act.85  海


 ふっと頬を撫でた冷気に陸は身を震わせた。慌ててコートを体の前でたぐり寄せ、大きくくしゃみをして首を引っ込める。寒いのはあまり気にならない性質だが、さすがに緩やかながらも日本とまったく違った早さで確実に厳しさを増していく寒さは身にこたえた。
 白い息を吐き出し、陸は間近にある巨木の根を軽く蹴飛ばした。
 威勢よく要と別れてすでに十日――行く先々で耳にする世界をささえる化石の大樹の噂はものの見事にガセネタだった。神が宿った木があるだの、霊験あらたかな木だの、奇跡を起こす木だのと言われて紹介された物は、ことごとく「普通」の樹木でしかなかった。
 気がついたら神を宿すハメになっていた少年は、一目見てそれがわかってしまうので便利な分だけ気落ちも激しい。刻々と凍てついていく大地を強行軍で旅を続け、すでにいくつかの土地を巡ったが、どれもこれもが空振りだった。
「こう、もっと感覚でピピッとわかるもんだとばっかり……なんでわかんないんだ。メチャクチャ不便だぞ、これ。近くならわかるのか? いや、そもそもアルバ神の力も不完全な状態なんだから、こういう状況は想定内で……ってゆーか、オデオ神、どんどん古代樹破壊してるんじゃない?」
 げしげしと木の根を蹴飛ばし陸はやさぐれる。気温の低下はそれだけ礎の女神の力の低下を意味するのではないか――いつになく鋭くそう考察し、彼は一人で青ざめた。オデオ神より早く古代樹を見つけ女神の血をおくって樹を活性化させたいのに、探しているものがいっこうに見付からないのだ。その間にも、敵は確実に守らねばならない樹を破壊してまわっている。
「ヤッバイよなー。絶対マズイよなー」
「ここにはないようだな、次に移るぞ。リスティ、文献は?」
「はい。ここから北に向かうとノーストワームという町があり、そこからさらに北北東に……」
 情報の多くは行く先々で見つける古い文献と人々の噂だった。あてになるんだかならないんだか、当たり前のように最新のニュースが電波で行き交うような情報社会を生きてきた陸にはさっぱり判断がつかない。誇張された噂ばかりにぶちあたっているせいか不安だけが小さく胸の奥で身じろいでいる。
 重い溜め息を吐き出して陸は巨木の奥にある水面を覗いた。広いな、と思って目をこらしたが、相変わらず対岸らしきものが確認できずに白いもやだけが世界を埋めていた。
「……対岸に古代樹があるとか」
 さっさと馬の手綱を引っぱる王子さまご一行にちらりと視線をやりながら陸はそうつぶやいた。ここら辺にあるらしい、というあてにならない噂だけを頼りにしてきたのだから、若干のズレは充分考えられた。遠回りになっても迂回して確かめた方がいいかもしれない。これから救っていく樹が、この世界をささえる柱となるのだ。一本でも多い方がいい。
 だが同時に、見付からないものを探してまわるような時間がないのも事実だ。もし対岸に回って何もなかったら、貴重な時間を悪戯に浪費したことになる。できればそれは避けたい。
「でも、このままじゃ一本も見付からないかも」
 考え込みながら延々と広がる水面をしばらく見ていると、陸、と名を呼ばれた。
「なにか?」
 不安げなリスティの問いに陸は慌てて首を振った。
「いや、なんでもない。ただ……」
「ただ?」
「ここ、気になる」
 胸の奥がざわざわするのがわかる。不可解としか言いようがないその感覚は、切迫する神経とは裏腹にまるで他人のもののように現実味がなくてひどくつかみにくい。
「なんだろうなぁ、これ。……緊張、してる?」
 首をひねっていると、水面を見つめたきり動かない陸を脇目に馬に固定した荷を手早く整理していたクラウスとレイラが近くの木に手綱を固定して戻ってきた。
「古代樹でもあったのか?」
 うっすらと白む、まるで海を思わせる水面に四対の視線が向かう。その表面に薄い氷が張っていることを認めると、小さな音をたてて亀裂が走った。
 なにかがきしむ音がする。氷の砕ける音かと思ったが、それにしては妙に軽い響だった。身の危険を感じたのか、クラウスとレイラが同時に剣を抜き、絶妙のタイミングでリスティを庇うように前進する。
 盛大な水しぶきが立ち、次の瞬間、水面に現れた魚影が高波とともに姿を現した。
「でか……!」
 果ても見えない水面にふさわしい、魚とは思えないモノが巨大な尾ひれを大きくふってふたたび水中に飲み込まれていく。海賊船で見た魚影をしのぐ生き物に、四人は逃げることも忘れて立ち尽くし、そして――。
「古代樹! 見つけた!!」
 陸は叫ぶなり、川だか海だかもわからない岸に駆け寄るために足を踏み出す。しかし、驚倒したリスティが真っ青になってその腕を掴んだ。
「危険です! あんな化け物……!」
「まかせろ!」
「あれもおそらく魔獣の一種だ。……見たことがないぞ、あんな生き物は」
 リスティにむかって大きく頷く陸に今度はクラウスが渋面になる。確かに巨大だし、おそらくは肉食なのだろうが、今はそんなことを理由に躊躇している場合ではない。古代樹があるのだ。すぐ目の前に。
 ふたたび水面が盛り上がる。押し寄せてくる水に驚き、四人はほぼ同時に身を引いた。
「だいたい、古代樹などどこにも」
「あるよ、あそこ」
「あそこ?」
「うん。あの魚類の額」
 ポケットをさぐり、陸は二人の腕を振り払って駆け出した。用心のために慣れない剣を抜き、片手にガラスの小瓶を握りしめてその蓋を口にくわえる。小気味よい音とともに蓋が外れるとひいていく水に小瓶からたった一粒、雫を落とした。
 一見するだけならただの水だ。清涼で無味無臭、何の変哲もない湖から湧き出た一滴だ。しかし、そこにあるものが加わることによって、それは普遍の力をもつ唯一無二のものへと変化する。
「巡れ」
 ささやきとともに水面で弾けた雫は、瞬時に広がり果てのないそこを覆っていく。ひき始めた水がまた押し寄せると同時、ピンク色の闇が水面から大きく口をあけた。
「これって、ヤバイ?」
 小瓶に蓋をして、それを何とかポケットに滑り込ませると、ぬかるんだ地面に足元をとられて逃げるどころかその場にとどまることさえ難しくなった。水が一息に引いていく――大量の水がぽっかりと開いた空洞に吸い込まれているのだ。その先が巨大な魚の胃であることをは考えなくてもわかる。慌てて手にした剣を大地に突き刺し、陸はそこに全体重を乗せた。
 冗談じゃない、と思う。
 救世主としてかっこよく死ぬならまだしも、名前もわからないような異界の魚に食われて死ぬなんて、あまりにお粗末な最期だ。
 全身を刺すような冷気がおおう。握力だけで剣にしがみつくことができなくなって必死に腕を伸ばすと、力任せに引っ張られ、水圧に流されかけた体が大きく動いた。
「無茶苦茶ですよ、あなたは」
 呆れたような口調で笑ったのは陸の腕を取ったレイラだった。ボディカードを務める女の腕力は陸の体を繋ぎとめ、その瞳は引いていく水面を見つめている。
「助かった、ありがとう」
 肩で息をしながらずぶ濡れの体を凍えた手でこすり、白い息を吐きながら陸も水面を見つめる。
「どうなったんですか?」
「……わからない。うまくいけば――」
 いくつもの波紋を広げる水面は先刻までの荒れはなく、静寂に包まれていた。
「うまく、いけば?」
「魔獣が元の姿になる」
 陸の声に反応するように水面に小さな波紋が生まれた。細く白い何かの先端がするりと水面からのび、それは瞬く間に太くなる。次々と水面からあらわれる同種のものは、入り組んで束になり、やがて一本の幹へと収束してく。
 陸は息をのんで空を見上げた。巨大な樹が宝石のように輝く水滴で身を飾りながら水面に突如として姿を現した、そんな、摩訶不思議な光景が目の前に広がっていた。
「これが、古代樹。……女神の四肢の欠片を取り込んだ、世界をささえる化石の樹」
 霧が薄くなる。ほんの少しだけ冷気がやわらいだことに気付き、陸はほっと溜め息をついて身を震わせた。魔獣の額に根をはった樹は、その影響を受けて変質していたのかもしれない。先刻とは明らかに形の違う樹を見ながら陸は大地から剣を抜いた。
 いくら使えなくても、武器は装備しておいたほうがいいのだなと納得する。小うるさく注意をしてきた要に少しだけ感謝して、陸はゆっくりと立ち上がった。
「……大きい」
「ああ、でもこれ、まだ幼木」
「これで幼木ですか?」
「うん。たぶん、かなり成長が悪かった部類だろうな」
 なにせ根付いた土台が悪い。きちんと大地に根を張れば、こんなサイズにとどまることはなかっただろう。
「無事か?」
 遠くから聞こえてきた声に振り返ると、乾いた服を手にクラウスが近づいてくるところだった。
「そっちは?」
「ああ、とっさに退避した。……ポチが」
 顔を引きつらせ、クラウスがちらりと視線を後方へやる。そこにはリスティを背に乗せたままこちらをうかがう愛馬のポチがいた。相変わらずこの馬は陸を主人だとも思わず足蹴にし、かわりにリスティとレイラによくなついている。リスティが荷物のようにポチにしがみついているところを見ると、ポチ自らがリスティ「だけ」を助けて逃げた可能性が高い。
 だが、あえてそのことには触れずに陸は苦笑いした。
「まあ無事ならいいや」
「火をおこすからしばらく待ってくれ。早く服を替えて、……あれが、古代樹か?」
「うん、まず一個目。思ったより探すの手間だな」
 歯の根が合わないながらもそう返しクラウスから服を受け取る。指がうまくいうことをきかないが、レイラと背中合わせになりながらもなんとか服を着替え、枯れ枝で集められてほそぼそと燃え始めた焚き火にあたった。
「さっきの魔獣は?」
「んー、水の中かなぁ」
「生きてるのか?」
「うん。ああいうのが神獣ってやつなんじゃないの? 本当は古代樹を守るためにいるんだと思う」
「……あれで大地を支えてるというんですか?」
 至極真面目にクラウスと話し合っていると、ポチからおりたリスティはしばらく水面にういた「島のようなもの」から突き出した古代樹を眺めてそう尋ねた。
 確かに、巨大な魚の額に生えている現状を考えればささえているというイメージではない。奇妙に思うのももっともなので、陸は火にかざした手をこすりながら古代樹を見た。
「均衡をたもってるって言うのが正確かもしれないけど、あれでちゃんと用は足りてるよ、たぶんね」
「……赤泉の水を手当たり次第に振りまけば手っ取り早いんじゃないのか?」
 考えるように口にして、クラウスは陸の顔を見つめる。ああ、やっぱり同じことを考えてるんだなと苦笑して陸は肩をすくめた。
「それいい案だと思ったんだけど、死にたいなら止めないぞって要に脅されて」
「穏やかじゃないな」
「心臓が魔獣を呼ぶように、血にもその効果があるみたいなんだ。たくさん持って歩けば、魔獣がよってくる可能性が高いってのが、要の意見。こういうのに関しては要の予想ってめったにはずれない上に、あいつって今、その女神様の依代になってるからなぁ、妙に信憑性があって困る。で、赤泉の水で魔獣が聖獣に変わるかは五分五分で、凶暴化する場合もある。あ、これは立証済みだから」
 赤泉のあるあの霊山には気味が悪いことに動く果実があった。微妙な知識だけを有した陸と要は、物は試しと言わんばかりにこっそりとその果実に赤泉の水を与え、その半分を喰うか喰われるかの凶暴な果実に仕上げていた。退治した際、ご丁寧にも悲鳴まであげてくれるのだ。
 あまり気持ちのいいものではない。うまく普通の果実に戻ってくれればいいが、そうならなかった場合を考えると頭が痛くなってきた。
 充分に体をあたため、陸はふたたび剣を抜く。
「んじゃ、そういうことで!」
「待て! なにがどういうことだ?」
「え? いま説明したじゃん、凶暴化することもあるって。一度吸収されればそれ以上の被害はないんだけど、やっぱり水って広がるんだよ」
 空気が緊迫感を持つ。冷気とは別のものがゾクゾクと背筋を駆け上がったのを感じて鋭く水面を睨むと、風ひとつないそこに波紋ができる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ――。
 レイラとクラウスが慌てて剣に手を伸ばした。
「もうちょっと考えて行動できないのか!?」
「いやぁ、つい」
「つい、じゃないだろう!」
 ぴしゃりと水をはじく音が聞こえると、クラウスは反射的にリスティを背後に押しやって剣を抜いた。玉のような雫が宙に舞い、ふと、動きを止める。高ぶった神経が一点に集中した。わずかな光を集める水の玉、そして、まるで天地が逆転したかのようにそれらが吸い寄せられていく空のただ一点へと。
 緊迫した空気を感じたのか、ポチはリスティのコートの襟を噛むと、鼻息荒く唖然とする彼女を引きずって後退をはじめる。
「よしよし、お前意外と利口だな」
 痺れるような空気を感じながら小さく笑い、陸は厚い雲に覆われた空を見上げた。間近にいたクラウスとレイラも息をのんで天空を見つめる。
 そこには錯覚と思うほど奇異な光景が広がっていた。
 飛び跳ねた魚らしきものが抵抗するかのように身をくねらせながら吸い上げられて「その光景」の一部に加わる。光が天空で屈折し、景色は細切れになって揺らめき続けて形を変える。ひとときも留まることなく流動する景色は、ひどく透明で奇怪だった。
「水が」
 すべての視線が一点へとそそがれる。水面から水滴を吸い上げる、その目を疑うようほど大きな「水溜り」へと。
 気流が乱れているのか暗雲が絶え間なく流れて天空の水溜りを消すが、錯覚と片付けるには無理がある状況だった。
「世も末だな」
 剣をおろし、クラウスがうめく。そして、とっさに胸を押さえてうずくまった。
「クラウス様!?」
「……陸、いるぞ、ヤツが」
「ああ。意外と早かったじゃん」
 ポチに引きずられたままのリスティがクラウスと陸の会話に目を見開く。そして天空をあおぎ、そこにいるモノを確認して顔色を変え、ポチから離れようと身じろぎした。
「ポチ、絶対に離すな。安全な場所まで退避しろ」
 剣を支えに立ち上がった男は蒼白となった顔を上空へと向けてそう命じる。陸の視線はすでに上空へと固定されていた。大気をただようように漆黒の羽が舞う、そのさらに上、見違えるほど美しく成長した漆黒の女を凝視する。
「ココロ」
 黒翼は肥大して形を変え、羽は散り、あらゆる場所から骨が突き出す。それでも飛翔にはまったく問題がないのか、大きく羽ばたくと刺すような冷気をまとった風が襲ってきた。上空から耳障りな音が響いてくる。それはきっと、彼女の体にあるあらゆる骨が軋む音に違いない。軋み歪んで、生きつづける限り確実に粉砕されていくのだ。
「……陸、あのキメラは……」
 異変を感じてクラウスが胸を押さえたままうめいた。
「あのキメラは、もう」
「わかってる」
 それ以上の言葉を拒絶して、陸は短く返す。いくつもの命を組み合わせ、神を降ろすためだけに創られた生き物は、神に選ばれれば絶望を、選ばれなければ苦痛の上の死を与えられる。
 ――それでも。
 救える命であると、思っていた。彼女を助けるために、ここまで来たのだ。
 勇者になりたかったわけじゃない。彼女が一人で泣いているのだろうと、そう思ったからこそきっとここまで来ることができたのだ。
「ココロ。そこ、苦しい?」
 あでやかに笑む女に陸は優しく問いかけた。


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