act.72  クッキーの崩れる音


 軽い音にトムは顔をあげた。いつの間にか甘い香りが鼻孔に届いてそれをくすぐる。
 隣を見るとジョニーが純白の布を丁寧に開いている最中だった。
「なんだ?」
 首を傾げると、相棒はへへへ、と照れたような笑い声をもらした。
「部屋においてあった焼き菓子、持ってきたんだ」
「……お前もか、ジョニー」
「トムも?」
「非常食になりそうだからよ、ちょっと頂いてきた」
 本来なら乾パンや干し肉が好ましいのだが、そんなみすぼらしいものが王宮の客室に準備されているわけがない。しかし、クラウスと旅をしている経験上、非常食となるものが手元にあれば、ひとまずもらっておくのが習慣になっている。
 二人は互いに持ち出した焼き菓子を披露して、小さく歓声をあげた。
 菓子はあくまでも菓子だから、胃にもたれることはあっても通常の食事と違って腹を満たすことはないのだが、さすがに王宮の客室に用意されたものだけあって、どれもこれもが庶民な二人には目の毒と言ってもいいほどだ。店の一角――どころか、目玉になりそうなものばかりだ。
 トムとジョニーは互いの手元を凝視して、同時に手を伸ばした。
 交差した手は焼き菓子を一つ掴んで引っ込み、いそいそと口元に運ぶ。
 む、むむぅだの、しまりのない声をあげて咀嚼した。
 色とりどりに飾られた菓子は、見た目が一級品なら味も一級品である。一般にニュードルではサクサクとした歯触りが好まれるため、焼き菓子の多くは軽く壊れやすいのだが、中にはしっとりとした食感のものもある。物珍しく奪い合うように食べていると、ふいに視線を感じて動きをとめた。
 二人は不思議そうに辺りを見渡す。どこまでも続く深緑は果てがなく、ひときわ大きな樹木が上空を侵食していて自然は豊富だが、生き物となると意外なことに一切見当たらない。まわりに人がいないことを確認してから、彼らはようやく間近に眠っている少女のことを思い出した。
 見れば、少女は伏していた体を起こし、涎をたらさんばかりに二人の手元を凝視していた。
「……喰うか?」
 問えば少女は大きな純白の翼を少しだけ動かした。人とそれ以外を組み合わせて作られた、魔術師たちの英知の結晶をキメラ≠ニ呼ぶ。廃れて久しい呼び名ではあるが、まったく耳にすることがなくなったというわけでもない。
 人ではないモノに果たして言葉が通じるだろうかと不安になったが、少女はごくりと喉を鳴らしてから、怯えながらも手を伸ばしてきた。
 そして、小さな焼き菓子の欠片を掴んで慌てて口に放り込む。緊張した顔が少し緩んだのを確認し、トムは焼き菓子の乗った布を地面におき、そこから少し離れた場所に移動した。
「トム?」
「お前もそれ置いてこっちに来い」
 指をさして指示され、ジョニーは素直にそれに従った。
「怖がってる時には無理に近づかねぇほうがいい。――おい、嬢ちゃん。それ、結構美味いだろ? 食ってもいいぞ」
 声をかけると、少女は驚いて大きく肩を揺らしたものの、言葉は理解できるようでトムとジョニーを警戒しながら焼き菓子のある場所にしゃがみこんだ。腹が減っているのは確かだろう。まるで小動物並みの動きで、彼女は二人が動くたびにその場を離れ、危険がないとわかると菓子のある場所まで戻るという行動を繰り返していた。
「……持ってきゃいいのに」
「知能がそこまでないのかもな。……話せると思うか?」
「言葉は通じてるんだろ?」
「ああ、たぶんな」
「じゃあ話せるさ」
 ジョニーはあっけらかんと意見する。相棒のお気楽さに苦笑しながら、トムは少女に視線を戻した。
「さて、どうする? アルバ神は連絡取れねーし」
「……あのさ」
「ん?」
「……血の匂いがするんだけど」
「やっぱ血か。……キメラは神を降ろす依代つってたな。アルバ神が会わせようとしたってんなら……」
「――ああ、光の正体の」
 森の一部を発光させた、あの時の嫌な気配が少女にまとわりついている。オデオ神、と二人の心が同時にその名をはじき出した。
 破壊と創造をつかさどる、神々の中でも異端と呼ばれるモノが少女の中を食い荒らしている。今は幸いオデオ神が出ていないようだが、表面化すればただでは済まされないだろう。
 すぐにでもここを離れたほうがいい。争いごとに縁がない二人は、主の世話を焼くことは得意でも、主を守ったことなど過去に一度もないような従者失格の従者である。非力なことをよく理解していたクラウスは、すすんで剣を抜いて従者を守る物好きな主人であった。
 ここはいつもの通り逃げるが勝ちの場面だ。
 しかし、逃げても助けを求める相手がいない。いたとしても、対峙するのが神様ならば結果は見えている。
 トムとジョニーはガリガリ頭をかいて、肩の力を抜きながら盛大に溜め息をついた。
「仕方ねぇさ、必要だって呼ばれちまったんだから」
「せめて死ぬ前に一度でいい……」
「あん?」
「女の手を握りたかった……!」
「……」
「一度で!」
「……そうだな。一回くらい握ってもいいかもな」
 半歩ぶん身をひきながらトムは曖昧に頷いて引きつり笑いを浮かべ、視線を相棒からキメラの少女へと移動させた。
 焼き菓子を平らげた少女は、どうやら機嫌がいいらしい。大きな翼をわずか揺らし、クンクンと大気をただよう甘い香りを堪能していた。
「美味かっただろ?」
 軽く尋ねると、少女は大きな目を丸くして二人を見た。その顔におびえのようなものを読み取って、トムは肩をすくめてみせる。
「オレたちゃ大して力もない。武器もないし、武術はからきしだ」
「まえ習ったんだけどな」
「ああ、そういえばそんな事もあったな。怪我して大変だった」
「こう、はあぁあぁーってヤツをよ?」
「ほぅうぅーってヤツだろ?」
「はあぁあぁーってヤツだったって」
 緊迫感を出そうと、へっぴり腰で過去に習った構えを再現しているとそれを見ていた少女の警戒が緩む。おお、これは意外と早く打ち解けそうだなと、二人は同時にそう考えて視線を交わした。
「ところで嬢ちゃん、名前は?」
 交友の基本は自己紹介だと主張するトムは軽く口を開く。
「オレはトムで、こっちが」
「ジョニー」
 妙な格好のまま名を告げると首を傾げた少女から、
「ココロ」
 と小さく言葉が返ってきた。
「へぇ、可愛い名前だな?」
「可愛い?」
「ああ、可愛い。それでココロはどうしてこんなとこにいるんだ?」
「……陸とはぐれた」
「りく?」
 悲しげに項垂れた少女の動きにトムははっとする。そして考え込んでいるジョニーの脇腹をつついて目配せした。
「恋人だろ、恋人! あの歳なら!」
「お、おお、そりゃ大変だ!」
 拡大解釈をやってのけ、二人はオロオロと辺りを確認する。いくらキメラとはいえ、いくら破壊神がいるとはいえ、見た目は年頃の少女である。実は少し前まで幼女の姿だったとは知らない従者は、彼女を恋人の元に届けるために森を抜ける道を必死で探す。
 しかし道らしい道がない。
 だいたい、ここがフロリアム大陸のどこに位置するのかすらわからない。
「どうするジョニー」
「わかんねぇよ、トム」
「ひとまずこういう場合は、動かないか来た道戻るかだな」
「来た道……ああ、あのでかい木の?」
「ニュードルに戻れるかもしれない」
 望み薄だがじっとしているわけにもいかず、二人はココロと名乗ったキメラの少女を説得して歩き出した。やはり警戒を完全に解くことはしないようで、少女はほんの少しだけ二人から離れて付いてくる。
 仕方ないかと苦笑をしながら、三人は長く続く樹海の中を縦横無尽に広がる上空の枝を確認しながら進んでいった。
「足元、気をつけ――」
 ジョニーの言葉の途中で枝を見上げていたココロの体が大きく傾き、とっさに二人の手が出て彼女の体を支えた。翼のぶんだけ重いように見えたが、しかし実際には普通の人間と大して変わらない体重のようで、予想された重量には程遠かった。
「大丈夫か?」
「おお……!」
 ココロへの問いに答えたのはジョニーである。トムが眉をしかめて隣を見ると、ジョニーは己の手を見つめて奇声を発している真っ最中だった。
 ああ、そういえば手を握りたいとか言ってたなと、トムは冷静についさっき交わした言葉を思い出した。
 願いの一つはこれで叶ったらしい。
「もういつ死んでもいい――!」
 それはあまりに気が早すぎるので、トムはそっとジョニーの肩に手を置いた。
「せっかくだから嫁さんもらってから死ね」
「お……おお!」
「欲を言えば子供が生まれてからがいい」
「おお!」
「さらに理想的なのは子供が独り立ちしてから」
「おお!」
「孫ができたら万々歳。腕に抱くまでは死ねないさ」
 そうやって、世界は何のかんのとうまくいくようにできている。妄想に囚われた相棒は、明後日の方向を見つめて笑顔を浮かべていてなかなか不気味だが、そんな光景を見慣れているトムは唖然としているココロに笑顔を向けた。
「あんたも早く恋人に逢えるといいな」
「……恋人?」
「ああ、ほら、りくってヤツにさ」
「うん!」
 ぱっと花が咲くような笑顔を向けられ、よほど好いた男なのだと判断した。奇妙な名から彼女と同じでキメラなのかとも推測したが、彼女を作った魔術師か、魔術師から彼女を受け取った人間という可能性もある。
 嬉しそうに歩く彼女の様子から、破壊神を彼女に降ろした張本人とは到底思えなかった。もしそうなら残酷な話ではあるが――おそらくは、何か別の要因があったのだろう。はぐれた原因や血臭の理由を考えると背筋が凍るが、今はアルバ神の指示通り、彼女とともにいるほうがいいような気がしてトムは無言のまま巨木へと向かった。
 やがて森が切れ、天を覆うほどの枝を抱えた幹へと辿り着く。
 改めて見上げなおし、ココロは小さな声を発した。
「古代樹」
「この木の名前、知ってるのか?」
 トムの問いにココロの表情が動く。大きな目が細まり、明るい笑みとは異質の嘲笑交じりのものがその顔に広がった。
 ざっと鳥肌が立つ。
 眠っていた何かが彼女の中で目覚めたのだと、普段はあまり冴えない二人が瞬時に悟った。
 人よりなお残酷な、神話の時代に生きた者の命が彼女の小さな体の中で蠢いている。
「これは、古代樹」
 するりと少女は音もなく歩を進め、古代樹の根元に近づく。華奢な指を伸ばして幹に触れると、苔むし青々としている樹木の表面が瞬時に変色した。どす黒く変わった次の瞬間には白く炭化し、それは瞬く間に表皮に広がって驚くほどの速度で幹全体を変えていった。
 急激な変化に耐え切れず樹木の表面に深い亀裂が幾筋も現れると、高い女の悲鳴のような音があたりに響き渡り、トムとジョニーはとっさに耳を塞いだ。
 悲鳴のような音ではない。それは確かに、断末魔の叫びと表現しても過言ではない悲痛な声だった。
「女神の四肢の欠片」
 青々と茂った葉は灰となりすべて砕け散り、残された枝は幹同様に炭化した。
 異様な光景、異様な気配。健やかに育ってきただろう巨木は、わずか数分のうちに炭化し、さらに気味の悪い変化を見せていた。
「ココロ」
 樹が死んだ。どこにでもあるというわけではないその巨木が目の前で死に絶えたことに、トムとジョニーは言いえぬ虚無感を抱いて立ち尽くしている。
 女神の四肢、大地を守る礎の樹。
 ――古代樹。
 世界中に点在するその樹のお蔭で、この大陸は過去に水没を免れている。
「……選べ」
 冷ややかに少女がわらう。大きく広げた純白の翼は、おぞましい音をたてながら形を変え、色を変えていった。
 原形をとどめないほど変容した黒翼を背負う少女は嘲笑を浮かべて手を差し伸べる。
「選べ。我に付き従うか、我とともに世界を滅ぼすか」
 どちらも真っ当な道ではない。世界を守る樹を一つ殺した少女は二人に向けて手を差し伸べ続けている。呼吸すら忘れて硬直するトムの隣で、ジョニーは大きく頷いた。
「従う」
 緊張して裏返った声は、はっきりと彼の意思を伝えた。
「オレは従う」
「ジョニー……」
「トムもだ」
 相棒の考えが読めずに狼狽するトムに、ジョニーは力強く頷いてから少女に顔を向けた。
「オレたちはもともと大国の王子の従者だ。あんたと同じ位置には行けない。だから、従う」
 きっぱりと断言するひょろ長の男に、オデオ神は目を見張ってから肩をゆするようにして笑った。
「――よかろう。殺すつもりだったが、仕えさせてやる」
 向けられていた手がわずかに動く。少女は二人に近づいて嘲笑交じりの表情のままその体を引き寄せた。
「飛ぶ。落ちれば死ぬぞ」
 翼が大きく広がると、そこから嫌な音が響いてそれがさらに変形する。異様なほどの肥大した双翼が大気をかき混ぜると、一帯に生えていた樹が次々と色を失っていった。
 枯れているのだ、と気付いた時には少女の体は宙に浮いていた。
「うわ……」
 思わず少女の体にしがみ付いた。翼のひと掻きでぐんと高度が上がり、見る見る地表が遠くなっていく。高みから見ると地上の樹が立ち枯れていく様は一目瞭然で、絶景とは言いがたい光景が延々と広がっていた。
 まるで終末を予期させるような景色。
 高度がさらに上がった。と同時にジョニーが奇妙な声をあげ、トムはつられて彼が見つめる先に視線をやった。
 空がゆらゆらと揺れている。水みたいだ、と思った直後、それが本当の水であることを知った。
「なんで空に水溜り――!?」
 悲鳴をあげても少女の上昇は止まらない。さらに翼が大気をかくと三人は天空を覆った水に突っ込んだ。
 息を止め、思い切り目を閉じたトムは、しかし、いつまでたっても訪れない水に焦って顔をあげた。
「……あれ?」
 目を開けた先は広大な森林、遠方には緩やかな曲線を描く丘、その奥には鋭い峰を持つ山が連なっていた。わずかに濁る空は雲と空が交じり合ってできた独特の色を持っている。目を瞬き、つい先日見たばかりの風景に混乱しながらトムは少女にしがみ付いたままジョニーに視線をやった。
「おい、ここって」
「セタの運河だ。バルトの近く……」
 翼が加減しながら羽ばたくと三人の体がようやく降下を始めた。ホッと息をつくと、その足の裏が大地に触れた。
 一体今まで自分たちがどこにいたのか。
 トムとジョニーは少女にちらりと視線をやってから、息を呑んで肩越しに背後を見た。
 セタの谷は大運河と呼ばれるほど大きい。周りに水路は多くあるが、これほどの河はフロリアム大陸でも類を見ない、そんな規模のものである。
 その、河が。
 二人は青ざめながらほとりに近づいた。
 対岸が見えないくらい巨大な河は、水底も容易に目にすることができないほどの水深を誇っている。その運河の水が。
「――そんなバカな」
 目にしたのは絶壁の谷。魚はおろか水一滴ない干上がった土地のその下には、空間を埋めるように石化した枝を大きく広げた巨木が一本だけ立っていた。
 想像を絶する光景に言葉もなく見入っていると、忍び笑いが背後から迫ってきた。
 少女の体を媒介にした破壊神は過去と比べれば弱くなっているに違いない。だが、決して世界を崩壊できないわけではない。
 知識を有し、それを実行するだけの行動力を有すれば、あるいは悲劇が訪れるだろう。
 アルバ神がなぜこの少女のもとに二人を導いたのかは判然としないが、任された役どころは想像以上に重大なようだった。
「なぁ、トム」
 低く呟くノッポに髭面の小男はちらりと視線をやった。
「オレ、英雄になれるかな」
「なれるさ。――生きて帰ってこれたらな」


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