act.77  雨


 陸は深い霧の中で馬もどきと王女もどきを連れて立ち止まった。何でこんなことになったのかなぁと首をひねった彼は、体にまとわり付く水の粒子に溜め息をつく。
 腕を撫でると水滴ができあがった。すさまじいまでの湿度は息苦しくさえあり、着々と水気を蓄えた服は重くなっていく。
 不意に肌寒さを覚え、
「寒くない?」
 問いかけて振り返ると、某国王女様は馬に縛りつけた陸の荷物を勝手にといて防寒対策の真っ最中だった。
「あー、もう好きにして」
 睨まれた陸は降参して両手をあげる。要もわりとマイペース――というか、自己中心型な人間だったが、ラビアンほどではない。そういえばまだ他にも連れがいたんだよなと思い至って心中複雑である。どんな相手にせよ、神様相手に立ち上がったならまともな神経でないことは確実だ。
 なんとなく馬っぽい生き物であるポチは、主人である陸よりラビアンに懐いてしまったようで、噛み切ったあとのある荒縄を首に引っ掛けて機嫌よく歩いていた。地面は木の根が入り組んでいて歩きにくいことこの上ないのだが、馬と少女は平然としている。運動神経には多少の自信を持っていた陸はそれを見て少なからず動揺した。ここには陸と少女と馬しかおらず、このメンバーで自分がお荷物になるなんて洒落にならない。頼りないが、逃げ腰なのをぐっとこらえて剣を握った。
 二メートル先も見えないほどの悪条件だ。吐き出す息が刻々と白くなっていくのに気付いた陸は、ただ事ではないことをようやく悟って足を止めた。
「なんだ?」
 男物の長いコートは小柄なラビアンのくるぶしまである。少し鬱陶しそうにしながら、彼女は辺りを見渡した陸に声をかける。
 寒さに気付いた彼は別の気配に息をつめた。
「なんか、音が……」
 言いよどんで陸が目を凝らす。ふっと冷気が頬を撫でた瞬間、彼ははじかれたように首をひねってラビアンの腕を掴んだ。
 唐突な行動にラビアンの表情が険しくなる。文句を言うように開いた唇は、すぐに彼が耳にした音を確認して閉じられ、代わりに見事な真紅の瞳が同じ場所を睨んだ。濃い霧の一部がうっすらと黒く変わると、何かを踏みしめる音が二人の元に届く。
 視界がきかないため距離がわからない。だが、大きく揺れる影は確実に二人のもとに近づいてきている。
「肉食だと思う?」
「さあな。どちらにせよ、逃げられなければこれまでだ」
 あきらめたような言葉には不思議と絶望の色が見えない。剣を抜いて警戒しながらも、陸はラビアンを庇うように歩き始めた。敵は一体、いくら視界が悪くても、ただむざむざと殺されるわけにはいかない。年上なんだし、男なんだし、ここは体をはって窮地を乗り越えるか、最悪、彼女だけでも安全な場所に届ける必要がある。
 陸同様に背後を確認するポチの鼻息がどんどん荒くなっていく。
「あ、お前の背中にのっけて安全な場所までいってもらえば――……」
 提案の途中で陸は奇妙な気配に言葉を切った。濃密な霧がさらに濃くなる。気温がますます下がり歯の根が合わなくなりながらも、一瞬の迷いを振り切って気配のある場所に向かって歩いた。
「陸?」
「なにか、いる」
「魔獣じゃないのか?」
「かもしれないけど」
「……違うかもしれない?」
 頷くと小さな雫が肩を叩いた。大気が動くと霧の中に別のものが混じる。驚いてあげた手に小さな雨粒が吸い込まれるように落ちた。
「雨だ」
 霧雨と言ってもいいほど細かい雨が小さな音を立てて霊山の下に広がる森に降りそそぐ。さらにぐっと気温が下がったような気がして、陸はラビアンの手を握りなおした。
「こっちだ――!!」
 気配が濃くなる。人ではない、ましてや魔獣でもないひどく澄んだそれは、意外にも陸を呼ぶかのように小さな音を奏でている。
「なんだ!?」
「聞こえるだろ!?」
「なにが!?」
「呼んでるんだ、あれは、あれは――」
 女神の。
 むかし、むかし、この世界が神世であったその時分、花が世界を埋め尽くしあらゆる樹がたわわに実をつけていたころ、大地はどこもかしこも楽園と呼ばれていた。永久に続く平穏は安穏とし、神々は次第にそれに飽きていった。
 そして、気まぐれに人というものの原型が作られる。それらが住みよいようにと動物を作り、自由に飛び回る鳥を作り、昆虫を作り、川には魚を放し、空には雲を浮かべた。巨大な箱庭はそうして着々と形を変え、かえるごとにどこかでバランスを崩し、少しずつ秩序が乱れていった。
 気まぐれに作ったものは気まぐれに捨てられる。彼らは、箱庭で起こる争いに見切りをつけて、大地を水中に沈めることによってリセットしようと考えた。
 率先して動いたのがオデオ、作り上げた命を奪うことにためらいを感じていたのがアルバ、そして、それに反感を抱いたのがセラフィ。
 なんとも簡単で、なんとも単純な話だった。
 神々の目を欺くためにセラフィは一度世界を水没させる。そして、監視がなくなった後に己の体を砕き、古代樹と呼ばれる世界の核に同化させて大地を浮上させた。
 多くの命が失われた大地だが、息づく命が皆無というわけではない。中には孤島に住み着き難を逃れたものもいる。その中には、神々に愛でられた獣も多く残っていた。
 過去に神獣と呼ばれた生き物たちは荒れた大地で生きることを余儀なくされ、理性を失って人や獣を分別なく襲った結果、魔獣と呼ばれるようになる。
 陸は驚くラビアンの腕を引いてひたすら前進した。
 魔獣がここに集まる理由はひとつ。過去の姿と力を取り戻し、神の御許に戻るため。細胞に刻まれた記憶を頼りに、彼らは神の御許に戻る理由もわからずこの世界で生き続けているのだ。
 しかし、穢れ果てた体では結界を抜けることができない。
 陸は霧の中を導かれるまま走った。強引に引っぱられて文句をつけるラビアンを無視して、彼は目を凝らす。
 黒い点が霧の中に広がっていく。低い唸り声と小枝を踏み折る音がいくつも重なった。
「近くだ」
「囲まれてないか!?」
「――セラフィの結界」
「おい! 聞いてるのか!?」
「女神の心臓」
 気温がさらに下がると霧雨と霧が同時に深くなった。走りながら陸がタイミングをはかって手を伸ばすと、指先が何かにめり込み冷気が去る。
「ここが霊山の祠、――伝説なんてとんでもない、ここは本体がいる場所じゃないか」
 つぶやきながら迷いなく未知の空間へと突っ込む。冷気が全身から去って、雨にぬれて重くなった服が一瞬で乾いた。
 視界が瞬く間にクリアになる。
 凛と張り詰めた空気は二人と一頭が訳もわからず突っ込んだ洞窟を満たしていた。
「……おい、あれは……」
 青ざめたラビアンの指が前方を指す。
「ああ、女神の心臓だ」
 陸は頷いて歩き出した。
 大きな岩の上に乗ったそれ≠ェとくりと小さく、まるで身じろぐように動いた。


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