act.76  擦れて生じる


 濃霧が視界を塞いだ次の瞬間、目の前からラビアンの姿が消えていた。
「トゥエル!」
 すぐ目の前にいる男の名を呼んで、要は目を凝らして辺りを見渡した。
「どうした?」
「ラビアンが消えた!」
「……消えた? ジョゼッタ!」
「確かです。ほんの一瞬でした」
 剣を握りしめてあたりを警戒しながらジョゼッタは頷く。どこか足をとられる場所があるのかと地面を確認したが、穴や崖などは存在せず、隠れる必要も見当たらない。陸のように悪戯をするタイプではないから、トラブルに巻き込まれた可能性は否定できない。
「――魔獣ってさ、人間を襲う?」
 森に入る直前話した人間は、怯えながら虚ろな目で訴えてきた。神の怒りに触れれば魔獣が襲い掛かってくるのだと震えながら告げて逃げ出した。
「わからん。最近ではずいぶん数が減ったが、未開墾の土地にはおおく生息していると聞く。人を襲う事もあるらしい」
 きっとセタの運河にいた、人を襲う巨大な魚も魔獣の類だったのだろう。この森にもあんな未知の生き物がうじゃうじゃいるのかと思うと嫌な汗が噴き出してきた。
「でも、消えるなんてこと……」
 しかも、目の前から一瞬にして姿を消したのだ。魔物の仕業なら、何らかの音や悲鳴がしてもおかしくない。忽然と消えたなど、どう考えても普通ではない。
 では、魔獣ではないのか。
 ぞくりと背筋が冷える。霊山には、女神にたずさわる何かがある。女神伝説の残る霊山――不思議なことに詳細を知る者はなく、ただ噂だけが息づく土地。
 霧と、魔獣に守られた聖域。
 トゥエルが剣をかまえた。
「ジョゼッタ、探せ! オレの子を産む女だぞ、アイツは」
 女騎士に命令し、ぼそりとトゥエルがとんでもない事をつけたす。本人はいたって真面目らしいが、しかし、要の常識からすれば充分に犯罪だ。それに、ラビアンにその気はまったくない。
「……本人の意思は?」
「子供ができればこっちのものだ」
「……」
 強行手段を取りかねない男に呆れて溜め息が出る。何を焦っているのか、彼はやけに跡取りにこだわって所かまわずラビアンを口説いている。そのたびに小馬鹿にされているのだが、本人はまったく気にしていない。
「もてるんだから他の人にすれば?」
「子ができねば意味がない」
「……不妊なんて珍しくないだろ」
「それでは困る」
 きっぱりと返ってくる。不妊治療ができる設備もなさそうだから気長にかまえたほうか精神衛生上いい気がするのだが、どうやらそれではまずいらしい。しかし、ラビアンが相手なら子供ができるというわけでもないだろう。一体この思い込みがどこから来るのか、要は複雑な表情で首をひねりながらも剣を抜いた。
 遠くで羽音が聞こえる。
「ジョゼッタ」
「聞こえました」
「鳥か?」
「わかりません」
 白いもやの中で黒い影が動き、女の声が続いた。カサカサといたるところで音が聞こえ、間隔をつめるように大きくなる。囲まれたと判断すると、軽く男の背が要のそれに当たった。
「人を斬ったことは?」
「ない」
「狩りをしたことは?」
「……ない」
「生き物を、殺したことは?」
「虫くらいなら」
「……敵から目を離すなよ」
「……わかった」
 最後の会話はやけに投げやりだった。思い切り腰がひけている。運動神経はそこそこだが体育の授業は苦手な科目にあたるという要の心臓は、今にも張り裂けそうなほど暴れている。じわりと額に汗がにじんだ。喉が渇いて唾を飲み込もうにも口腔さえ干上がってしまっている。
 こんなはずじゃない。泣き言のような想いが胸に広がる。どこにでもいる普通の学生が、こんな見知らぬ土地に落ちてきて、命懸けの戦いに挑むなんてあまりに馬鹿げている。
 下がりそうになる剣先を慌ててあげた。
「死んだら、終わりかな」
「当たり前だろう」
 音がさらに近づく。ふと、何かが頬を撫でる。風かと思ったが濃密な霧が動いた気配はなく、世界だけがざわついている。
 頂点に達しかけた恐怖が急速に引いていく。再び彼の近くで霧が動いた。
「女神伝説が残る土地」
「なんだと?」
「霧は女神が流した涙――魔獣は、過去に聖獣と呼ばれた生き物の成れの果て」
「要?」
 ふわりと目の前で霧が動く。長く、あまりに長く個体であったために己の意思を持った霧は、踊るように要の周りから引いていく。
「セラフィ、ここに眠るのは?」
 虚空に問うと、背後のトゥエルが振り返ったのがわかった。
「セラフィ、答えて。ここには何があるんだ?」
――私の、心。オデオ神が最後に狙うもの。宝玉と呼ばれるもの。
 沈黙を守ることが多い女神は、わずかな知識を彼に与え、風にささやきを乗せて告げる。
「どうして言わなかったんだ?」
――本当は、来る事も反対だった。宝玉を持つことは危険だから。
「……霧を何とかしてくれる?」
――無理だわ。これは、すでに私ではない。
 結局自力で行けという事らしい。溜め息をつくと、ごそりと要の背後が動いた。
「なんだ?」
「礎の女神様がちょっとね」
 正直に答えると奇妙な顔をされた。確かにまともな話じゃないなと納得し、要はジョゼッタを呼び寄せる。
 ざわざわと辺りが騒がしくなる。多くの足音が耳についた。
「囲まれたな」
「襲ってはこない」
「保障できるのか?」
「ああ、今はね」
 今は戦力を分散させているに違いない。意外に狡猾だと、要は内心で呆れた。彼らが欲しがっているのは宝玉と呼ばれたものなのだろう。そして、彼らにはどうしてもそれを手に入れることができない。
 だから、利用するのだ。ここに迷い込んだ人間を。
 利用して、望みのものが見つかった時――。
 要は双眸を閉じる。
 約束をした。だから、いるはずだ。
「陸」
 濃密な霧は過去に女神の体の一部だった。その霧に向けて、要は口を開く。
「――死ぬなよ。お前、あの子を助けなきゃいけないんだからな」
 意識を集中させる。この霧が女神の一部なら、まったく何もわからないという事はないはずだ。要は礎の女神の依代となった人間で、同時にオデオ神の依代となれる肉体を持つ。他の誰よりも順応性は高い。
 霧の中の音を探る途中、要は別の何かを発見した。
「人がいる」
「何も見えんぞ」
「三人」
「どこだ?」
 トゥエルは要が見つめる方角に視線をやって怪訝な顔になる。黒い木の影はあれどもそれ以外のものは何もわからない。しかし、要は霧を凝視してまっすぐ指をさした。
「陸のパーティーだ。……アイツ、はぐれたな」
 ひくりと要の顔が引きつった。


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