act.71  幸福


 要は基本的には寝るのが好きだ。
 幼なじみである陸は睡眠より食欲を優先させるタイプで、半分寝ながらでも食事を続けようとする男だが、要はそれとはまったく正反対だった。
 ちなみに昨日の夢は最悪だった。
 楽しいはずの時間も結果として微妙なものに変わっている。
「なんで夢に出てくるんだ……?」
 幼なじみが夢に出てきたことなど過去に一度もなかった要は、気味悪そうに腕を組んで唸り声をあげた。
 夢は時折、現実との境目を消し去る。
 あまりにリアルだったその夢のせいで、実際に体感したわけではないとわかっているのに戸惑いを消すことができず、要は朝からずっと眉をしかめ続けていた。夢を神様のせいにしてしまう思考には我がことながら呆れてしまう。
「なんなんだ、お前は」
 そんな彼をラビアンは不機嫌に見つめる。
 重い音をたて馬車が大きく揺れてから、要はちらりとラビアンを見た。ルーゼンベルグ王の別荘を出てすでにかなりの時間が過ぎている。レースのカーテン越しに車外を見ると、延々と続いていた森は途切れ多くの建物が軒を連ねていた。いつの間にか町に入ったらしい。
 そういえば、派手に揺れる馬車のお蔭で何度も気分が悪くなりそのたびに馬の足を止めさせていたが、その振動がずいぶん軽度なものへと変化していた。
「馬車、苦手だ」
 それでも変わらない感想をボソリと口にすると、車内の二人は呆れたような顔になる。
「贅沢なことを言うな」
「気に入らんなら首に縄をつけて走らせるぞ」
「だから、こいつは体が弱いと言ってるだろ!」
「ああ、そうだったな」
 いくら丈夫でも、普通は首に縄をつけて走らせるという発想にはならないだろう。拷問の方法をさらりと口にするトゥエルを盗み見て要は無言のまま肩を落とした。
 いまさら嘆いても仕方ないが、自己主張の激しいメンバーに憂鬱になる。一国の王と王女なら多少は良識ある人間でないと困りそうなものだが、二人を見る限りそんな様子もない。よほど仕える者が優秀とみえる。
「……なんか疲れたなー……」
 自分から王都の王を巻き込んでおきながら、要は遠い目でつぶやいていた。
 夢の中では陸も似たような状況だと言っていた。あっちはあっちで大変そうだと、いまだに乗り物酔いを引きずっている要は混乱しながら考える。
 馬車を操るのはジョゼッタという女騎士だった。他の護衛は同行させずに彼女だけを連れて行くトゥエルの考えは、要にはいまいちよくわからない。だが、連れて行くならそれなりに腕が立つのだろう。
 ますます陸との接点ができ、さらに複雑な心境になる。
 要はぼんやりと外を見た。
 目的地には、ほとんど休息を取らずに馬を走らせてもたっぷり二日はかかるという。その間この苦行に耐えなければならないのだと思うと、気鬱を通り越して逃げ出したい心境になった。
 きゃんきゃんと弾む――実際には一方的に険悪な――車内の会話を耳にしながら外を眺めると人だかりに気付く。要は体を起こして窓に張り付き小首を傾げた。
「なに?」
「結婚式だろ」
 要の見つめる先を確認してから興味なさげにラビアンが告げる。よく見れば派手に着飾った男女が人だかりの中心ではじけるような笑顔を浮かべていた。
 籠をもった女たちが手を振り上げると、色とりどりの花弁が空を舞った。
 どこでも祭りごとは派手らしい。
「便乗して式でも挙げていくか?」
「その腐った脳を何とかしたら考えてやる」
 同じように車外を眺めたトゥエルの言葉にラビアンは刺々しく返す。ここまで会話が続くなら、いっそ気が合う部類に入るのではないかと要は他人事ながら考えるのだが、睨まれるのが嫌なのであえて口にはしなかった。
「――少し寄るか」
「まだ言うか、お前は」
「食事だ。それに、お前の奴隷も真っ青だぞ」
 険を孕んだラビアンは、トゥエルの一言に慌てて要の顔を覗き込んだ。森の中で、あれだけ頻繁に馬車を止めさせていたのにまったく気付かなかったらしく、彼女は背後にある小さな窓を開いてジョゼッタに馬車を止めるよう命令した。
 とても食事ができる状態ではないが、外の空気を吸えるのはありがたい。圧迫された胃を思い切り伸ばして休ませれば、少しくらい楽になるだろう。
 ほどなく馬車は速度を落とし、荒い馬の嘶きとともに大きく揺れてから停車した。
 よくこんな物に平然と乗っていられるなと心の中で毒づいて、要は急いで車外へ飛び出す。外気はひやりとして心地よく、胸の奥で循環を忘れて腐っていた空気がゆっくりと流れ始めるようだった。
「水を持ってくるか?」
「ん、欲しい」
「おい、トゥエル! 水!」
 ラビアンが怒鳴ると要はギョッとする。初めはあれほど従順なそぶりを見せたのに、まるで化けの皮がはがれたような変貌ぶりで幼い王女は眼光の鋭い男に顎で命令した。
 馬車から降りて慌てるジョゼッタの姿からも、この命令がいかに無謀であるのかが知れる。
「ラビアン……ッ」
「早くしろ」
「……ジョゼッタ」
 要がラビアンを止める前に、トゥエルは立ち止まった女騎士を見た。
「食事のできる店を見つけたら水を持って来い」
「は……」
「行け」
「はい」
 わたわたと駆け出す後ろ姿を唖然と見送って、要はラビアンに視線を戻した。世間知らずは色々な意味で紙一重の要素をもっているが、今のところはいいほうに働いているらしい。
 これもトゥエルがラビアンに興味があるから成立する現象かもしれない。
「……日本だったら警察沙汰だな」
 ラビアンは十四歳だと言っていた。そしてトゥエルはどう見ても二十代――それも、確実に半ばだろう。常識がまったく違うのだから、その歳で結婚するということもあるかもしれないが、要にとっては異様な世界としか思えない。
 困惑しながら二人の姿を見ていると、視界のはしに先刻の一団が押し寄せてきた。
「何してるんだ?」
「ああやって結婚したのを祝福してもらうんだ。あれで町一周する」
「歩いて?」
「大きな町なら馬車だな。この規模なら、途中で乗るかもしれん」
「……なんか色々違うんだな……」
 神様やキメラがいる世界なんだと項垂れながら考える。結婚する相手もいないのに指輪だけはある要は、違和感にふと眉をしかめた。指に絡みついていた不快な感触が消え失せているのだ。
「あれ?」
 要は左手を持ち上げて動きをとめる。
 昨日まではそこにトゥエルとそろいの指輪があり、どんなに抜こうと思ってもビクともしなかった。しかし、いま彼の指には何もない。慌ててトゥエルの指を見たが、要とは対照的にその指にはリングが輝いていた。
「どうなってるんだ……?」
「要?」
「……契約の指輪っていったい何なんだ?」
 独り言のように問うと、ラビアンがぴたりと動きを止める。もごもごと口を動かし、それから小さく言葉を発した。
「知らん」
「って……」
「神話の時代の遺物だ。正確な意味などわからない。だが、最終的に指輪をはめた者同士が互いを束縛するような関係になる」
「主人と奴隷?」
「それ以外考えられんだろ? 私が主人なのに、どうして私の指に――おい!」
 ラビアンの考えに疑問を抱きながら手を太陽にかざすと、脇から強引に引っぱられた。
「お前、指輪はどうした!?」
「……陸が……」
「なんだと!?」
「陸のやつが持ってった……あれ、……夢じゃなかったのか……?」
 ひとときの邂逅かいこう――現実ではないはずのそれは、夢というにはあまりにもリアルに要の前に存在していた。
「じゃあ、また会えるのか」
 交わした言葉が真実であれば、希望が途切れたわけではない。同じ場所に、同じ目的で向かっているとわかっただけで、全身の力が抜けるようだった。
 要は馬車にもたれかかり、張り詰めた糸が緩んで小さく笑った。どんなに平静を装っても、これだけ世界が違えば不安になるのは仕方ない。帰る方法もわからず、唯一同郷である男とははぐれてしまった今、信じられるのは自分の勘だけだと、彼はそう思っていた。
 しかし、そうではないらしい。
 どこかでちゃんと繋がっているらしい。
「ああ、クソ……会ったら思い切り殴ってやる」
「何を言ってる?」
「……指輪は陸のところだ」
「りく?」
「幼なじみ。夢で会って、その時あっちに行った」
「――熱でもあるのか?」
 むぅっと口を引き結んでラビアンが手を伸ばし、ひやりとしたそれが要の額に触れる。
 シャン、シャン、シャン、と、鈴の音が響いた。
 声高らかに幸せを歌う人々に混じり、澄んだ音色が大気を満たす。身に響く歌声は、柔らかな風となって大地を駆けた。
 ――女神が。
 ここは、大地を愛した女神が礎となって守り続けた世界。
 空想の産物ではない人々が生きる場所。
 女神の四肢は人々を未来へ導くために大地に根付き、巨大な樹木となって世界を支えた。
 その樹は、やがて古代樹と呼ばれるようになる。


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