act.78  凍った



 霧が動くとそれはいつの間にか頬を濡らす雨となっていた。瞬く間に下がっていく気温に身震いしてから、要は目を凝らして霧雨の中を突き進む。
「勝手に動くな」
 短い命令とともにジョゼッタの剣先が要に向けられた。
「――剣を引け、ジョゼッタ。味方か?」
「トゥエル様!?」
「ここで仲間割れしている場合ではなかろう。魔獣に囲まれたなら、エサは多い方がいい」
 きっぱりとひどい事を言う。こういうヤツは、何があっても自分だけは無傷で助かると思っているんだろうなと、要は笑顔を引きつらせながら考える。自分が犠牲になることは想定外なのだ。
 ふっとトゥエルが立ち止まって近くにある木に手をつき、一瞬だけ瞳を伏せた。寄せた眉がどこか痛々しげで、要は奇妙な胸騒ぎを覚える。
「大丈夫か?」
 思わず声をかけるとトゥエルはすぐに木からはなれた。
「ただの眩暈だ」
 急激な気温の変化のためなのか、トゥエルの顔は土気色になっている。しかし気遣われるのが気に入らない彼は努めて平然とした表情で歩き始めた。
 トゥエルはひどく顔色が悪いときがあり、そのたびに持病でもあるのではと要は疑問に思う。だが、言いたくないことを無理に聞き出す気にはなれず、一度も本人に訊ねてはいなかった。
「……素直に相談するタイプじゃないよな」
 釈然としないながらも言及をあきらめて再び目を凝らした。
 二人を誘導して歩く途中、相手も何かの気配に気付いたらしく動きをとめるのがわかった。剣をかまえた男と背の高い女騎士、そして少女らしき服装の人間。陸が言っていたとおりの面子のなかには、やはりどう見ても幼なじみの姿だけが見当たらなかった。
「ったく、あの馬鹿が」
 恐怖は怒りにおされて影も形もなくなった。要は魔獣が襲ってこないことを確認してから声を張りあげて見知らぬ三人を呼ぶ。彷徨っていた剣先がこちらに向くのが霧の中からわかった。
「陸の知り合いだ! アイツは!?」
 視界の利かない中での問いに相手は明らかに動揺して警戒の色を強めた。
「……当然か」
 あまりに不自然だ。魔獣と間違えられていきなり斬り付けられないようにと配慮して声をかけたが、まったく逆効果だったらしい。舌打ちすると、トゥエルが霧を睨んでから要を見た。
「人がいるのか?」
「ああ」
「……なぜわかる? 魔獣かもしれんぞ」
「人間だよ。絶対に斬るなよ」
 こちらの剣先も霧に向けられている。ヤバいなぁと胸のうちで溜め息をついたとき、脳の奥がざわつくような感覚に襲われて要は息を詰めてあたりを見渡した。
 霧の中に別の光景が重なる。
 そこは岩に囲まれた狭苦しい空間。清水のせせらぎがいくつも反響し、前方の岩場から湧き出したそれが足元を通って背後で次々と気化していく奇妙な場所。
「――陸?」
 要は瞬きを繰り返して問いた。眼前の霧は薄くなり、岩肌がいっそう鮮明になる。瞳は、洞窟の奥、清水がたまる場所を見つめていた。奇妙なことに窪みの中央には大きな石が祭壇のようにぽつりと置かれ、その上には――。
 とくりと、脈打つ。
「嘘だろ」
 要は知らずに口を押さえた。
「どうしたんだ?」
「り、陸のヤツが」
 どんどんそれ≠ェ大きくなる。視界の中に、嫌でも入ってくる。要はトゥエルを仰ぎ見た。
「アイツ、女神の心臓を取る気だ。魔獣が動く」
「何の話だ?」
「逃げるぞ」
「ラビアンは!?」
「陸といっしょだ。あっちは足があるから問題ない。問題なのは、オレたちのほうだ」
 要はトゥエルにそう返すなり霧の中に身を投じる。焦る二人がついてくるのを確認しながら、要は前方に向けて大声を出した。
「走れ! 結界が崩れる! 魔獣が襲ってくるぞ……!!」
 伝わってくるのは突飛な言葉に対する激しい動揺だった。うねる霧を抜けると、とたんに視界が晴れた。見慣れた陸の手が女神の心臓に触れる光景が脳裏に浮かぶのを確認して、要は唖然とする見知らぬ三人に駆け寄った。
「誰だ!? 止まれ!」
 向けられた剣先に苛々が増す。こんな所で時間を潰していれば、崩れた結界に飲み込まれかねない。こんな不安定なものに巻き込まれたらいくら要の体に女神の意思が宿っていたとしてもそう簡単に抜けられるとは思えなかった。
「セラフィ!」
 追いついたトゥエルとジョゼッタを確認してから要は鋭く女神の名を呼んだ。
「答えろ、セラフィ!」
 怒鳴る声にゆらりと何かが動く。要の体にまとわりついた物は水滴を巻き上げて人の形を以って、再生と破壊を繰り返すように何度も原形を崩しながら宙に浮いた。
 呆気にとられるギャラリーを無視し、要はちらりと霧の中を見る。
「空間を歪められないか? 魔獣に囲まれてるんだ。陸が、心臓を持って一つ目の結界を抜ける」
 それが魔獣たちを拒んだ女神の心臓を守るためのもの。そして、この霧自体がもう一つの結界――人間を惑わせ、一つ目の結界に近付けさせないための目くらましだったのだ。
「結界が崩れたらオレたちは出られない。セラフィ」
――無理よ。これは私ではない。だから、私の意志では動かない。
「セラフィ!」
――もう別の生き物なの。和が乱れてしまった。
 どこが苦しげに語るその顔は泣いているかのように歪んでいた。要は遠巻きに取り囲む黒い影が揺れるのを忌々しそうに睨んだ。女神の心臓が結界を出れば、結界を行き来させるために必要だった人間はただのエサに成り果てる。ひたひたと近づいてくる足音に戦慄が走った。
 ここから一番近い結界の切れ目はどこだと、要はわずかな同調だけを見せる霧に目を凝らした。
 そして同時に、集まってきた魔獣の群れに舌打ちした。心臓のあるあの場所まで誘導するように間合いがつめられている。狩りのようなその形態は、実際に陸が結界を抜ければ本物の狩り場に変わる。
「要」
「……わかってる。でも、ここを動くと、結界の切れ目が遠くなる」
「このままではやられるぞ」
「わかってるよ!」
 知らずに体が後退を始める。いくら剣術に自信があったとしても一寸先も見えないほど視界の悪い中、これだけの数を相手に戦うのは無謀だ。しかも、実際に戦えそうな人間は半数程度――とても勝ち目はなかった。
 要がきつく剣を握った。吐き出す息が霧にまみれていっそう白くなる。
「陸、止まれ」
 驚くラビアンをつれて、陸が女神の心臓を手に洞窟の結界を抜けようとする姿が脳裏に浮かんだ。ざわざわと空気が乱れる。
「陸……!」
 呼び声が聞こえたのか、彼は一瞬足を止め、虚空を見つめて小さく笑みを返してから再び歩き出した。あの鈍さはどうにかならないのかと罵倒したい心境に陥ると同時、森の空気が大きく乱れた。
 陸がラビアンを奇妙な生き物に乗せ、自分もその後ろにまたがるのが見える。狭い洞窟内で窮屈そうにしながら、鼻息の荒い生き物をなだめで手綱を握る。
 足が、一歩洞窟を抜けた。
 どこからともなく咆哮が聞こえてきた。緊張した空気がさらに乱れる。
 あの馬鹿がと剣の柄を握りなおした刹那、霧の中に沈む黒い影が間合いをつめるのをやめ、いっせいに同じ方角へ顔を向けた。
 清涼とした冷気が増す。
 空気が揺らぐと、魔獣たちがなにかに導かれ、堰を切ったように動き出した。
「なんだ!?」
 地響きに誰かが驚倒した声をあげる。
「ついてこい! 結界を抜ける」
 混乱する者たちの声を遮るように要は叫び、大気を乱しながら移動した魔獣たちにちらりと視線をやった。
「あの馬鹿……!」
 今度は本当に口に出す。魔獣たちが何を狙っているのか、いくら陸が能天気でも同じく神を宿した状態で察しないはずはない。いや、察しているからこそ――。
「本当に大馬鹿だ」
 木の根と石に何度も足を取られながら要は結界が途切れる場所まで駆けた。もうひとつの視界には、魔獣に囲まれながらも剣を振り回し、それを必死に切り抜ける陸たちの姿があった。
 歩き慣れない道に何度も転倒しそうになるが、それをこらえて霧が途切れる場所へと転がり込む。あとからついてきた者たちが二つ目の結界を抜けた数秒後、高い鐘の音のようなものが鳴り響いて冷気がきつくなった。
 吐き出す息の白さが増す。
 座り込んだ要の姿を見て、そこが安全だと知った仲間たちが荒い息を整えながら背後を振り向き、目を見張った。
 透明で恐ろしく高い壁が左右に延々と続いている。ついさっきまでは確かになかった。ほんの一瞬で形成された冷ややかな壁に手を伸ばし、その冷気を確認したトゥエルは要に視線をやった。
「氷の壁か?」
「陸が女神の心臓を持って結界を抜けたんだ」
「なぜ氷になる?」
「……女神の守護がなくなったからだよ。本当にとんでもないことを考えるよな、神様って奴は」
 水没させた世界を氷の下に沈めれば、自分たちの目には触れなくなる。それで何もなかったことにする気だったのだ。
「自分たちが作ったから自分たちの好きにするなんて……これじゃまるっきり、人間のエゴと同じだ」
 自分たちの配慮のなさから来たミスを表面上だけ消去して解決させ、それで納得するところなど稚拙としか表現のしようがない。だが、それが彼らの望みで、彼らにはそれを行うだけの力があった。
 だから、礎の女神が世界を守るために犠牲になったのだ。
 要は身震いして剣をささえに立ち上がった。深く続く森の中に動く影を発見して瞳を細める。
「……本当に馬鹿野郎だな、あいつは」
 遠くから手を振る幼なじみに脱力する。こんな状況でも安堵する自分に心底呆れながら、剣を鞘に戻して久しぶりにまともに見る幼なじみが奇妙な生き物から降りるのを待った。
「よ! 久しぶり」
 あっけらかんとした言葉に顔が引きつった。拳をぐっと握り、おやっと首を傾げる陸に向けて口を開く。
「歯ぁ食いしばれー」
「え!? えぇ!? ちょっとタンマ! 感動の再会じゃないの――!?」
「黙れこの猪突猛進男。だいたいお前がじっとしてないからこんなにややこしいことになるんじゃないか!?」
「そんなぁ」
「あのまま囮になって、もし何かあったらどうする気だ!? 自分のことをまず考えろ! 人のことはその次でいいんだよ!!」
 一番に狙われるのが女神の心臓だとふんだ陸は、魔獣をひきつけるため、それを手にあろうことか霧の中を迷走した。無数にできた体の傷を見て、要はその行動の意味を確信する。地上に降りたラビアンに目立った傷がなかったのは、彼女を庇ったからに他ならない。どうしていつもいつも、この男は自分を犠牲にすることばかり考えるのか――それが、本当に腹立たしくて仕方なかった。
「まったくだ、この愚か者。私まで殺す気かっ」
 要が殴る前にラビアンの蹴りが陸の向こう脛に炸裂し、次いでトゥエルの剣が彼に向けられる。
「オレの子を産む女に何かあったらどうする気だ、この野蛮人め」
 紅蓮の髪を逆立ててトゥエルが怒っている。すっかり怒りの持って行き場を失った要は、本気で怯える幼なじみに肩を落とした。なぜこうも頭の痛い協調性のない人間ばかり集まるのか不思議でならない。
「すまん、状況説明を」
 困惑した声が不意に聞こえ、皆の視線が声の出所へ向かう。
「とりあえず何がどうなってるんだ? それと、陸、お前が持ってるのは……」
「あ、無事だったんだ、よかった」
 陸が逃げるように駆け寄った先で、絹を裂くような悲鳴が聞こえ、少女が可憐に気絶する。ぎょっとした男は少女を支え、陸はしまったという表情をして手に持ったものに視線を落とした。
「あーこれ、女神様の心臓?」
 彼は脈動する臓器の一部を手にして、瞬時に離れていく仲間たちに途方に暮れた表情を向けた。当然の反応に苦笑しながら、要だけは動じずに陸に近づいていく。
「これがオレたちの切り札だ」
 そして、懐かしいと感じるそれに手をそえ小さく告げた。


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