていると、水滴は瞬く間にその数を増やし、そのどれもこれもがはじめの一粒にならうように上昇した。
「あれは……」
 目を凝らして上空を見ているとえぐるような痛みが脇腹を襲い、要は低くうめいて視線を下へ移動させる。
「人が困っている時には助けるものだろう!」
 憤慨したラビアンの拳は、ちょうど痛みのあった場所にめり込んでいた。幸い火は消えたらしく、真紅の瞳が痛いほど要を責めてくる。
「悪い。あそこに、変なものがあって」
「あそこ?」
「雲の中。……なんだろう? まさかとは思うけど」
 半信半疑で口を開くと、
「水の塊が浮いてるぞ!?」
 要が躊躇って言葉にできなかった内容を、状況を確認したラビアンがあっさり口にした。
「雲の上に貯水庫があるのか!? あんなもの見たことない!」
 めり込ませた手を引いて、今度は要の腕をつかんで大きく揺さぶる。よほど興奮しているのか動きも言葉も支離滅裂だが、瞳だけは上空の水の塊を凝視している。
「水を溜め込んでる? なんの――ために?」
 言葉にした瞬間、ゾクリと悪寒が走った。答えを待つまでもない問いだと、彼自身が誰よりも理解していた。
「蓋の予備を作ってるんだ」
「要?」
 みしりと間近で氷の軋む音がする。氷の奥に点在していた黒いものは少しずつ大きくなっている。
「オレたち、無謀じゃないか?」
 たった四人でどうこうできるレベルではないのではないか――そんな不安が膨れ上がる。すべてを救うことが難しいなら、もっと効果的に確実に助ける方法を模索した方がいいのかもしれない。
 種が途絶えればそれは完全な滅びだ。それを回避するための、方法を。
 茫然と空を眺めながら思考だけをめぐらせている要の耳に鈍い音が届き、彼はとっさに視線を動かす。氷の壁の一部がはじけ、そこからふたたび得体の知れないものが這うように出てきていた。腐臭を放たないのが不思議なくらい崩れた顔がまっすぐ要を見つめている。
 にごった瞳が、笑みを刻むよう歪んだ。
「死にたいか!?」
 遠く、空気を震わせるほど鋭い叱咤が要の耳朶を打つ。はっと我に返り、要は慌てて剣をかまえた。馬のいななきが聞こえたと同時、要がのばした剣に別のもう一本が加わって魔獣の首が切り落とされ地面を転がった。
「オレの大切な女を守らせてやってるんだ。もっと真面目にやれ」
 大きく腕を上下させ、息を切らせてトゥエルが怒鳴った。興奮が醒めないのは彼ばかりではないようで、どこかで調達したらしい馬さえも蹄を打ち鳴らし、首を大きく振り上げていなないている。その後方に、顔色を変え氷の壁沿いに駆けてくるジョゼッタの姿があった。
「トゥエル様!」
「ジョン、どうだ?」
「魔獣がこちらに向かってきています」
「狙いは心臓か。――おい、要、しっかりしろ!」
 わかっていると返そうとして、要は低くうめいて胸を押さえた。鈍い痛みが胸の奥でじわじわと広がっていく。
 要はとっさに顔をあげた。
 澄んだ音が脳髄を揺らす。思わず両手で耳を塞いだが、音は途切れることなく続いている。
「要? どうした?」
 心配するラビアンの声がやけに遠い。要は両耳を押さえ双眸を閉じた。
「古代樹のひとつに血が届いた」
「本当か!? やったじゃないか!」
「……駄目だ」
 喜ぶ少女の声を否定するように要は低くうめいた。耳を押さえていた手はふたたび胸へと下りている。
 血と肉を少しずつ抉り取っていくようなこの苦痛は、要自身のものではない。
 考えられる可能性は一つ。
 神々の力を正しく受け入れた時点でとうに途切れたと思っていた感覚に要は息を吸うことすらできなかった。
「――陸」
 きっと彼は、笑っているのだろう。
 守りたかった者が自分以上に悲しんでいると知っているのなら。


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