act.82  濁り


 翌朝は皆、見事な寝不足でフラフラだった。ただし、たった一人をのぞいては。
「いい天気だなー。おお、ポチ!! って、睨むなよ!」
「……なんであんなに元気なんだ……」
 冷気が満たす外に飛び出すなり白い息を吐き出しながら深呼吸してのびのびと体を動かす陸を見て、要はこめかみを押さえ肩を落とした。あとに続く旅の仲間たちも大差なく、今にも閉じてしまいそうな目を大げさにこすっている者までいる始末だ。
 それもそのはず、昨夜は床に直に寝るだけでも体がきしんでひどく痛むのに、その上、生まれたての赤ん坊がいる状態だ。大人しく眠っていれば可愛らしく見えるのに、一度ぐずり始めるともぞもぞと動き続ける。新生児だから静かなもんだなと機嫌のいい陸とは正反対に、その慣れない音が気になった他の者たちの眠りはすこぶる浅かった。野営は慣れてある程度の物音は気にせず眠れるようになった要も例外ではなく、朝があけても眠気を引きずったままである。
 霧がかかったように白む空を見上げ、要は溜め息をつく。
 昨日より幾分気温が下がっているような気がした。それは彼だけが感じたものではなく、誰もが一瞬その冷気に驚いて肩を揺らすほどだった。
 丈の短い雑草を踏みしめて外に出ると、高く澄んだ音がどこからともなく聞こえてきて、陸と要は同時に動きを止めた。
「何かあったのか?」
 足元を凝視した要にラビアンが声をかけてくるが、彼はそれに答えず息を殺した。そして、陸も同じように足元を見つめていた。
「要、これってさ」
「……ああ、たぶんな。礎の女神が封じてた結界が解けたから、冷気が流れてるんだ」
「わかるように説明しろ」
 苛立ったラビアンに肘で小突かれ、要はちらりと彼女を見た。いつも以上にぞんざいなのは寝不足で不機嫌になっているからだろう。同時に、陸はクラウスに回答を求められて困ったような表情になる。
「神話の時代、神様ってやつはこの世界がいらなくなったから水没させて、その上に蓋をしようとしてたんだ」
「蓋?」
 要の言葉にラビアンが眉をしかめる。彼女に頷いたのは陸だった。
「そう、氷の蓋。霊山の氷の壁が、たぶんその一部なんだと思う。……崩れかけてたのって錯覚じゃなかったんだな」
 重く息を吐き出して、
「世界を覆うくらいのものだから中和させないとまずい。あの祠ってちゃんと女神様の意思を反映させて封印の役目を果たしてたんだ」
 そうつぶやき、陸は要を見る。
「このままじゃ陸地ごと氷の蓋がされかねないな」
「そうするとオレたち」
「氷付けだな。家に帰るどころの騒ぎじゃない」
「だよなぁ。そういえば、結界を守ってた心臓を湖から祠に移動させるときも何かあったのかな? レナさん、何も言ってなかったけど」
 心臓を祠から出しただけで氷の壁が形成されたのだ。魔獣が増えたためとはいえ、心臓を移動させたときに何らかの天変地異が起こっても不思議はない。陸が首をひねっていると、要はああ、と小さく声をあげた。
「オデオ神かも」
「え?」
 要は陸の体を監察するように眺めた。礎の女神セラフィと同化して以来、なんとなく体に違和感を覚えることがある。それは小さく刺すような痛みですぐに消えるのだが、不意を付いて彼を襲い続けた。てっきり陸がいまだに怪我を負っているのかと思ったのだが、どうやらそれは勘違いだったらしい。
 彼の痛みは彼の中に吸収され――ならば、要が感じる痛みは。
「セラフィの痛み、か」
 すでに肉体を失った女神の四肢は大地に同化している。それが痛みを訴えているのであれば、原因は神々の意思を受け継ぎ世界をリセットしようとするオデオ神と考えるのが順当だろう。
「要?」
「世界を支えるための礎になっている樹がある。古代樹って呼ばれる、化石の樹木。……女神の欠片ごと砕いて回ってやがるな、あの野郎」
 瞬時に知識を掘り起こして要は歯噛みした。大地を支えるものがなくなれば、世界はふたたび水没するに違いない。そしてこの氷の結界が発動すれば、すべてが海底に飲み込まれて姿を消す。
「この世界の均衡が崩れ始めてるんだ」
 まっすぐ指を差す先には氷の壁が存在していた。昨日より大きくなっているように見え、陸は目を瞬いてから要に視線を戻し、小さく声をあげた。要が怪訝そうに眉を寄せると、驚いたような声が森の奥から響いてくる。
「旅の人かい? こんな山奥にようこそ――って、なんだあの壁!?」
 素っ頓狂な声をあげる男はぶるりと肩を揺らし、氷の壁を指差して口を大きく開く。腰にぶら下げた見知らぬ動物が力なく揺れるのを見て、軽く手を打ったクラウスが山小屋のドアを開けた。
「主人が帰ってきたようだぞ」
 端的な言葉にレナの驚いた声が続く。ドアを開けた彼女もまた、いま初めて気付いたのか高くそびえる氷の壁に目を白黒させていた。
「とりあえず、赤泉に行かなきゃな」
 陸が口にすると、近づいてきた男は顔色を変えた。
「森の奥へは行かないほうがいい、魔獣が増えてきている」
「魔獣?」
「ああ。……魔獣化してきているとでも言うべきか……」
 腰にぶら下げた小動物は、誰もが始めて見る生き物だった。深く溜め息を吐き出して、彼は氷の壁を警戒するように近づいてきた。
「人体に影響はない。食べてみたが味はもと≠フままだった」
 呆れたことに、すでに味見は終えているらしい。彼は家から出てきたレナに目を丸くして、状況を理解するなりこわばった顔を瞬時に崩しながら奇声を発しつつ家の中に飛び込んでいった。
 そして、すぐに顔を出す。
「食事はどうだい、旅の人! レナ! 恩人に粗相のないようにな!」
 この緊迫した空気すら蹴散らし、待望の息子を慎重に抱き上げた男が満面の笑みで声をあげる。返答に窮する一同の反応を了解だと勘違いした男は意気揚々と家の中に引っ込んでいった。
「子供って最強だな」
 要が感心していると、
「だからオレたちも早く子作りにはげんだほうがいいと思うんだが」
 脈絡なくトゥエルがラビアンを口説きはじめる。一国の王様なのだから世継ぎだのなんだのという問題があるだろうし、陸が言ったとおり彼の病状が深刻なものなら焦ってしまうのもわからないでもない。
 しかし、公衆の面前で少年の格好をした少女を口説くのはどうかと思う。まるで変態のていである。そうして相変わらずラビアンはそんなことを口にするトゥエルに冷たい視線を投げかけていた。薬指にしっかり食い込んだそろいの指輪を忌々しそうに睨んで舌打ちさえしている。
「さあ、外は冷える! どうぞ中へ!!」
 微妙な沈黙が支配する中、暑苦しそうなほどの熱意で勧められ、一行はなんだか訳のわからない生き物が入ったスープを朝食として食べ、食事の合間に細かく道を訊いて、別れを惜しむ声を背に受けながら手土産までもらってふたたび深い森の中へと踏み込んだ。
 ジョゼッタが先頭、レイラが最後尾につく陣形に若干疑問を抱いた陸は、こっそりと要に近づく。
「女の人に守られるのって変じゃないか?」
「オレたちが役立たずで、後は王様と王子様なんだから仕方ないだろ。それよりお前、剣は?」
「拳で話し合おうかと思って」
「ふーん。あ、でかい木の実がある」
「って、無視?」
 ひでぇとぶつくさ言う陸を横目に真っ赤に熟れた果実に顔を向けると、それがもぞもぞ動いたように見えて要は足を止めた。大樹から釣り下がっている赤い実がかすかに揺れているのはきっと風のせいだろう。そう彼が思った瞬間、果実の表面に無数に存在する隆起が不規則に動いた。
「要?」
「……なんでもない、行くぞ」
 洒落にならないだろう、と彼は胸中でうめく。魔獣化するのが動物だけならまだしも、植物にまで影響をおよぼすなんて笑えない冗談だ。女神の心臓と結界が原因なのはわかるがはっきりとした理由がわからない今、一刻も早く赤泉に戻って数少ないカードを開く必要がある。
 自然とせかすように早足になった。
 一同はきつくなる冷気に体をこわばらせながら突き進んでいく。うっすらと白く染まった葉は寒さのためだろう。各々が吐き出す息がいっそう白くなっていく。
 そして、森を抜けた先に広がる沼地に足を止めた。
「赤泉は?」
 ジョゼッタが辺りを見渡し、小さくうめいた。あとに続いてぞろぞろ空き地に出た彼らは、あるはずのない景色に唖然として目を見張る。記憶が正しく、そしてレナの言葉通りであればそこが赤泉が存在する場所なのだが、広がるのはにごった水をたたえた沼地と、軋みをあげて迫ってくる氷の壁だった。
「場所間違えた?」
 陸が回答を求めるように要に問いかける。山中とはいえ、よく使われる道はそれなりに手入れされて通路となっていて、わざわざ道をはずれない限り迷うことはない。そうはわかっているが、どう見てもそこは昨日と違う景色が広がっている。
「いや、ここであっているようだ」
 沼地を凝視しながらクラウスが剣へ手をのばす。とっさにリスティを背後に庇い、彼はまっすぐ氷の壁を睨み据えた。不快な音が低く高く鳴り響いて辺りを満たすと、鋭く何かが裂ける音が聞こえ、氷に亀裂が入った。
「来るぞ」
「うそ、マジ!?」
 クラウスの声に悲鳴をあげたのは陸である。その声にはっとして、要は彼の腕を掴んだ。
「女神様の心臓持ってるな!?」
「あ、ああ、ここに」
「投げ込め」
「って、どこに!?」
「あの沼だ!」
「だってあの沼、なんか腐ってるっぽくない!?」
 刻々と濁っていく沼地はすでに泥のように変化している。しかも気泡まで出始める始末で、とても清浄なようには見えなかった。
「ずべこべ言うな! 突っ込め!!」
 氷の壁がさらに激しく音を立てる。欠片が剥がれ落ち、光を集めながら大地へと突き刺さった――その、直後。
 何かが上空を飛翔した。
 要はとっさに身をかがめ、振り返ろうとした陸の体を沼に向かって突き飛ばした。
「あ、しまった」
 手をのばしたまま、要は冷静にそう口にする。運動神経抜群で体力自慢で腕力もある男だが、不意打ちには人並みに弱い。とくに他に気を取られている時などはわかりやすいほど無防備になる。
 陸の体は要に押されるまま、バランスを崩しながらも確実に沼地へとむかっている。こういうときはバランス感覚がいいのも考えものだろう。普通ならそこで転倒しそうなものを、彼は律儀に奇妙な拍子を踏みながら沼地に向かい、あっと一声あげるや否や、女神様の心臓を懐に入れたまま沼の中に突っ込んでいった。
「あーあ」
 やっちゃった、と一人呑気に考え、慌てて振り返る。そして彼は硬直した。
 ライオンよりさらにひとまわり大きいだろうという獣が、耳まで裂けた口を大きくあけてうなっていた。大量に零れ落ちるヨダレが臭気を放ち、鋭い鉤ヅメのついた前足で深く土をえぐる。背中には巨大な翼があり、尻尾は二本。要にとってはすでに空想の世界を通り越した生き物だ。あまり突飛な姿に、低く唸り声をあげているにもかかわらず恐怖心すら麻痺している。
 剣を抜いた王子、王様一行に向かって威嚇するように唸り続けていたその魔獣は、不意に鼻をひくひくさせて要へと向き直る。さすがにぎょっとした彼を一瞥してふたたび鼻をひくひくさせ、その顔を沼へと移動させた。
 暗くよどんだ沼に落ちた幼なじみはいまだ浮き上がってこない。泳ぎは得意だったはずだから溺れるとは思わなかったが、そこはプールや海のような水ではなかった。助け出さないと溺れる可能性もある。とっさに足を踏み出した要は、真横で振り下ろされる剣さえ気付かずに沼地へ駆け寄り、手を差し伸ばそうとして動きをとめた。
 土色へと変色した沼が目の前に広がっていたはずだった。
 いや、さっきまでは確かにそうだったのだ。
「清水だ」
 背後で争う声がしたが耳に入ってこなかった。彼はすっかり変貌をとげた沼≠フ清水に手を差し入れ、しっかりとした感触にほっと息を吐き出す。
「自分で泳いでこいよ」
「いやー水の中でちょっと寝てた?」
 浮力を利用して引き上げた幼なじみは、要の暴挙を気にしたふうもなくずぶ濡れのまま平然と笑っている。
 ふと頬を撫でた風が冷気とは違うあたたかさを運んできた。
「これでしばらくはもつかな」
「結界?」
「うん。やっぱり心臓って液体がないとダメみたい。……しばらくはこれで均衡がたもてるけど、オデオ神が古代樹を破壊してまわってるなら……」
「そうだな。あっちを何とかしなきゃ」
「そうそう。ところで要」
「うん?」
「後ろですっごいデンジャラスな光景が繰り広げられてるんですけど」
「言うな。オレは人外魔境な世界なんて見たくない」


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