act.67  かなしみ


 四肢が引き裂かれるような、あるいは優しく残酷に押しつぶしていくような、恐怖を塗りこめていく苦痛がじわじわと広がっていく。
 目の前には血だまりがいくつもあった。壁にはべったりと血が張り付き、肉片が粘着質な音をたてて上から下へと滑り落ちていった。
 そこでようやく、小さな部屋にいるのだと知る。
 いたるところが赤く染まっている光景に戦慄した。人の所業ではない。それこそ、血が通っている者には到底できるはずもない残虐な行為だ。
 臓器の一部が床に落ち、ぴくりぴくりと動いていた。
「さすがにしぶといな」
 嘲笑がにじむ声で囁く。哀れみなど感じないであろう、冷ややかな声音。事実、低い笑い声が部屋中を満たした。
 足を持ち上げ、踏みおろす。肌に沁みるような暖かさと弾力に悲鳴をあげそうになったが、その口から言葉が出ることはなかった。
 人であったものが散乱していた。肉塊の一部をつかんで口元に運ぶと、血臭ではなく芳香が漂い、ひどく甘かった。口の中でとろける塊は、至上の果実のようでもある。
 また一つ、肉塊を口に運んだ。
 嫌だとどんなに叫んでも、食べることがやめられなかった。体の自由が利かず、満足するまで散らばった物を拾い上げた。
 そして顔をあげ、自分の体が血のりで汚れていることに気付く。
 自分の家にいるような気安さで湯殿に向かって体を清め、置いてあった柔らかい布で体をふき、布袋から服を取り出してそれに着替えた。適度な装飾をほどこした上品なドレスだった。靴までそろえて入れてあるのが助かった。
 着替えたあとで、何かが視界のすみをかすめたことに気付きゆっくりと振り返る。
 そこには大きな鏡があった。
 多少くすんではいるが、一般家庭でこれほど大きな鏡を置いてある家は珍しい。感心して見入っていると、「自分」の顔が鏡に映った。
 大きな瞳は獣じみた光を宿し、紅をさしたように真っ赤な唇は薄笑いを浮かべていた。
 たすけて。
 鏡を凝視したまま絶叫する。
 たすけて、たすけて。
 言葉にすらならない悲鳴。ようやく出会った優しい人は遠い場所にいて、身近にはよどんだ空気で満たされた空間だけが存在していた。心細くて寂しくて、ただ傍にいて欲しくて何度も名を呼ぶ。
 りく、と。
 困ったような笑顔が優しかった。細胞が軋み続ける体――長くいっしょにいられないと身を以って知ってはいたが、不安を感じたことはなかった。
 傍にいられるだけでいい。
 少しでも長くいっしょにいられるのなら、短い命を後悔することはない。
 それなのに。
 目の前に自分が知らない「自分」がいる。
 りく、と何度その名を読んでも、鏡の中の自分は口を開くことはなかった。
 その意味がわからずに、彼女は心の中だけで泣き続ける。人を殺した時に感じた恐怖と絶望は、恍惚とした陶酔に飲み込まれてしまった。断末魔の叫びはひどく耳に心地よかった。
 どこかが少しずつ崩れていくような感覚。
 りく。
 その名前すら、いつか崩れてなくなってしまうに違いない。
 恐怖も絶望も何もかもがなくなってしまう。
 その前に、どうか、どうか――。
「ココロ……ッ」
 大声をあげて陸は目を見開き、喉を押さえて大きくあえいだ。何が起こったのかよく判らず、彼はあたりを見渡した。
「ココロ?」
 すぐ近くにいるような気がした。そう、恐ろしいほど近くに、まるで自身が彼女であると錯覚するほどの距離に。
 しかし目の前には何もない。ココロの姿も、共に旅をすることになった派手な服の「王子さまご一行」もいない。
 ああ、船長はいなくて当然か、と陸は思い出す。部下の墓を作って一度王都に戻り報告をすると言っていた。
 ぼんやりとそこまで考えてから、陸はのろのろと首を動かした。
 両足はしっかりと大地を踏みしめている。しかし、頭上には空がない。抜けるような青も、白い雲も、太陽すら存在しない。
「夢か」
 溜め息とともにそう吐き出した。ココロの夢。心細く、きっと泣いていたのだろう。今も泣いているに違いない。言葉さえ上手く操れない彼女は一人ぼっちなのだ。
 そう思おうとして、唇を噛んでうつむいた。
 一人ならどんなによかったか。
 一人でならそう遠くに行くことはないだろうから、すぐにでも彼女を捜すために支度を整えて旅立てばいい。要を探すことも重要だが、今は彼よりもココロのほうが気がかりだった。
 見つけたら今度はいっしょに要を探すのだ。少し遠回りになるが、要の小言には慣れている。説教くらい何時間でも聞く準備がある。
 そんな幻想を描いて苦く笑った。
 実際には、そんな安易な状況ではない。
 ココロの体はキメラを取り込んだ。
 そしておそらくは――人を喰らって、恍惚となっていたのだ。
 正確には彼女が、ではない。だが、他人から見れば関係などない。彼女は破壊神を宿したキメラで、平然と人に危害を加えるのだ。
 血で染められた部屋を思い出し、胃がむかむかしてきた。陸は脳裏に焼きついた光景を振り払うように頭を振ってから大きく息を吸い込む。
「少し辛抱してろ。すぐに見つけてやるから」
 誰に言うでもなく囁く。その瞬間、眼前がわずかに翳った。
 柔らかな風が髪をそよがせ、彼は不思議に思って顔をあげた。
「げ」
 奇妙な声が漏れる。
 何もない平坦な世界――地平線さえ見えるその大地に、巨大な扉が突如として現れていた。
「夢だ、夢」
 他にどう表現していいのかわからなかった。唖然と見上げる彼の目の前で、その扉が低く軋みをあげた。


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