act.79  耐えられる


 いくつも交錯する光の内側で、少女は膝を抱いて丸くなった。
 とぷり、と音をたてて意識が闇の中にのまれ、すぐに光へと引き上げられる。
 とぷり。
「ココロ?」
 名を呼ばれて彼女は目を開け、光に包まれた世界に視線を泳がせた。
「どっちだ? ココロか? オデオ神か?」
 髭面の小男が真剣な顔で問いかけてきたが、ココロは返す言葉を忘れたようにその顔を凝視してベッドから体を起こした。
「と、トム、大丈夫か?」
「そんなこたぁココロに聞け。――気分、悪くないか?」
 顔を覗き込みながら質問され、ココロは辺りを見渡した。ときどき意識に白い靄がかかる。多くの知識を持ち合わせる神がその身に宿るがゆえに、彼女の精神状態はつねに不安定になっていた。
 もともとキメラというのは人以上に何事にも敏感にできている。感受性が高く体が丈夫という理由だけで依代に選ばれた肉の器は、生き物としての欠損が精神にまでおよび、虚構をかかえて短い生に身をゆだねる。
 多くの生体部品を組み合わせて創造されたキメラは、人の形をしていても人とは認められない生き物だった。
「……ココロ?」
 名を与えられる事もなく死んでいくはずだった命。
「陸はどこ?」
 夢の中では会えるのに、目を覚ますと彼の姿は消えている。肉体が有する時間はあまりに短く、彼といっしょにいられる時間は確実にすり減っていく。
「陸……っ」
 以前はオデオ神に支配されていても彼の意識を通して外を見ることができたが、最近では完全に闇の中に閉ざされてしまうようになった。いつかその命すら、神と呼ばれるものに呑み込まれて跡形もなく消え去ってしまうのだろう。
「陸、は……」
 その前に、せめてもう一度――。
「しっかりしろ! おい!」
 肩を揺すられココロの視界は大きく揺れた。ようやく目の前の男に焦点を合わせると、緊張した顔に少しだけ安堵の色が浮かぶ。隣から覗き込んでいたジョニーもココロを確認して笑顔を見せた。
「オデオ神じゃないみたいだな」
「最近、出てくる率が高くなってるから心配したぜ」
「なあ、今のうちに祈祷師とかに頼んでみるとかどうかな?」
「やめとけ、被害が大きくなるだけだ」
「でもよぉ、このままじゃ古代樹がなくなっちまうよ」
「わかってる。もう百本近い樹が枯れた」
 トムの言葉にココロが目を見張った。古代樹は世界をささえる大切な樹で、女神の意思を取り入れて水中に沈むはずの世界を浮上させて固定している。
「地盤が……」
 青ざめたココロにトムは頷いた。
「揺らいでるな、だいぶ。……地震が各地で起こってるらしい。いくつ破壊すれば水没するのか――世界が死に絶える瞬間に立ち会うなんざ、ぞっとしない話だ」
「私、が、死ねば」
「そういうことは、簡単に口にるすもんじゃねぇよ」
「でも、破壊神が私の中にいて、それが暴れてるんでしょ?」
 たくさんの言葉は、たくさんの知識とともに彼女の中に流れてきた。ようやく把握した状況に、彼女は自分ができる最善の策を講じて言葉にする。紛い物の命は長く持つものではないが、それでもオデオ神には充分な時間となっていた。
 結果などとうに見えている。
 はじめから死ぬ運命にあるのなら、何を躊躇う必要があるのだろう。
「私がいなくなれば」
「……お前一人の問題じゃないんだ。依代になれるやつが出てくればオデオ神はそこに宿る。一人殺しても一緒なんだよ」
「依代はいないの。私と、陸と、もう一人。他にはいないの。だから私が死ねば」
「今は、って話だろ。それじゃ駄目なんだよ。依代になる可能性のある人間を片っ端から殺して回るわけにゃいかねぇだろ」
「時間ができるよ」
 わずかな時間かもしれないが、対策を練ることができる。もしかしたら逃げ延びる方法があるかもしれない。これほど早急に世界が崩れていくのでなければ、あるいは混乱を最小限にとどめて破滅を回避する道を探すことが可能なのではないのか。
 いまなら犠牲はたった一つだ。
 不出来な部品を寄せ集めて作った偽物の命には、人と同じだけの価値はない。たとえその手にかけたとしても、今この時、ほんのわずかに心が傷むだけだろう。
「だから、早く――」
「あのな!」
 二人の会話に割り込むようにジョニーが身を乗り出した。
「オレはな、泣いてる女の子を見ると可哀想だって思うんだ。怖いのは皆いっしょだし、不安なのもわかる。だから、こうやってそばにいる者同士助け合うことも必要だと……思う。人か、人じゃないかっていうのは、今は関係ないんだ」
 彼女の背には大きな白い翼がある。それが異端の証拠なのに、やむを得ず同伴することになったトムとジョニーは嫌な顔一つしなかった。それどころか、白い翼を持った彼女に奇異の眼差しを向ける人々相手に得意げに自慢する時さえある。
 けれどこれは紛い物の命。この世に存在してはならないもの。
 誰もが本能で感じ取るがゆえの拒絶は、彼女が生きることすら否定する。だが、不思議とこの二人にはその類の感情が欠片もなかった。
 向けられるのは純粋な好意。
 ときに好奇心へと変化するそれは、不快なものではなかった。
「泣くな。な?」
 慌てて服の袖で頬をこすられてココロは少しだけ顔をしかめた。
「ちゃんと恋人にも会わせてやる。居場所、わかんないけどな」
「……そうだな」
 当面の問題を口にして、トムとジョニーはお互いの顔を見て苦笑いする。二人を見上げると、焦ったように咳払いして視線をそらされた。
「でもな、古代樹の位置関係から見てな、なんかわかりそうな感じが!」
 ジョニーの言葉にトムとココロは目を丸くした。
「わかるって何が」
「バラバラじゃないみたいなんだ。なんか規則的な……」
 ジョニーはマメに書き留めている古代樹のありかを記した紙を慌てて取に行き、広げながら戻ってきた。
 点々とした印には律儀に番号がふってある。地図自体は旅の途中で手に入れた古いものだが、後から書き加えられた真新しい文字はジョニーの手によるものだった。
「水の中に沈んでる古代樹もあったけど……」
「ああ、古代樹が枯れると水が一瞬でなくなっちまうんだよな。……セタの運河もそうだけど、どこに行ってるんだか」
「行き場所はわかんねぇけど、熱が出たときに腫れるのと同じ場所なんだ」
「……何の話だよ」
 ごしごし目を擦りながらココロが地図を覗き込むと、ジョニーはトムと地図を見比べながら難しい顔をして唸っていた。
「だから、これ、まるで人間の体みたいなんだよ!」
「体?」
「そう、古代樹のある場所を辿っていくと、……まるで人の体を端っこから描いてるみたいな」
 自信なさげに告げるジョニーの言葉を聞きながらココロも必死に地図を凝視する。人の形といわれればそんな気もするが、どうにも判断しづらい。しかしトムは、ああ、と納得するように頷いた。
「骨か」
「そう! ところどころ砕けてるっぽいけど、骨とか血管って感じなんだ!」
「……」
「……」
「……なぁ、ジョニー」
「なんだ、トム」
「……それはそれで不気味じゃねーか?」
「オレもそれは思ったけどよ。女神さまの四肢の欠片なら、そういう意味なんじゃないかって気がして」
 そう言葉を交わすと、二人同時に頭を抱えた。
「最後は何だ? 欠片ってことはいくつあるんだ? ああ、頭が痛てぇな、おい」
 地図が人体を示すならそれはまだ末端に過ぎない。ココロはもう一度目をこすって地図を見つめた。
 点を結べば線になる。線を辿れば――人の、体に。
 ココロは必死で大気を読み取る。線を辿った先の先、懐かしい気配が必ずあるはずだった。
 そう、長く続く地平線のどこかに彼はいるのだ。
 対立する神をその身に宿したまま。
 彼女はきゅっと唇を噛んだ。
 大丈夫、だいじょうぶ。こわくない。
 呪文のように胸の内で繰り返す。時折薄れそうになる意識を奮い立たせて彼女は自らに言い聞かせる。
 怖くない、と。
 己の内側で蠢くモノに初めて反発しながらきつく双眸を閉じてただ祈る。
 どうか少しでも早く彼に出会えますように。少しでも早く、この苦痛が終わりますように。
 その未来を彼にゆだねるのは、決して怖いことではない。たとえそこで途切れたとしても、きっと幸せだと思えるはずだから――。
 だからもう、怖くない。
 嫌な音を立てて崩れていく翼を視界にとどめ彼女は微笑む。
 とぷりと音をたて、意識が闇へと堕ちていった。暗く冷たい、深淵の内側へ。


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